とある寺院の日記。苦労もあれば夢もあります。ごくごくフツウの毎日ですが・・・。
tera日記
葬式仏教~仏教随話(1)
仏教教義と葬儀とは関係が無い、として葬式仏教を批判する有識者もいます。一方で、生と死について真正面から向き合って、人間の死という一大事に対応して供養回向の儀式を担当するようになった日本の伝統仏教各派の存在意義は多大であったとも言えます。
最近の研究では、江戸期初頭に寺院数が急増した原因は、一般庶民に対する葬儀の必要性に対応するものとの説もあります。葬儀が一般化した時期とリンクするからです。とすれば、寺院の存在意義は葬式仏教にこそあるとも言えましょう。
昨年、各宗派の僧侶のみなさんと葬儀についての勉強会がありました。葬儀儀式の情報交換で明らかになったことは、現在の各派で行われている儀式内容の多くは、中世期以降、禅宗で行われていた僧侶葬儀法の一般人適用になっていること。つまり、修行半ばで亡くなった僧に対して経典を読経し、代わりに追善の修行を積んで修行を完遂させてあげることに由来した訳です。一般在家の人には、この課程を亡くなった後に出家式からまとめて行う(没後作僧)儀式として定着してきた訳です。ここに僧としての証、戒名が存するようになったのです。
そして面白いことに、禅宗以外の各派は、禅宗形式を取り入れるのと同時に、あの世としての死後の行き場を「浄土」としての仏国土として捉えているところに特徴があります。浄土教系統の宗派はもとより、天台・真言・日蓮各派も同様なのです。かえって禅宗は浄土と呼ぶには違和感があり、生きている現実に重点を置いているように思えます。いずれも、亡き人を敬慕し、安心していただく儀式が葬儀で、見送る親族の安堵の心に、ともに安らぎを見出すところは共通するところです。
現在、直葬と呼ばれる葬儀無しの告別化が増えてきている中、人の死を見守ってきた寺院・仏教の存在意義について改めてアピールして、亡き人と生き残る人にとっての安らぎの儀式であることを伝えて行きたいものです。
※直葬(ちょくそう)・・・葬儀をしないで直接、荼毘すること。東京では、最近のデータでは亡くなった人の3~4割りが直葬だということです。
最近の研究では、江戸期初頭に寺院数が急増した原因は、一般庶民に対する葬儀の必要性に対応するものとの説もあります。葬儀が一般化した時期とリンクするからです。とすれば、寺院の存在意義は葬式仏教にこそあるとも言えましょう。
昨年、各宗派の僧侶のみなさんと葬儀についての勉強会がありました。葬儀儀式の情報交換で明らかになったことは、現在の各派で行われている儀式内容の多くは、中世期以降、禅宗で行われていた僧侶葬儀法の一般人適用になっていること。つまり、修行半ばで亡くなった僧に対して経典を読経し、代わりに追善の修行を積んで修行を完遂させてあげることに由来した訳です。一般在家の人には、この課程を亡くなった後に出家式からまとめて行う(没後作僧)儀式として定着してきた訳です。ここに僧としての証、戒名が存するようになったのです。
そして面白いことに、禅宗以外の各派は、禅宗形式を取り入れるのと同時に、あの世としての死後の行き場を「浄土」としての仏国土として捉えているところに特徴があります。浄土教系統の宗派はもとより、天台・真言・日蓮各派も同様なのです。かえって禅宗は浄土と呼ぶには違和感があり、生きている現実に重点を置いているように思えます。いずれも、亡き人を敬慕し、安心していただく儀式が葬儀で、見送る親族の安堵の心に、ともに安らぎを見出すところは共通するところです。
現在、直葬と呼ばれる葬儀無しの告別化が増えてきている中、人の死を見守ってきた寺院・仏教の存在意義について改めてアピールして、亡き人と生き残る人にとっての安らぎの儀式であることを伝えて行きたいものです。
※直葬(ちょくそう)・・・葬儀をしないで直接、荼毘すること。東京では、最近のデータでは亡くなった人の3~4割りが直葬だということです。
コメント ( 10 ) | Trackback ( 0 )
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色々なことを考えさせられたログでした。ありがとうございます。
まず、寺院の存在意義が葬式仏教という点について、阿満利麿先生が、日本で宗教として認められるには、葬式の執行者として認められる必要があったということを指摘していました。確かに、創価学会などが既存の仏教を批判していても、実際は彼ら自身も葬儀をしていることを考えれば、この指摘は当たっているように思います。
また、「浄土」についてですが、道元禅師も参照した『禅苑清規』では死者が赴くのは「浄土」ですし、それを無批判に受け入れた初期の『瑩山清規』も、「浄土」でしたが、のちのち曹洞宗の教義に合わせて、そうではなくなっていきますね。
そもそも、「浄土」については、やはり曹洞宗では「常寂光土」という、現在生きる世界がそのまま浄土というとらえ方があったようです。懐弉禅師の『光明蔵三昧』にその指摘があります。
http://wiki.livedoor.jp/turatura/d/%be%f4%c5%da?wiki_id=785
教団が肥大化?したことに端を発する諸問題の考察はtera様とtenjin95様の専門分野かと存じますので、コメントを控えます。
田舎では、益々過疎化が進み、葬儀を出したくても出せない状況が生じつつあります。作僧や葬儀の意義を通夜の後、わずかな時間ですが、お話しすることに重点を置いて勤めております。
ご両人以外でも、こうした問題を含め、多くのご意見がお寄せいただければ、田舎・都市部を問わず、僧の教団の意識改革に繋げていただきたいものです。
各宗派との意見交換は、意義深いですね。
各宗の葬儀が、禅宗に由来しているというのは、興味深いことです。勉強になりました。
私の住む田舎では、寺院の役割は、やはり葬儀が第一のような気がします。
また、勤め関係で、葬儀よりも通夜へのお参りが増えてきました。
そこでの通夜法話が、一般に対しての法話のいい機会になっています。
宗門と浄土の考え方は、ご指摘の通りかと思います。浄土とすると理解されやすいのでしょうが、現実を真摯に捉える禅宗の葛藤も大切なところかと思います。反面、入り込みにくい敷居の高さを感じさせてしまうのかも知れません、特に臨在においては…。宗門的にはこの辺は『瑩山清規』にも見られたように柔軟なように思います。
さて、葬儀式はもとより、伝統的な仏事行事、寺院の存続すら危うい危惧は都市・地方を問わず深刻に受け止めねばなりません。特に過疎地区においては大変なことですよね。昨年、各地で見聞いたしました。宗門もこの辺の末端教化施策に尽力すべきですね。
それにも増して、私たち現場の草の根こそが大事と信じてがんばりましょう。
私の地区でも通夜:葬儀は6:4か7:3の比重になっています。通夜説教、大切だと思います。ただし、読経後は一般会葬者は通夜ぶるまいの席に流れて、わずかな親族のみとなってしまいます。読経前法話も考慮中です。
本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
私は肉親や身近に接した方々の死顔こそ人間としての最高の教えを授けて下さっている、と思います。
あの「全てをゆるすから、皆んな仲良くして暮らしなさい」と言っているかのような穏やかな死顔こそ、極楽浄土へ旅立って行かれるときの別れの表情だと思います。
その辺のところを厳粛な雰囲気の中でご教示して下さるのが僧侶の方々であると私は思っています。
僧侶の方々が誦まれるお経から、その意味は判らなくとも、それが私たちの心の奥底へと浸透してくるような気持ちになるのです。
葬式の場は、残された人々への「心の持ち様」とか「人間愛について」等、生きるための重要な教えを引継ぐ場でもあると思うのです。
私はこのような考え方で、これからも佛教を学びたいと考えています。
今後ともよろしくお願いします。
乱文にて失礼しました。お許しください。
おっしゃる通りの葬儀のあり方こそ、安らぎの葬送であると思いますし、そのように執行されますよう尽力して参りたいと思います。
本年もよろしくお願いします。
お寺のごく日常的なお話もとても参考になりますし、
こういったお話も興味深く、勉強になります。
新たにスタートした仏教随話、楽しみにしています。
ホメノビ派の私としては、とっても励みになるお言葉です。頑張ります。