とある寺院の日記。苦労もあれば夢もあります。ごくごくフツウの毎日ですが・・・。
tera日記
仏教の「あの世」観
「千の風になって」の流行もあってか、あの世についての関心が高まっているようです。葬儀を行わない風潮が高まる反面、事件事故や不慮の死、親愛の人やペットの喪失の悲嘆による精神疾患も多くなる傾向にあります。
そんな世相から、仏教界でもしっかりとした生死観、あの世観というものを伝え、正しく仏教を敷衍する動きがみられます。
先日、ある宗派の青年僧侶の方から、各宗派の考え方も知りたいとのことから、次のような項目のアンケート調査を依頼されました。一部をご紹介します。
1.仏壇・位牌の意義についてどのように説かれますか?
2.お墓参りの意味についてどのように説かれますか?
3.霊魂は存在するでしょうか? ①する ②しない ③分からない ④その他
4.死者の魂はどこへ行くのでしょうか?(魂の存在を説く場合)
①浄土 ②山・海 ③お寺・お墓 ④仏壇 ⑤その他
5.葬儀の意味とは何でしょう。
①教化の場 ②故人をあの世に送る ③故人・遺族へ安らぎを与える ④その他
6.法事の意義は何ですか?
7.死後観を説くにあたっての難しさと、工夫を教えてください。
8.死生観で感動した話、経験を聞かせてください。
9.「千の風になって」の死生観はどう思いますか。またはどう説きますか?
10.お盆には亡き人が帰ってくるといわれます。どう考えて説きますか?
11.輪廻転生、業についてどう説かれますか?
といったものでした。僧侶のみなさんはいつも向き合っている問題ですが、あらためて答えるとなると、「う~む・・・」と、慎重になってしまいます。
一般の方も、「そうそう、それどう考えたらいいのかしら」と、関心の高いものだと思います。実際に答えを聞いても、よくわからないことも多いのです。それだけ、わかりにくく永く語り継がれてきた永遠のテーマともいえましょう。
3.(霊魂)について感想を述べますと、
お釈迦様の説かれた教えからすれば、当時のバラモン教で説かれていたアートマン(我)を否定して無我論・縁起論を展開したわけですから、実体としての霊魂は「ない」と言い切って良いわけです。
・・・が、後の教理の展開において、悟りの境地(ブッダ)の行き場、受け皿の場として、霊鷲山とか須彌山とかが設定されたり、
大乗仏教が起こると、万人が仏となるための受け皿としての阿弥陀如来、大日如来などの思想が興り、西方浄土とか密厳浄土とか呼ばれる魂(精神)救済の場として、行き着く場所が定められてきました。
また、単にさとりの場(仏国土)としての浄土を考えたりして、同じ「浄土」と呼んでも宗派によってニアンスが違うようにも思います。
そして、昇天思想など、仏教が展開した土地古来の宗教観とも融合しあって死生観が出来上がってきていることもあるようです。
禅宗では、あまり浄土とは言いませんが、さとりの境地としての「仏」を目標として、精進・修行などに励み、その行き着く場所としての「ほとけの世界」。または、もともと「ほとけ」に居たのだ(本覚)と考え、その世界に帰着する(即身是仏)と捉えたりします。ですからあくまでも、現実重視ですが・・・、
死後についても、故人の生前の精神の延長線上に、残された生存者の心に反映し、生き方にも関わってくることがあります。そこに、先祖供養・報恩感謝の精神の重要性が存在し、精神(心)としての命(魂)が、存続するとも考えられます。
私もこのような捉え方に賛成で、実体として一人歩きしている霊魂ではなくて、残された人の心に存在し育てられるべき魂として考えられるのではないかと思います。
アンケートの依頼主のお坊さんは、ご自分なりに、すべての設問にご意見を述べていただいていて、この「3.(霊魂)について」は、①存在する、④その他の二つを該当させて、次のように補充説明しています。
「霊魂という言葉は使わない方が良いようなので使わないが、霊魂のような物の存在は、前提にせざるを得ないと思う。」として、この方の宗派(浄土宗)の立場を説明されています。
また続いて、7.の死生観については、
「臨終において、阿弥陀如来が迎えに来てくれる。極楽浄土に連れて行ってくださる。浄土とは苦のない世界で、そこで故人は成仏に向けて修行をする。その功徳を残された人に振り向けてくれる。」
と、説くのだそうな。
苦労されていますね。でも、真剣に取り組む若手がいられることは頼もしいと思います。
そんな世相から、仏教界でもしっかりとした生死観、あの世観というものを伝え、正しく仏教を敷衍する動きがみられます。
先日、ある宗派の青年僧侶の方から、各宗派の考え方も知りたいとのことから、次のような項目のアンケート調査を依頼されました。一部をご紹介します。
1.仏壇・位牌の意義についてどのように説かれますか?
2.お墓参りの意味についてどのように説かれますか?
3.霊魂は存在するでしょうか? ①する ②しない ③分からない ④その他
4.死者の魂はどこへ行くのでしょうか?(魂の存在を説く場合)
①浄土 ②山・海 ③お寺・お墓 ④仏壇 ⑤その他
5.葬儀の意味とは何でしょう。
①教化の場 ②故人をあの世に送る ③故人・遺族へ安らぎを与える ④その他
6.法事の意義は何ですか?
7.死後観を説くにあたっての難しさと、工夫を教えてください。
8.死生観で感動した話、経験を聞かせてください。
9.「千の風になって」の死生観はどう思いますか。またはどう説きますか?
10.お盆には亡き人が帰ってくるといわれます。どう考えて説きますか?
11.輪廻転生、業についてどう説かれますか?
といったものでした。僧侶のみなさんはいつも向き合っている問題ですが、あらためて答えるとなると、「う~む・・・」と、慎重になってしまいます。
一般の方も、「そうそう、それどう考えたらいいのかしら」と、関心の高いものだと思います。実際に答えを聞いても、よくわからないことも多いのです。それだけ、わかりにくく永く語り継がれてきた永遠のテーマともいえましょう。
3.(霊魂)について感想を述べますと、
お釈迦様の説かれた教えからすれば、当時のバラモン教で説かれていたアートマン(我)を否定して無我論・縁起論を展開したわけですから、実体としての霊魂は「ない」と言い切って良いわけです。
・・・が、後の教理の展開において、悟りの境地(ブッダ)の行き場、受け皿の場として、霊鷲山とか須彌山とかが設定されたり、
大乗仏教が起こると、万人が仏となるための受け皿としての阿弥陀如来、大日如来などの思想が興り、西方浄土とか密厳浄土とか呼ばれる魂(精神)救済の場として、行き着く場所が定められてきました。
また、単にさとりの場(仏国土)としての浄土を考えたりして、同じ「浄土」と呼んでも宗派によってニアンスが違うようにも思います。
そして、昇天思想など、仏教が展開した土地古来の宗教観とも融合しあって死生観が出来上がってきていることもあるようです。
禅宗では、あまり浄土とは言いませんが、さとりの境地としての「仏」を目標として、精進・修行などに励み、その行き着く場所としての「ほとけの世界」。または、もともと「ほとけ」に居たのだ(本覚)と考え、その世界に帰着する(即身是仏)と捉えたりします。ですからあくまでも、現実重視ですが・・・、
死後についても、故人の生前の精神の延長線上に、残された生存者の心に反映し、生き方にも関わってくることがあります。そこに、先祖供養・報恩感謝の精神の重要性が存在し、精神(心)としての命(魂)が、存続するとも考えられます。
私もこのような捉え方に賛成で、実体として一人歩きしている霊魂ではなくて、残された人の心に存在し育てられるべき魂として考えられるのではないかと思います。
アンケートの依頼主のお坊さんは、ご自分なりに、すべての設問にご意見を述べていただいていて、この「3.(霊魂)について」は、①存在する、④その他の二つを該当させて、次のように補充説明しています。
「霊魂という言葉は使わない方が良いようなので使わないが、霊魂のような物の存在は、前提にせざるを得ないと思う。」として、この方の宗派(浄土宗)の立場を説明されています。
また続いて、7.の死生観については、
「臨終において、阿弥陀如来が迎えに来てくれる。極楽浄土に連れて行ってくださる。浄土とは苦のない世界で、そこで故人は成仏に向けて修行をする。その功徳を残された人に振り向けてくれる。」
と、説くのだそうな。
苦労されていますね。でも、真剣に取り組む若手がいられることは頼もしいと思います。
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« 仏教力テスト | 7月8月の予定 » |
最初CD屋さんで聞いた時には耳障りの良い曲だなぁ、と思って手にとって買おうかと思いました。
詩を読んで、「私はお墓にはいません~」のくだりがどうしても納得できず、止めました。
死生感は人それぞれかも知れませんが、ご先祖様をないがしろにするような気がしてなりませんでした。
近しい祖父母はいつも近くで見守ってくれている。
その事とお墓にいないという事は同じではないと思います。
最後の旅立ちの時、先に行った身内が迎えに来ると、よく聞きますよね、私は本当にそうなのか知りたく、祖父の臨時間際「おばあちゃんに会えた?」と聞きました、祖父はほとんど意識はありませんでしたが、コックリと首を立てに振り笑顔になりました。
不謹慎だと思う方もいらっしゃるかと思いますが、私は祖父が祖母やご先祖に導かれ、迷う事なく旅立つ事が出来ると安心しました。
我が家は主人がカトリックの国の人間ですが、主人の父と亡くなった兄弟の位牌と私の祖父母の位牌を(魂入れはしていません)仏壇に置き、朝夕お参りしています。
いつも見守っていてくれる事への感謝をしています。
私の仏教感は先祖感謝、こんな感じです。
まだまだ迷う人生を送る事でしょう。(笑)
teraさんのタイトルから外れてしまい申し訳ありませんでした。
私たちはふとしたことで何十年も前に死去した親や祖父母のことを思い出し、励まされることがあります。人生とはそのような先祖との繋がりを基盤として営まれるものであると思います。先祖ばかりではありません。生前に親しくした知人についても同じような繋がりが存在します。
ですから親戚縁者の方々の葬儀などの法事に出席したときや、僧侶の方々のお経を聞くときには、当に寂静の心で厳粛な気持ちになるのです。
このような繋がりを基盤として人々も世の中も成長して行くのではないでしょうか。
この問題はことばや理論では説明不可能な分野に属すると思います。乳幼児にも完備している「雰囲気で直観的に感じ取る分野」に属すると思うのです。
私はあの歌詞は「お墓にだけいるわけではない」という意味が省略されていると伝えています。
日本に伝わった仏教の良さは、hitomiさんのお考えのように、ご先祖様とつながっている報恩感謝の生死観にあると思っています。
もちろん「無常の理」などは仏教の中核ですが、故人ともつながりあった永遠の命について、特にお通夜の晩には説くようにしています。
ご主人様のお父様のお位牌もお祈りされているとのこと、すばらしいですね。大切なことと思います。
詳しく霊魂観につきまして、コメントいただきましてありがとうございます。
私も時々に整理して考えています。お釈迦様は一切皆空を説かれたわけですで、あくまでもそれは根底にあっても、それぞれの心が安らぐ法話は大事であると思います。
tera和尚さんのこの頁はコピーしておいて、また学ばせていただきたいと思います。
仏事、供養・回向を施行する僧侶としては、救済すべき魂について、しっかりと説く必要があるのだと思います。
ご専門の風月先生にこのようにコメントいただき恐縮で、また励みになります。こちらこそいろいろ学ばせていただきたいと思います。