南部吟遊詩人の写真館

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岩手で超有名!?鹿妻穴堰

2008年12月21日 14時14分32秒 | 雫石や県西地方(小岩井農場など)
岩手県盛岡市では「鹿妻穴堰」(かづまあなぜき)というものがあります。

いまでこそ北上平野は米どころで有名ですが、今から400年前の盛岡市南部は水が不足してて、田も少なく、荒地でした。
というのも、この辺りの北上平野の北上川西岸は、平地ではありますが、土地が北上川よりも若干高く、北上川から水が引けなかったためです。
北には雫石川というのが東西に流れており、北上川に合流していましたが、これは暴れ川でしょっちゅう流れが変わるので、水が引けそうにありません。

(↑雫石川には大量の雪解け水が春には流れ込みます。)

南部の殿様は、この地を何とかして米がとれる地にしたいと考えました。
そこで、殿様は鎌津田甚六(かまつだじんろく)という鉱山師に何とか水利がよくならないか調べさせました。
鎌津田甚六は綿密な調査により、雫石川の上流の岩山に穴を開けて、そこから川を分岐させて水を流すことを考え出しました。

(↑画面右側の山が昔はもう少し川の方に張り出していました)

川を分岐させて、そこから南東の北上川西岸地区に水を送り、最後は北上川に戻してしまいます。

そこの岩山付近なら、暴れ川の雫石川も流れが変わりません。それに岩を掘ってくりぬいた堰(せき)なら壊れにくい。甚六の妙案でした。
その後、南部の殿様の支援を受け、数年かけて岩山を掘り抜き、穴による堰、つまり穴堰(あなぜき)が完成しました。そこから用水を流し、今の盛岡市南部は立派な米どころになりました。


(↑上の川が雫石川。下の用水が鹿妻穴堰から取られた水を流す用水路)

(↓現在の穴堰。岩山を削り、水門にしています。写真左側。)


豊かになった盛岡南部の農村。それを感謝して、穴堰の近くには、水神と鎌津田甚六をまつる鹿妻神社が建てられました。


(↓鳥居ははるか下流の徳田村から寄進されたものです。この鹿妻穴堰はそれだけ流域の人々にとっては重要なものなのです。)

(ちなみに徳田村は古代蝦夷の防御施設「徳丹城」(とくたんじょう)のあった地。後でそこの特集もします。)

(↓鹿妻穴堰が開通したのは1599年。実に400年以上前のことです。その記念碑です。)



帰りに近くの家で鮭を干しているのを見かけました。
これも川の恵みでしょう。


そこで一句。

新巻の 準備に下がる 鮭無数とし蔵

堤の上には桜の木がたくさん植えられていました。春にはまたここに来たいと思います。

「鹿妻穴堰」についてもっと知りたい方はこちらもどうぞ。↓
「鹿妻穴堰土地改良区」→http://www.iwate21.net/kaduma/
「東北農政局 鹿妻穴堰物語」→http://www.maff.go.jp/tohoku/t/seibi/rekishi_nenpyo/6story/02.html

ちなみに、これは小学校の教科書にも載っている話なのですが、これが採用されたのは最近のようなので、盛岡の人でも知らない人は多いようです(笑)





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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
12月の始めに行ってきました (南部吟遊詩人本人)
2008-12-31 01:15:34
けっこう土地の歴史を知るのって面白いです。
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