こちら、のっけから、説明パンフになります。
こちらで遺跡のだいたいの位置関係が分かりますね。
見てもらえばわかりますが、けっこう広いですよ、コレ。
「平泉世界遺産ガイダンスセンター」の近くにあります。
リンク→https://www.sekaiisan.pref.iwate.jp/
ちなみに、近くには「道の駅」もありますので、ここに車を停めるのが早いかもしれません。
それで、ちょっと歩きます。
すぐです。
いきなり、堀が見えます。
説明がコチラ。
柳之御所の成立はおそらく平安時代末期。
鎌倉時代の前。
その時代に平城を思わせるこのような堀を築くとは…、
城郭都市としての性格もあったのでしょうか?
と、思えば、
このような大きな道路跡も。
平安京、平城京のような条坊制があったのだろうかとも思えます。
さて、この平泉の主な建造物の位置関係はこんな感じです。
基本、東に川、西に山なのです。
(四神相応を目指した平安京とはちょっと趣を異にしているような…)
リンク→「四神相応」
アップにするとこんな感じです。
けっこう、範囲は広大です。
塀もあったらしいです。
平地が広いです。
当然、厩(うまや)もありますね。東北だもの。
廊下状の建物も見つかっているらしいです。
次は、附属建物。
このへんでちょっと疑問が沸き上がるのですが…。
「附属建物」ってナニ????
え?もしかして、柳之御所ってその全貌が明らかになってないの?
「〇〇の館跡」とかじゃなくて、「こういう建物の跡でした」っていう感じの展示しかないんだけど。
伝わってない?記録がない?頼朝の焼き討ちに遭ったから?
往時がどんな姿であったのか記録がないんだ…。
こういうのもあります。なんか再現映像的なものが見られるみたい…?
平安時代末期でも「竪穴式住居」は現役だったのか…。
時代遅れなのか、竪穴住居が有能なのか…。
また、「附属建物」。なんの建物だったのか、ちゃんと解明してくれ!
ん?井戸ですか?
これは、ゴミ捨て場!
こういうのは貴重ですね、当時の色々なことが分かるはずです。
写真に写らなくて残念なのですが、けっこう中身が再現されています。
倉庫風の建物もあったようです。
井戸も。
大きな建物もあったようです。
この「平泉TIMESCOPE」気になりますね。
お、池です。
毛越寺と言い、無量光院といい、観自在王院跡といい、平泉は池のある遺跡が多いですね。
それだけ水が豊かな地だったんでしょうかね?
確かに近くに「北上川」が流れていますが。
井戸ですね。
筒井筒です。
もちろん、再現です。
この遺跡の西端部分です。
けっこう、土塁跡というか、堀跡が見られるんですよ。
ここって、「政庁」とか「都」とか言う以前に、個人の邸宅「館」あとだったのかなあとも思えます。
非常に、それにしては広大なわけですが。
そして、この多くの廃棄穴。
個人の邸宅にしては妙に多い気もしますが…。
そんなもんなんですかね。
「かわらけ」とか発見されるそうです。
北の方にも大きな建物跡が。
「大奥」(北の方)の居館だったかもしれません。
道の跡も見つかっています。
南の方には堀か、池の跡が。
私は歴史家でもありませんが、この「柳之御所」跡は平安京を模した「都城」としては規模が小さすぎますし、「政庁」としても少し小さな気がします。多賀城跡や胆沢城跡、志和城跡、徳丹城跡などとも比べるとやはりやはり規模は小さめな気がします。
とはいえ、個人の邸宅「館」としてはかなり大きな気もします。
しかし、個人的にはやはり「藤原秀衡」を中心とした藤原一族の居館跡という性格なのだと思います。
居館に道も作るくらい広大な敷地を整備して、藤原氏の大きな力を見せるための居館だったのではないでしょうか。
一個人の居館としては相当なレベルですが、これは近世以前の「城」特に「平城」としてのはしりだったような気がします。
あくまで個人的な見解ですが。
今後、もっと文化センターなど見て勉強したいと思います。
【撮影日:2022/3/30】
こちらで遺跡のだいたいの位置関係が分かりますね。
見てもらえばわかりますが、けっこう広いですよ、コレ。
「平泉世界遺産ガイダンスセンター」の近くにあります。
リンク→https://www.sekaiisan.pref.iwate.jp/
ちなみに、近くには「道の駅」もありますので、ここに車を停めるのが早いかもしれません。
それで、ちょっと歩きます。
すぐです。
いきなり、堀が見えます。
説明がコチラ。
柳之御所の成立はおそらく平安時代末期。
鎌倉時代の前。
その時代に平城を思わせるこのような堀を築くとは…、
城郭都市としての性格もあったのでしょうか?
と、思えば、
このような大きな道路跡も。
平安京、平城京のような条坊制があったのだろうかとも思えます。
さて、この平泉の主な建造物の位置関係はこんな感じです。
基本、東に川、西に山なのです。
(四神相応を目指した平安京とはちょっと趣を異にしているような…)
リンク→「四神相応」
アップにするとこんな感じです。
けっこう、範囲は広大です。
塀もあったらしいです。
平地が広いです。
当然、厩(うまや)もありますね。東北だもの。
廊下状の建物も見つかっているらしいです。
次は、附属建物。
このへんでちょっと疑問が沸き上がるのですが…。
「附属建物」ってナニ????
え?もしかして、柳之御所ってその全貌が明らかになってないの?
「〇〇の館跡」とかじゃなくて、「こういう建物の跡でした」っていう感じの展示しかないんだけど。
伝わってない?記録がない?頼朝の焼き討ちに遭ったから?
往時がどんな姿であったのか記録がないんだ…。
こういうのもあります。なんか再現映像的なものが見られるみたい…?
平安時代末期でも「竪穴式住居」は現役だったのか…。
時代遅れなのか、竪穴住居が有能なのか…。
また、「附属建物」。なんの建物だったのか、ちゃんと解明してくれ!
ん?井戸ですか?
これは、ゴミ捨て場!
こういうのは貴重ですね、当時の色々なことが分かるはずです。
写真に写らなくて残念なのですが、けっこう中身が再現されています。
倉庫風の建物もあったようです。
井戸も。
大きな建物もあったようです。
この「平泉TIMESCOPE」気になりますね。
お、池です。
毛越寺と言い、無量光院といい、観自在王院跡といい、平泉は池のある遺跡が多いですね。
それだけ水が豊かな地だったんでしょうかね?
確かに近くに「北上川」が流れていますが。
井戸ですね。
筒井筒です。
もちろん、再現です。
この遺跡の西端部分です。
けっこう、土塁跡というか、堀跡が見られるんですよ。
ここって、「政庁」とか「都」とか言う以前に、個人の邸宅「館」あとだったのかなあとも思えます。
非常に、それにしては広大なわけですが。
そして、この多くの廃棄穴。
個人の邸宅にしては妙に多い気もしますが…。
そんなもんなんですかね。
「かわらけ」とか発見されるそうです。
北の方にも大きな建物跡が。
「大奥」(北の方)の居館だったかもしれません。
道の跡も見つかっています。
南の方には堀か、池の跡が。
私は歴史家でもありませんが、この「柳之御所」跡は平安京を模した「都城」としては規模が小さすぎますし、「政庁」としても少し小さな気がします。多賀城跡や胆沢城跡、志和城跡、徳丹城跡などとも比べるとやはりやはり規模は小さめな気がします。
とはいえ、個人の邸宅「館」としてはかなり大きな気もします。
しかし、個人的にはやはり「藤原秀衡」を中心とした藤原一族の居館跡という性格なのだと思います。
居館に道も作るくらい広大な敷地を整備して、藤原氏の大きな力を見せるための居館だったのではないでしょうか。
一個人の居館としては相当なレベルですが、これは近世以前の「城」特に「平城」としてのはしりだったような気がします。
あくまで個人的な見解ですが。
今後、もっと文化センターなど見て勉強したいと思います。
【撮影日:2022/3/30】
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます