若い先生から出された疑問。
まず一つ目
ある日、おそろしいまぐろが、おなかをすかせて、すごいはやさでミサイルみたいにつっこんできた。
一口で、まぐろは、小さな赤い魚たちを、1ぴきのこらずのみこんだ。
にげたのはスイミーだけ。
この部分で、「にげたのはスイミーだけ。」とあるが、他の魚はどうだったのか?どうして他の魚は逃げられなかったのか?という疑問である。
それに対して内山先生は、「だけ」をもとにして、次のように説明した。
「だけ」①範囲をそれと限定する。
この場合、範囲=逃げた魚の集合だから、その集合に入っているのはスイミーしかいない。だから他の魚は、食べられたと考えていいと思います。
といった内容のことを話されてから次のように付け足した。
2年生にとって、辞書からそのことを理解させるのは難しいので、例文を使うといいです。
太郎君と、次郎君と、三郎君と、史郎君と、五郎君とスイミーがいて、逃げたのはスイミーだけ。
トマトと、ピーマンと、カボチャと、レタスと、キュウリがあって、食べたのはキュウリだけ。
仮面ライダースナックには仮面ライダーカードが入っていて、ほしいのは仮面ライダーカードだけ.....
このような例文をいくつか子どもたちに作らせると、子どもたちも他の魚は逃げなかったと納得しますよ。
と話された。
これに「は」の解釈を加えると、さらにわかりやすくなる。
は(副助)(一)判断の対象や叙述の内容がその範囲内に限られることを表わす。
「は」...「だけ。」と示すのだ。
「逃げた」という限られた行動をしたのは、スイミーという限られた魚、ただ一匹だった。となる。
つまり、他の魚は「逃げていない。」のである。
他の魚は、ぼんやりしていて大きな魚に気付かなかったか、いや、気付いたけれど足がすくんで動けかかったか、それは定かではないけれど、逃げてさえいないのだ。
これは、内山先生同様、例文を作ると、2年生でもよりハッキリ分かる。
逃げ切ったの「は」、スイミーだけ。
とすれば、みな逃げたけれど途中で追いつかれ、最後まで捕まらなかったのはスイミーただ1匹だったとなる。しかし、「逃げ切った」という表記にはなっていない。
逃げ出したの「は」、スイミー「だけ」。とすれば、「危険水域」からスイミーだけ脱したという意味になる。他の魚も、少しは逃げた可能性はある。しかし、大きな魚の牙の届く範囲までしか逃げなかったことになる。
他にも、「逃げのびたのは、」とか 「にげ遅れたのは、」とか「逃げ始めたのは、」「逃げられたのは、」「逃げ隠れたのは、」などなど、言葉遊びをすると、より言葉に対する感覚が育てられると思う。
挿絵を見た段階では、他の魚の兄弟も逃げているように感じるが、所詮「挿絵」は動かない。逃げているのか、逃げようとしたがまだその場にとどまっているのかは分からない。手がかりになるのは「言葉」だ。
それでも、子どもたちは、他の魚も逃げたけれど、スイミーほど早く泳げないから捕まったと考えるだろう。
そんなときは、その証拠を「言葉」から探しなさい。「国語」は、「日本語の言葉」を学ぶという意味です、と答えてあげたらいいと思う。
子どもたちは、絶対に他の赤い魚も逃げたけれど、泳ぐのが遅いから逃げ切れなかったという証拠を探すだろう。しかし、見つからない。とても悔しい思いをする。
くやしいから、次に同様の問題が出てきたときには、意地でも言葉の中から答えを見つけようとする。
スイミーの導入に当たって、この「にげたのは、スイミーだけ。」は子どもたちを本気にさせる、よい練習問題となる。
ところで、養老孟司さんの「バカの壁」の中に、こんな一説がある。
勉強することは、知ることとパラレルになっている。....知ると言うことは、自分がガラッと変わることです。世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう。それが昨日までとほとんど同じ世界であっても。
これを、「君子豹変す。」「男子3日会わざれば刮目して待つべし。」「明日に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」などの言葉の例を挙げて説明している。
この「逃げたのは、スイミーだけ。」は2年生にとっては、それぐらいパッと「言葉」に目覚めるきっかけになり得る問題定義をしていると思う。
「スイミー」の教材解釈を出してくれた間渕先生には、このブログを見られるように連絡をしておきます。
「逃げることをした能動」を表すのか
「逃げ切った結果」を表すのかによっても解釈が変わるように思います。
「太郎君と、次郎君と、三郎君と、史郎君と、五郎君とスイミーがいて、みんなつかまった。」「逃げたのはスイミーだけ。」
その間の経過はは書かれていないのですから、読者の想像にまかされていて良いのではないかと解釈しています。
通りすがりでいいサイトに会い考えさせられました。ありがとうございます。
せっかくの国語の教材です。たださらっと読むのではなく、こだわって読みたいと思っています。そうすることによって、言葉が知識として子どもたちに蓄積されていくと思います。
浜松教員さんのように、まず教師がこだわって「おかしいぞ。」と思うことで、子どもたちによく考えさせる本来の国語の授業ができていくと思います。国語は「感想」を言い合うものでなく、日本語の知識を身につけていく授業だと思います。
そういう意味で、浜松教員さんのようによく学ばれている先生に出会えて嬉しく思います。
私たち教員同士が、只の雑談や愚痴でなく、こうして教材について話し合えたら素晴らしいなと思います。
すてきな書き込みを、ありがとうございました。