寒さも残る4月、力矩先生と秋葉神社に行きました。
下社に到着したのが朝8時と云うこともあり、静けさが漂っていました。
私たちを出迎えてくれたのは、ひなたぼっこをしているネコたち。
何だかほのぼのしますね。

ネコちゃんたちと別れて参道を歩きながら最初に感じたのは、「自然との一体感」です。

参道石階段を上りながら足下に感じるのは「清らかな水の流れ」です。
不快なものは感じない。


拝殿に向かいご挨拶をするも神々を感じません。そして人でもない。
清らかな水の流れと通り抜けるように吹く風・・・・自然そのものにも感じました。
何故でしょう、清々しいのにそうでない・・・・そんな感じを受けながら下社をあとにし、上社へ向かいました。
上社麓の駐車場に到着すると目の前に鳥居があります。
参道も綺麗に舗装されていました。

先の見えない長い階段をひたすら上ります。
途中、獣の匂いがするなぁ、と思ったらそこには鹿防止ネットがしてありまして、
鹿さんには残念ながら会えませんでした。

山門には四神の彫刻が施されております。
やっと先が見えてきました。
最後の階段を登り切った所が「秋葉山本宮秋葉神社 上社」になります。
山門を残すすべての建物が一度焼失してしまっているため、現在の建物は新しく、神社に似つかわしくないコンクリート造りになっています。
ここからの眺めは東海一と云われるように、とてもよい眺めでした。
しかし・・・・写真に撮ってはいませんが、巨大な黄金の鳥居だけは何とかして頂きたいと思うのです。

拝殿へ向かい、ご挨拶をするもここにもやはり神々の気配を感じないのです。
ここもまた、自然の一部となしているかのようで・・・・
拝殿は立派ですが「誰かがいる」と云うわけではないのです。
いったん拝殿から離れてもう一度このお山とコンタクトを取り直しました。
そして再び拝殿を視ると、そこに小さな白い長い髭をはやしたお爺さんが立っているです。
こちらをじっと見つめると、次の瞬間本殿裏山の木々の先にいました。
言葉を交わすわけはありません。
両腕を前に出し、くるくる回ったかと思うとある方角を指して止まりました。
しばらくするとまた同じ動作をします。
まるで風見鶏のようです。
お爺さんがいる方向の写真を力矩先生に撮って頂きました。
どうですか?わかりますか?

この後、山を少し歩いて下りながら「秋葉山 秋葉寺(三尺坊)」を目指しました。
途中、山火事の時に焼けずに残った「随神門」を通ります。

さすがに風情がありますね。
随神門を通り、しばらく下ると秋葉寺があります。
秋葉信仰の一番古い霊場と云われる場所なのに、その荒れ様は言葉を
失います。
もう何も機能していないのです。
多くの信徒の願いが叶って再建されたはずなのに・・・・

仁王門も何も手を加えていないのか、ぼろぼろです。

秋葉山本宮を名乗る秋葉神社はお山が火之迦具土大神のご神体で火防の霊験があると主張し、
「秋葉総本殿」を名乗る可睡斎の方は大天狗が防火の神通を 持つと主張する。
哀しい喧嘩ですが、どちらにしても信仰の原点を大事にしてもらいたいなぁ、と私は思います。
秋葉山は神々というより、ずっとずっと昔から天狗が舞うような自然の一部でしか
なかったのかもしれませんね。
下社に到着したのが朝8時と云うこともあり、静けさが漂っていました。
私たちを出迎えてくれたのは、ひなたぼっこをしているネコたち。
何だかほのぼのしますね。

ネコちゃんたちと別れて参道を歩きながら最初に感じたのは、「自然との一体感」です。

参道石階段を上りながら足下に感じるのは「清らかな水の流れ」です。
不快なものは感じない。


拝殿に向かいご挨拶をするも神々を感じません。そして人でもない。
清らかな水の流れと通り抜けるように吹く風・・・・自然そのものにも感じました。
何故でしょう、清々しいのにそうでない・・・・そんな感じを受けながら下社をあとにし、上社へ向かいました。
上社麓の駐車場に到着すると目の前に鳥居があります。
参道も綺麗に舗装されていました。

先の見えない長い階段をひたすら上ります。
途中、獣の匂いがするなぁ、と思ったらそこには鹿防止ネットがしてありまして、
鹿さんには残念ながら会えませんでした。

山門には四神の彫刻が施されております。
やっと先が見えてきました。
最後の階段を登り切った所が「秋葉山本宮秋葉神社 上社」になります。
山門を残すすべての建物が一度焼失してしまっているため、現在の建物は新しく、神社に似つかわしくないコンクリート造りになっています。
ここからの眺めは東海一と云われるように、とてもよい眺めでした。
しかし・・・・写真に撮ってはいませんが、巨大な黄金の鳥居だけは何とかして頂きたいと思うのです。

拝殿へ向かい、ご挨拶をするもここにもやはり神々の気配を感じないのです。
ここもまた、自然の一部となしているかのようで・・・・
拝殿は立派ですが「誰かがいる」と云うわけではないのです。
いったん拝殿から離れてもう一度このお山とコンタクトを取り直しました。
そして再び拝殿を視ると、そこに小さな白い長い髭をはやしたお爺さんが立っているです。
こちらをじっと見つめると、次の瞬間本殿裏山の木々の先にいました。
言葉を交わすわけはありません。
両腕を前に出し、くるくる回ったかと思うとある方角を指して止まりました。
しばらくするとまた同じ動作をします。
まるで風見鶏のようです。
お爺さんがいる方向の写真を力矩先生に撮って頂きました。
どうですか?わかりますか?

この後、山を少し歩いて下りながら「秋葉山 秋葉寺(三尺坊)」を目指しました。
途中、山火事の時に焼けずに残った「随神門」を通ります。

さすがに風情がありますね。
随神門を通り、しばらく下ると秋葉寺があります。
秋葉信仰の一番古い霊場と云われる場所なのに、その荒れ様は言葉を
失います。
もう何も機能していないのです。
多くの信徒の願いが叶って再建されたはずなのに・・・・

仁王門も何も手を加えていないのか、ぼろぼろです。

秋葉山本宮を名乗る秋葉神社はお山が火之迦具土大神のご神体で火防の霊験があると主張し、
「秋葉総本殿」を名乗る可睡斎の方は大天狗が防火の神通を 持つと主張する。
哀しい喧嘩ですが、どちらにしても信仰の原点を大事にしてもらいたいなぁ、と私は思います。
秋葉山は神々というより、ずっとずっと昔から天狗が舞うような自然の一部でしか
なかったのかもしれませんね。
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