舞台です。
摩尼殿は970年の創建。舞台造りは、京都の清水寺を連想させる人が多いでしょう。
摩尼とは、サンスクリット語で、「如意」のこと。物事が自分の思うままになることを意味するそうです。また、僧が読経の時、手に持つ道具をさすらしいです。
ここの本尊は、六臂如意輪観世音菩薩。四天王立像。
中に入って、お祈りさせてもらいました。
黄色の線に沿ってウォーキングします。
摩尼殿から下に降りて、山道をしばらく歩いている時の風景です。
「瑞光院」がありました。
現存する圓教寺塔頭六院のひとつ。今は、非公開です。
秋になれば、紅葉もあいまって素晴らしい風景が想像されます。
山道から伸びる長い土壁が印象的です。
瑞光院のむかいにある大黒堂。夫婦が何をお願いしているのでしょうか。
さらに奥へどんどん進んでいきました。
「常行堂」です。本尊は阿弥陀如来像で、常行三昧するための堂。
常行三昧とは、阿弥陀仏の像のまわりを歩きながら、その名を称えて念じる三昧修行。
ここを右に曲がって少し行くと、「本多家廟屋」がありました。
中を覗いた写真です。
本多忠勝、忠政、政朝、政長、忠国、5代の廟屋。
本多家は江戸時代、初期と中期の二度、姫路城主となりました。
忠刻とその子の幸千代の墓もあります。
ここから反対側を見ると次の風景が飛び込んできます。
正面が「食堂」、右が「大講堂」、左が「常行堂」です。
いつか映画、大河ドラマで見たと思う人もあるでしょう。
食堂(じきどう)の中に入りました。
堂の中から外を見た風景。
食堂から見た「大講堂」。
室町中期に建てられました。圓教寺の本堂にあたる学問と修行の場です。
ここで、「軍師官兵衛」の撮影がありました。
1578年、秀吉による毛利攻めの際に、官兵衛は秀吉に自分の居城であった姫路城を譲ります。
しかし、三木城主別所長治が反旗をひるがえしたため、播磨の諸将もこれに同調しました。
毛利攻めの最前線であった上月城も毛利軍の攻勢により敗れます。
このとき、戦略上のことから、官兵衛の進言により、秀吉が姫路城からこの圓教寺に本陣を移すことになるのです。
ここから外へ出て、一番奥の「開山堂」に向かいます。
「不動堂」。
「開山堂」です。書写山一千年の歴史のシンボルとして、灯明が燃え続ける奥の院の中核です。
左が、開山堂。右が、若天社。若天とは毘沙門天の化身。書写山の鎮守で開山の性空上人につきそって「乙天」とともに仕えました。
「乙天社」。乙天とは不動尊の化身。
開山堂の軒下の四隅に左甚五郎の作と伝わる力士の彫刻があるそうですが、どれでしょうか。
ここから、「はづき茶屋」に戻って昼食をとることにしました。遅い昼食です。
右が「はづき茶屋」です。
姫路の小学生が一泊二日の林間学校に来ていました。賑やかな声が出ています。(しばらく、聞いていなかったので、なんか逆にホッとしました。)
スポーツドリンクをひとつづつ生徒に配っています。先生の大きな声が聞こえました。
「みんな、並んで、ひとつづつもらってください。」「〜君、2つとってはダメですよ。」
みんなの爆笑が聞こえました。
夏の暑い日でしたが、なんとか目的のウォーキングができました。
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