いろは丸展示館の前にいます。
ここは、鞆の沖に沈んでいる「いろは丸」の足跡をたどるためにつくられた資料館です。
建物は、江戸時代の蔵をそのままのかたちで使っていました。
資料館の中では、船体調査のために引き上げられた物や、沈没状況を説明するためのパノラマや、調査風景写真、ビデオの上映等が見れます。
「龍馬の隠れ部屋」も再現。
1867年に、坂本龍馬が大洲藩所有のいろは丸で航海中に、鞆の沖で、紀州藩の船「明光丸」と衝突し、沈没しました。
事故現場から、一番近くて、大きな港の鞆の浦に上陸し、坂本龍馬と紀州藩の賠償交渉が始まります。
いろは丸は今も鞆の沖に沈んでいるそうです。
黄色の線に沿って番号順に歩いています。
鞆の港の説明板がありました。
説明板にもある雁木です。
ここから少し歩くと、鞆の浦でも昔ながらの歴史的建造物が建ち並ぶメインスポットに出ました。
ハッとして、カメラのシャッターを切りまくります。
「太田家住宅」の前に来ました。
もとは江戸時代の豪商で、保命酒を醸造していた中村家の建物でした。
明治時代からは、廻船問屋の太田家となり、残されてきました。
ここは、太平洋戦争の空襲からも免れ、街全体が、江戸時代や明治時代の名残りをのこしていました。
住宅の中に入って、ゆっくりと見学します。
太田家の家の配置図です。
出迎えてくれたのは、お雛様です。
古いもののようです。「享保雛」とありました。
次に、保命酒に漬け込まれた生薬です。
保命酒は、もち米、米こうじ、焼酎、みりんと、16種の薬味からつくられる薬味酒でした。
立派な、雛段がありました。ここは、炊事場のようです。
ここから、蔵のある方へ行きました。
一番左側の手前に西蔵があり、その隣が「釜屋」です。
その先に、南保命酒蔵、さらに先に北、東の蔵がありました。
釜屋。
釜屋は、保命酒の原料である餅米を蒸す施設です。19世紀の初め頃の建物でした。
ここから外に出ると、住宅の庭のひとつが見れました。
梅につられて近くにいって写真を撮影。
ここから次に保命酒酒蔵に入ります。
巨大な酒造蔵ですね。
上を見てください。梁がすごい⋯⋯⋯。
「鞆の馬」
鞆の馬の説明板です。
ここにも古いものが⋯⋯⋯⋯。
蔵の外へ出て、主屋に戻ります。
途中に、外から風呂場が見れました
主屋にあがらせてもらいました。
1863年に、三条実美をリーダーとする尊王攘夷派の公卿7名が、公武合体派によって京都をおわれ、ここにやってきます。
ここの主屋と隣の朝宗亭に宿泊しました。
歴史のすごい場面に出会いますね。
少し赤みがかった壁の部屋に、公卿たちは宿泊したと教えてもらいました。
非常に興味あるものを見せてもらいました。
満足して住宅の外へ出ました。
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