スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

現世をどうするか(2) オカルティズムとスピリチュアリズム

2011-04-14 00:01:20 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 スピリチュアリズムはしばしば、「オカルト」に分類されます。
 けれども、スピリチュアリストは自らをオカルティストだと宣言することはまずないようです。
 私もスピリチュアリズムをオカルティズムと捉えることには、かなり違和感があります。

 「オカルト」という言葉はラテン語の「occultus=隠されたもの」から来ていますが、積極的に使われるようになったのは、19世紀の神智学やシュタイナーによるとされています。
 「オカルト」そのものとは、「超越的な(通常は目に見えない)存在や法則」を指しているわけで、それを広義に取ると、確かにスピリチュアリズムもその中に入るかもしれません。しかし、近代になって使われるようになったオカルト/オカルティズムは、もう少し限定的な意味を持っています。
 それは端的に言えば、「超越的な存在や法則」を仔細に把握し、それらを「操作」することによって、自己(や周囲の環境)を高めていく、という志向です。その典型として、神智学やシュタイナーの人智学があります。
 神智学や人智学は、スピリチュアリズムと同じく、「魂の死後存続」「霊界・霊的存在の実在」を主張していますが、両者の間にははっきりとした色合いの違いがあり、実際初期には両者の間で論争のようなものもありました(もっぱら神智学側によるスピリチュアリズム批判ですが)。
 この主題に関しては、宗教学者の津城寛文氏の『〈霊〉の探究――近代スピリチュアリズムと宗教学』(2005年、春秋社)の「終章 近代スピリチュアリズムの帯域――神智学その他と対照して」に詳しく論じられています。この論は明快に神智学・人智学とスピリチュアリズムの違いを明らかにしたもので、非常に意義あるものだと思います。多少記述は難しいですが、ぜひお読みいただくようお薦めします。(このブログでもまた機会がありましたら改めて詳しく紹介したいと思います。)

 ここでこういう話題を出したのは、同じ「死後存続」「霊界の実在」を前提にしつつも、「この世をどう生きるか」ということに関して、大きく二つの極があることがはっきりするからです。
 オカルティズムは、修行と秘義伝授(イニシエーション)によって、「高級な霊的存在」とコンタクトします(一般死者霊とのコンタクトは低級なものとして軽蔑・禁止されます)。そしてそこで得られた知識と力によって、自己を拡大・強化し、自らも「高次の存在」になることを企図します。
 彼らによれば、スピリチュアリズムは「死後存続の証明問題」に終始し、低級で危険性さえある死者霊とばかり交信したがり、高度な霊的哲学を持っていない、とされます。また、スピリチュアリズムの霊媒は霊を憑依させるにあたって自己意識を放棄する、それは人間の本性である「意識」「理性」「意志」を捨て去ることであり、危険である、と言います。(どうも一般の西洋人は自意識の消失に対してものすごい忌避感を持っているように思えます。)
 彼らの求めることは、自らの意識や理性や意志を保持したまま高次霊界に参入し(つまりは「脱魂」し)、そこで得られた知識によって霊的法則や霊的存在(さえも)をコントロールすることです。
 これに対してスピリチュアリズムは次のような反論をします。津城氏の著書から引用します。

 《モーゼスは、こうした達人をめざすプロセスが、理想として立派なことは認めながら、目的とされた力を得るためには困難な準備が必要であり、それでもなかなか「奥の院に入ることは許されない」と指摘している。オカルティズムが主張する、原則的には万人に接近可能ながら、しかし実践的には達人向けのイニシエーションが、実は選ばれた少数者にとってすら現実には不可能に近いという、何重も扉が続いているような事態の指摘である。この理想と現実の隔たりの大きさが、「人類という大きな集団」向けであるスピリチュアリズムの、いわば大乗的な「信仰」と対照されている。》

 つまり、オカルティズムのめざしているのは、きわめて少数の人間しか実現できない「達人宗教」であるのに対し、スピリチュアリズムは「誰にでも開かれた」平易な道、いわば「易行道」であるということです。(ハイズヴィル事件での霊の宣言は「もはやこの真実を隠してはならない」でした。つまり秘教の否定、万民への開放でした。)シルバー・バーチも次のように言います。「地上人類に必要なのは神学のような大ゲサで難解な哲学ではなく、いずこの宗教でも説かれているいたって単純な真理です」(近藤千雄訳編『古代霊は語る』244頁)。
 また、スピリチュアリズムの憑霊型霊媒は、自己をアピールすることではなく、徹底的に自我を放棄して霊に奉仕するものであって、それは非難されるべきものではないでしょう。

 津城氏も指摘しているように、こうした違いは、「気質」によるものかもしれません。もっと霊学的な語彙で言えば、「魂の色合いの違い」「霊統の違い」と言ってもいいでしょう。
 片やオカルティストは、自己を鍛錬し、通常の死者がいるような「低次の霊界」ではない「高級霊界」への参入をめざす。そしてそれを通して、現世において自らが神に近づこうとする。
 一方スピリチュアリストは、自己を低め、空しくすることによって、高級霊の恩寵を招来しようとする。より高次の進化は現世ではなく死後のさらに先にある。
 このようにあえてオカルティズムとスピリチュアリズムを対比的に見ると、霊的探究の二つの極が明らかになります。自己拡大化による叡智や力の獲得か、自己謙遜による恩寵の期待か。前者は「能動的」であり、後者は「受動的」とも言えます。さらに誇張して言えば、前者は「自己重視」「現世重視」、後者は「類重視」「来世重視」と表現できるかもしれません。
 これはあくまで「極」を明らかにするためであって、どちらかが優っているということではありません。また、截然と二つに分かれるのではなくて、二つの極の間のどこかに位置づけられる立場というものあるのかもしれません。AかBかという二者択一ではない道もありそうな気はします。
 私自身は、とても「達人」を目指すような分際ではないことを自覚しています。修行のようなことをしたことがないわけではないのですが、所詮下根の身なので、まあ「ヘタレ」ました。ただ、だからと言って、高級霊の霊信を読み、霊的自覚を持ち、身を低めて恩寵が下されるのを待つだけでいい、ということでもないような気がします。
 極端な自己鍛錬や自己放棄ではない、もう少し普通なやり方の「霊的探究」は不可能なのか。そのあたりを少し考えてみたいなと思っているところです。

      *      *      *

 蛇足ですが、今世間で言われている「スピリチュアル」というものの多くは、「オカルティズム」に属するものではないかと思います。彼らは何らかの方法で「見えない法則や力」を感得し、それを操作することで、もっぱら「現世的な利益」を得ようとします。それは「安らぎ」「癒し」といったよくわからないものもあれば、「金運」「恋愛運」といった露骨な現世利得である場合もあります。
 多くの人が顰蹙し批判するように、少なからぬ「スピリチュアル」主義者は、知性や理性に欠け、自己顕示欲が強く、他者から見れば妄想と捉えられなくもない自己流の観察や観念を声高に主張します。悪しき意味での自己拡大、というか自我肥大が見られます。(自戒自戒www)
 人は自由ですし、宗教的・霊的領域には唯一の正しい基準というものはありませんから、そういった動きを非難したり弾圧したりすることはできません。「そういった人々のせいで、真摯な霊的探究や宗教への白眼視がますます強くなる」という憤懣を表明する人もいますし、実際そうかもしれませんが、何ともできません。
 まあ、せめて「スピリチュアル」と「スピリチュアリズム」とはかなり違うんですよ、と、多くの人にわかってもらえたらなと思うばかりです。


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