スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

カルマについての試論(下)

2011-02-19 00:02:43 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学
 20世紀後半にさかんになった前世療法での様々な証言で明らかになったことは、魂は、自らの成長にふさわしい人生を、自ら選んで生まれてくる、ということです。
 たとえば、マイケル・ニュートンは次のように報告しています。
 《魂が再び転生することを決意すると、この世に戻るプロセスの次の段階として人生を選択する場所に連れて行かれます。そこでまず最初に、未来のある時代の特定の環境に自分が適応できるかどうかを見極めるための機会を与えられます。次にこれらの場所に住んでいる人たちに注意が向けられます。ここでは、魂は事実上一人きりになって、見えないガイドに見守られながら、新たな人生の選択肢をあれこれと評価します。》
 こうなってくると、カルマの因果論的解釈はますます「?」です。日本の太郎君を選ぼうが、アメリカのジョン君を選ぼうが、因果律は等しく成立するとするなら、その因果律を支えているのはどのような基盤になるのでしょう。

 マイヤーズ通信では、カルマの問題を、罪の償いや因果律とはまったく異なった、類魂論の視点で捉えています。それによると、カルマとは、魂の「型」「模様」のようなもので、ある魂が作り上げたそういう「鋳型」を、類魂の新しい魂に引き継がせる。そして自らはその新しい魂と共に歩みながら成長を果たす、といった仕組みが語られています(『人間個性を超えて』第四章)。たとえば、愛情を発揮することができないという偏りを持った「型」を作ってしまった魂が、新しい魂にその型を委ね、新しい魂がそれを苦しみつつ克服していくのを共感体験しながら、より豊かに成長していく、といった仕組みがあるというのです。マイヤーズ霊がカルマという語を勘違いをしているのかもしれませんが、これはもう「カルマ=因果律」ではありません。

 現代の霊的思想においては、カルマは「過去の行為の単純な結果」というよりも、「魂が支払わなければならない負債のようなもの」として語られることが多いような気がします。シルバー・バーチがカルマという言葉を使う場合は、ほぼこのような意味でだったように思います。また、20世紀の聖人・ダスカロスも、そのような感じで語っていた(そしてその負債の肩代わりもあると語っていた)と思います。魂は、自らが前世においてなした「未熟な行動」のツケを、現世において病気や不幸な境遇といった何らかの苦しみによって払うというような形です。
 けれども、それは「現世で人の腕を切り落としたら、来世で自分が切り落とされる」といった単純な「同型反復」ということにはならないようです。

 「過ちを犯したり、能力をうまく発揮できなかったり、といった未熟さを自覚した魂は、その未熟さの克服に挑戦するのに一番ふさわしい人生を選んで再生する」――これが前世療法研究が主張する「現代の生まれ変わり理論」ですが、これは「悪行は結果として罰となって返ってくる」といった素朴な因果律を脱け出てしまった観点のように思えます。
 言ってみれば近代的カルマ論は、古代の「勧善懲悪の機械的システム」といった色彩を薄め、「魂の成長を主眼とする教育的プロセス」を強調するものになったのかもしれません。

      *      *      *

 自らの悪しき行為が次生で災厄となるといった単純なカルマ論を反駁する事例もあります。

 地上に初めて生を受けてから現在の生までの「転生の軌跡」全体を、かなり完璧にたどれるという、きわめて稀なケースがあります。前世療法家・稲垣勝巳氏が『前世療法の研究』『生まれ変わりが科学的に証明された!」』の二著作で取り上げている「里沙さん」という人(仮名)のケースです。
 里沙さんは、退行催眠によって、天明3年(1783年)の浅間山大噴火に際して「人柱」となって死んだ少女「タエ」の生と、19世紀にネパールのナル村で村長として生きた「ラタラジュー」の生を想起しました。タエの人生については、史実と符合する記憶を想起しましたし、ラタラジューの人生想起においては、「真性異言」(学んでいないネパール語での会話)現象を起こしました。
 このケースでは想起された事柄や「異言」の真偽がもっぱら注目されていますが、守護霊的存在によって、「タエ」が地上初の人生だと明らかにされていることも注目されます。
 その発言を信用すれば、里沙さんの魂は次のような転生をたどっていることになります。
 まず里沙さんはまったく新しい魂として、タエに生まれました。タエは幼くして孤児となり、庄屋に拾われたものの、馬小屋の藁の中で眠り、ヒエばかりの食事というどん底の生活を送ります。そして14歳で、土石流による被害を防ぐための「人柱」とされ、橋にくくりつけられ土石流に飲み込まれて水死します(その前に腕も切り落とされたようです)。人生で楽しかったのは桑畑で桑の実を食べることだったという、かなり悲惨な人生でした。
 そして次に里沙さんは、ネパールのタマン族のラタラジューという男性に生まれ変わります。ラタラジューは若い時に内戦に従事し、何人もの人間を殺したと言います。そしてその後、何人もの愛人たちを引き連れて、カトマンズ南部の未開地に赴き、小さな村を建設、その村長となります。村の土地は痩せていて、生活は苦しかったようです。その中でラタラジューはかなりわがままに権力を行使したらしく、最期はおそらく毒殺されたようです。
 そして現在、里沙さんは岐阜県の一主婦として生きていますが、原因不明の脊椎側湾症という難病を患っています。
 この三つの生を連続的に見ていくと、非常に奇妙な思いに満たされます。それは、かなり苦しい境遇ばかりだということです。特に、地上の最初の生というタエの人生は、自らには何も非がないのに、孤児となり、寝床も食事も満足なものは与えられず、最期は「人柱」という不条理な殺人に遭っているのです。これは明らかに「単純なカルマの法則」に矛盾します。タエはその苛酷な境涯を承知で生まれてきたかもしれませんが、それは「前世の負債」ではありません。二回目のラタラジューの人生でも、前回の悲惨な生の反対給付としての幸福はなく、内戦に参加した際、殺人に快楽を覚えたとか、女性を何人も支配したといった、ネガティブな体験が多く語られています。そして現世では、治す手段もなく、徐々に進行していく難病と闘う日々です。
 カルマの法則があるのだったら、貧窮に苦しみ、他者のために死んだ最初の人生のご褒美として、二回目や現世にはもっと素晴らしい人生が与えられてもよかったのではないかとさえ思えます。全体を通しても、特に罪深いというものではないのに、なぜこれほどの苦境が与えられるのかといぶかられるのです。
 これに対しては、里沙さんの守護霊的存在がこう答えています。「この魂は早く成長することを求めたので、苦悩多い人生を選んでいる」と。この言が本当だとすると、苦悩というのは「未熟な過誤」に対して機械的に与えられるばかりではなく、魂の成長欲求に応じて偏って与えられることもあるのだということになります。そしてまた、苦悩とは、魂の成長を最も効果的にもたらす、いわば「ご褒美」という可能性もあることになるわけです。
 うむむ。「苦悩こそ至宝」――そんな宗教が成立しうるでしょうか。(カルデックはイエス信仰の影響か、けっこう苦悩・受難をプラスのものとして見ているような気がしますが。)

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 「魂は、成長のために最もふさわしい人生を選んで生まれてくる」――スピリチュアリズムや前世療法の研究が明らかにしたその主題は、かなり衝撃的なものです。
 ならば、幼児虐待をされたり、全盲で生まれたり、先天性疾患で苦しんだり、といった人生も、魂自らが選んで生まれてきたのか。
 もしかするとそれは正しいのかもしれませんが、人間としてそれに答えることは不遜であるし不可能でしょう。ましてや、苦しんでいる人に向かって「あなたが選んだ」と言ったら、殴られても文句は言えないでしょう(「偶然」とか「前世のせい」と言ってもそれは同じかもしれませんけれども)。

 自分が選んだにしても、苦しんでいる現世の自分は、それを忘れています。そして「どうして」と怒ることさえあるでしょう。
 真言坊主さんが指摘されたように、その時、「選んだ自分」=魂の私は、消え去っているのか。
 これは難しい問いです。少なくとも現在の人類の一般水準で考えると、生きている時に、霊的「私」を意識することは非常に稀であると言わざるを得ません。現在の人々の意識はあまりに可視的世界ばかりに囚われていて、死を超えた生存があるという可能性や、自らのうちに「永遠の魂」の活動が組み込まれているという感覚は、ほとんどないのが実状でしょう。
 ただ、「無意識の自分」は知っているという説もあります。そして無意識的な良心の働きなどとして、意識に影響を与えているとも言われます。
 この「現世の私」と「霊的な私」の乖離は、霊的な事柄を知った誰もが「なぜ」と疑問に思うものでしょう。いろいろな説明もなされていて、「前世の記憶などがないほうが、囚われることがないから成長には望ましい」といった霊的メッセージもあります。ちょっとカルデックから引いてみます。
 《生前、私の霊は、私の睡眠中に自由になり、過去世のことを思い出していたのです。そして、そのために、目を覚ました私の中に、私の悪しき傾向性に抵抗しようとする本能的な気持ちが生じたのだろうと思います。/過去世のことを、通常の意識状態で、はっきり思い出していたら、このようにはいかなかったでしょう。というのも、もし過去世のことをはっきり思い出していたとすれば、おそらく傲慢な気持ちが再び生じてきて混乱し、それと闘う必要が出てきただろうからです。しかし、過去世を顕在意識で思い出せなかったので、私が闘うべき対象は、新しい境遇に伴う試練のみに限られたのです。》
 ちょっとわかりにくい表現ですね。……

 とはいえ、ここまで「現世の私」と「霊的な私」が分離してしまって、果たしてよいのだろうかという疑いはあります。マイヤーズ霊なども「われわれ影の世界の住人たちの多くの者は、今この瞬間に、地上に住む低次の動物的な種類の男女の肉体には果たして魂が宿るや否やを、ほとんど疑問視しているのである」などと言っていますし。まあ、スピリチュアリズムを普及しようというのも、その距離を少しばかり近くできないかという試みでもあるわけです。

 もちろん、中には、「この苦しみの意味は何だろう」と問う人もいるでしょう。しかし、それはきわめて稀な人、宗教や哲学や霊的事柄に関心のある、そして物質的世界を超越したものを射程に入れられる、ごくわずかな人ではないでしょうか。そして、残念ながら、その意味を本当に体得できるのは、さらに少数の人でしょう。自らが何のためにこの地上に生を受け、そこでの苦しみによって何を磨くべきなのか、それをはっきりつかめるのは、相当霊的な研鑽を積んで後のこと、もしくはこの生を終えて霊的能力を取り戻した後のことでしょう。
 そして、何のために生を受け、苦しみによって何を磨くべきかわかったら、先の言葉で言い換えれば、もし「選んだ自分」と「苦しんでいる自分」が合致したなら、それはもはや地上で生きる必要がなくなったということなのかもしれません。でも、それがどうやったら達成されるのか、それが達成されたら地上の生は不要になるのか、達成されていないことに何らかの意味があるのか、そういったことはわかりません。

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 カルマの法則は因果律だと言いますが、その因果律は何に依拠しているのか、そして「因」「果」の決定は何によっているのか、といった具体的なことがまったくわからないわけですから、カルマカルマと言い立てても空しいように思います。「よいことをすればよいことが、悪いことをすれば悪いことが返ってくるよ」とか「苦しみも魂を磨くための試練だよ」といった漠然としたことは言えるかもしれませんが、「お前は今生でこういう罪を犯したから来世ではこうなるよ」とか「お前が今味わっている苦しみは過去に犯したこういう行為のツケだよ」といったことは、まず言えないし、誰も言う権利を持っているわけではないでしょう。
 それに「そんなことをすると罰が当たるよ」と言って脅して道徳を守らせるといった段階に、今の人類がいるわけでもないでしょう(ん? そうでもないかな?)

 だから、私は個人的には、カルマについては「ノーコメント」で行きたいと思っているのです。そんなもん誰にわかるか、そんな危うい論理を振り回してどうする、という思いとともに。
 もちろん、生まれ変わりに伴う「直面すべき課題」というのはあると思います。たとえば、前世であまりに傍若無人に振る舞った魂が、他人の苦しみを理解する能力を磨くために、ひたすら奉仕するような境涯に生まれてくるといったことは、まあごく普通にあるのではないかと思います。(実際、「この人は前世で権謀術数を駆使した嫌な公家だったのだろうな、今回はそれを修正するためにこういう苦労のある人生を選んでいるんだろうな」などと言った感想を持つことはあるのですけれども・笑い)
 だから、「課題」というような考え方に置き換えればいいのではないでしょうか。今回の生はこういうことで苦労している、それはその苦労を通して、こういう能力を磨いたり、こういう経験をしたりするためである。それは前世まででやり残したことを、また改めて「課題」「宿題」のように与えられているのだ、と。こう捉えることで、それは未来志向のものになるのではないでしょうか。

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 まあ、実際のところ、先天性難病や発達障害や統合失調症といった苛酷な人生を選んだのはどういう意味なのだろうと考えると、まったく理解が及ばなくなります。何らかの「罰」的な意味があるのか(マイヤーズ通信には、統合失調症は「過激な自己処罰」の場合があるとあったような気がします)、それもまた成長を早く促す苦悩として選ばれたものなのか、また別の何か特殊な意味があるのか……。
 霊的世界のありようについて、われわれ人類は、あまりに知らない。スピリチュアリズムや前世療法の研究などを知っても、わからないことはますます増えるばかりで、茫然とします。

 うむむ。全然まともなことを論じられていないような感じ。ちょっと不思議な感覚です。心理的抵抗?(ん? 単に老化か?ww)何かもやもやしていますが、またの機会に。

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5 コメント

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Unknown (真言坊主)
2011-02-19 11:57:04
興味深い話ばかりです。ただ私も「もやもやさ」が増したような気がします。輪廻転生があるっていうのは確信できるんですが、魂であれ、アートマンであれ、アーラヤ識であれ、それの動力因がよう分からんっていうのは奇妙な話です。何かまったく未知の概念が必要なのかな。。
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真言坊主さんへ (高森光季)
2011-02-19 16:26:53
ぬけぬけと言えば、
動力因は「神」ではないですか(笑い)。
まあ、「神については論じられない」などと言っておきながら、
こう言うのも何なんですが、スピリチュアリズムでは、
すべての魂は、神のイデアである、つまり神の想像力の一断片である、と。
「私は神という太陽の小さな火花」「私は神が描く絵の小さな一筆」
このあたりに関しては、私はマイヤーズ通信の
『不滅への道』第七章~第十章あたりの記述に感動します。

真言坊主さんの輪廻論・解脱論もお聞きしたいです。
ぜひ一度ご開陳いただけませんか。
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Unknown (真言坊主)
2011-02-19 20:31:16
密教なら大日如来となるのかなぁ。動力因。

輪廻論や解脱論。。。私そんなもん持ってません(汗)。仏教の基本、そして日本仏教の基本、そして日本密教の基本、そして現代の風潮に根ざしつつ、死ぬまでにそういうものが構築できていったらよいなとのんびり考えています(しかしこの機会にまた深く思いを巡らせてみたいと思います)。

私が真剣に輪廻に確信を持ったのは、前世記憶と当所のブログ、そしてそれに伴うスピリチュアリズムに関する書籍などです。恥ずかしながら。。(笑)もっと勉強させてください。



しかしその理論については仏教的でありたい(願望)。
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カルマの法則なんて忘れよう! (Glass Age)
2011-02-24 22:44:08
当ブログに初めてトラックバックしてみました。

問題意識がとても近いように思いましたので。(議論のレベルは違いますが・・・)
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Glass Ageさんへ (高森光季)
2011-02-25 02:05:52
そうでした。Glass Ageさんのこの記事は小生も拝読していました。参照としてあげるべきだったかもしれません。失礼いたしました。

正直言いますと、やはりIT弱者なようで、トラックバックというのがどういうシステムなのか、いまだによくわかっていません(爆笑)。でも、こうするとそちらへも飛べるし、向こうからも飛べるのですね。まあ、いまだによくわかっていないようですけれども(笑い)。
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