スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

現世をどうするか(1) 厭世主義

2011-04-05 00:06:26 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 スピリチュアリズムの霊信が解き明かしたところによれば、この地球世界というものは、非常に「低い」界であるとされます(さらに低い世界もあるようです)。ここは「重く荒い世界」「肉体という重い鎧に閉じ込められた世界」「霊界の美がひどく拙劣な仕方でしか表われない世界」であり、人間の魂はそこで生まれ変わりをしつつ、学習を積んで成長し、やがてより高次な世界へと進化していく。

 こうした事実は、たくさんの疑問を呼び起こします。「なぜそんなことが必要なのか」「早く卒業するためにはどうしたらよいか」「なぜ普通はそうしたことを見たり知ったりできないのか」……
 それについての答えもありますが、今は立ち入らないことにします。

 こうした情報は、スピリチュアリズムが突然新たに言い出したわけではありません。仏教(というかそのベースになったウパニシャッド哲学)では、魂は様々な生物界(地上を超えた天界も含む)を輪廻し続けるが、叡智を獲得すればその輪廻を超え出ることができるとしていました。日本の土着信仰では、死者霊はこの世に近い霊界で60年を過ごし、その後、集合的な祖霊となって神々の世界に入るという考え方がありました。類似の死後世界観は世界各地に見いだせるものでしょう。(一神教の死後世界観はちょっと歪んだものなのでここでは触れません。)

 ここで問題にしたいのは、そうした「死後世界」の情報(とおぼしきもの)が、現世の捉え方に与える影響についてです。端的に言えば「この世を超えた素晴らしい世界があり、やがてそこへ行けるのなら、われわれは現世をどう捉え、どう生きたらよいのか」ということです。そしてその中でも、「この世を早く離れたい」という「厭世主義」に注目してみたいと思います。

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 スピリチュアリズムでは、この世は確かに重く荒々しい、醜い世界だとしていますが、そこで生きることは魂の成長にとって非常に重要な意味があるとしています。ほとんどの人間の魂は未熟であるがゆえに、現世という幼稚で緩慢な世界によってようやく学ぶことができるというわけです。
 それはそれで「ごもっとも」と納得せざるを得ないのですけれども、そこで「もっといい世界があるのなら早くそこへ行きたい」と思ってしまうのも、人間の自然な心情でしょう。
 こうした思いは、「超越世界」を説く宗教観のもとでは必ず出てくるものです。宗教的な「厭世主義」です。
 釈尊(およびジャイナ教のマハーヴィーラ)は、輪廻し続ける生存は「苦」であり、それを超え出ることこそが重要だとしました。カタリ派では、秘義を受ければこの世に輪廻転生する苦しみから逃れ、天界に「復活」することができると主張しました。浄土教では有名な「厭離穢土、欣求浄土」のスローガンがあります。西ではエッセネ派(クムラン教団)や原始キリスト教にもこうした傾向はあったように思われます。
 はっきりと述べるかどうかは別にして、「この世は苦しい世界であり、それを超えると素晴らしい世界がある」というイメージは、多くの宗教にはあったように思われます。

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 厭世主義というものは、宗教的世界観とは別に、気分というか、魂の性向といったものとしても存在します。
 どうも世の中には、こうした厭世感とは無縁の人々も、かなり多数いるようです。「私は現世が大好き」「何回も生まれ変わって人生を楽しめるなら、そんな素晴らしいことはないじゃない」。
 これは、私自身はそうではないので、よくわかりません。魂が若く、現世を必要とし、エネルギーにもあふれている人たちなのか、神の御心を素直に受け止めている高貴な魂なのか。
 逆に、厭世感を持っている人は、何度も生まれ変わりした古い魂(落第常習生?)なのか、そういうことに関係なく、そういう気質を宿命として(何回生まれ変わっても変わらずに)持っているのか。
 厭世感を生来持っている魂、その反対(いい言葉が見つかりません。「現世主義」ではちょっとずれるし、「好世主義」などという言葉はないし)を生来持っている魂。そういうものがあるのでしょうか。ただ、途中で厭世感を消し去る人もいるでしょうし、逆に何かの出来事で厭世主義になる人もいるでしょうし……。
 どうももやもやとしてはっきりしませんが、ただ、宗教というものが「現実を超えた世界」を言い立てるものであるなら(そうでない宗教もあることはあるようですが)、厭世感を持っている人が、宗教には近づきやすいということはありそうです。
 もうひとつ言えば、「超越世界のイメージ」を持たずに厭世感を持っている人もいるでしょう。「死ねばすべて終わり」「私は脳内の電気信号の束」と考えている人が、厭世感を持っていたら、これはかなり苦しいものになるのではないでしょうか。(つらつら思うに若い頃の私はそうだったし、けっこう苦しかったような気がします。)

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 「超越性を志向する」という意味では、厭世主義は、必ずしも間違った方向ではないと思います。ただ、それが現世の軽視、生きることへの無気力、ニヒリズムへと落ち込む危惧も、充分あるでしょう。
 スピリチュアリズムではそれはだめだよ、と厳しく言っている。幼稚園生は幼稚園で学ぶべきことをしっかりと学ばないとだめだよ、と。
 しかし、これ、厭世感をいくばくかでも持っている魂にとっては、なかなかきついことです。この世が重く、荒く、醜い世界で、それを超えた世界があることを知りつつ、それでもそこできっちりと生きなくてはいけない。いや、むしろ、超越的な世界があることを知ったからこそ、この幼稚で醜い世界を愛する(固執するのではなく)ようにならなくてはいけないのかもしれない。
 (ちょっと思い出すのが、ケン・ウィルバーの「プレ/トランス」という概念です。もともとは、「自我にこだわらない」あり方にも、「自我が未発達のせい」と「自我を知りそれを超克したせい」とがあるというような話だったようですが、ほかにも適用できる考え方としています。「現世大好き」も「現世しか知らない現世大好き」のプレ段階と「現世を超えたものを知り、それを統合して(?)の現世大好き」があるということになるでしょうか。ううむ……)

 スピリチュアリズムも基本的に言っている「霊」と「物質」の対立という構図は、特に低い界では熾烈になるわけで、それはどうしても「苦闘」「悲劇」という相を帯びざるを得ないような気がします。そして、「霊」の側を重視すればするほど、「物質」が主たる現世に厭悪の心を持たざるを得ない。
 その中で、現世を愛するには、「物質」に顕現した「霊」の輝きを見ていくしかない。しかしそれはなかなか見いだしにくく、はかない……

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 一方、「それなら、現世や現世に生きる自分をもっと霊化しちゃえばいいじゃん?」という志向もあります。
 古来、秘教、オカルト、密教といった伝統があり、その中の人々は、厳しい修行と秘法伝授によって、自らをより霊的に高い存在にすることを目指してきました。高次の霊性を獲得した人間は、物質世界の霊的側面を知り、それを操作することができるようになる。それによって、「物質という重い桎梏」「囚人の苦悩」は解消され、魂は自由闊達な働きができるようになる。また、高級な霊的存在とコンタクトし、その力や叡智をもらうことができる。そして、そこで得られた利得は、人々を助ける役に立つ。こうした「優れた人間」が多くなっていけば、おのずと地上世界の霊性も高まる。
 実に素晴らしい考え方です。そして、実際にいくばくかの「達人」が生まれ、大きな業績を遺してきたことも否定できません。
 われわれはこれを目指すべきなのでしょうか。

 もう一つ、「現世自体を霊化しよう」という考え方もあります。よい信仰が社会構成員全体に拡がれば、この世はもっと霊的な、よい世界になるうだろう、というものです。一神教は常にそう考えていました。日本仏教にも「仏国土の建設」といった理念があり、日蓮宗は法華経に基づく国家建設を提唱しました。
 「集団救済」、「強い宗教」です。
 しかしこれはほぼ不可能であり、逆に恐ろしい結果になることが歴史に表われています。全体主義だから当然のことです。一神教における異教・異端の弾圧は、この上なく凄惨な歴史です(共産主義も同じです)。また、一つの宗教が社会全体を覆ったとしても、それが決して「よい社会」を生むわけではないことも、歴史上明らかです。その宗教の一番よい部分が、全員によって実践されることなどありません。
 私は集団救済、「強い宗教」には賛成できません。集団救済は全体主義となり、悲劇をもたらします。思想・信条・信仰の自由は、人類が獲得してきた叡智です。これを否定することは賢明に思えません。

 さて、それでは、私たちは修行や秘法伝授などによって、自らをより「霊的に高い存在」にするよう目指すべきなのか。
 これはとても重大な問いです。
 そしてスピリチュアリズムは、どうもそういうことを勧めていないようなのです。


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