別名 :扇城
城主 :仙波盛綱(七代)・仙波盛景(十二代)・仙波盛政(十三代)・
:仙波盛賢(十四代) 仙波盛忠(盛賢の弟、十五代)
築城者 :出渕盛景、出渕盛政(盛景の嫡男)
築城年 :1551年
標高 :437m
形態 :山城
城主仙波盛綱(七代)は、室町時代(1336~1573年)の初期に武蔵の国川越仙波城主でした。
足利尊氏が天皇方の楠木正成らに敗れ、いったん九州に逃れたけれど強い勢いで再起を図り、
都に攻めあがった時、武家方に味方した仙波盛綱はその九州蜂起の際の手柄によって
足利尊氏から越後守に任ぜられ、伊予の国浮穴郡七万八千石を賜って同城の城主となった。
その後十二代盛景、十三代盛政十四代盛賢ら三代の居城となりこの地を領有していた。
盛景の代に至って、家の名声が大いに上がり出渕(名)に城郭を構え盛賢寺を再建するなど
人のためを考えた良い政治をしたとのことです。
1564年曽根城主、曽根宣高は大軍を率いてこの伊福城に向かってきました。
1564年の四月~七月まで城を取り囲んで日夜双方の攻防が続きました。
味方に不利な悪戦苦闘が続きましたが決死の戦いで天運にも恵まれて曽根勢をさんざんに
打ち破り300人余りを討ち取り敗走させたといわれています。
しかし、城主盛景の死去の隙をうかがって1571年曽根勢はふたたび伊福城に兵を向けました。
そのときの城攻めに寄って盛賢の弟十五代盛忠は、遂に戦いに負けて相手方に従ったと
伝えられている。また、この城は1585年9月秀吉の四国征伐の際に長宗我部の軍勢のため
盛景寺と共に兵火にかかって炎上しました。盛忠は城を出た後、性を仙波と改めて庄屋となり、
子孫代々この村の庄屋となる土台つくりをしました。また信仰心も厚く、
兵火に焼かれた盛景寺の再建に特に力を尽くしたそうです。
所在地 愛媛県伊予市中山町大字出渕字漆
松山市内から国道56号線を宇和島方面に車で走ります。約1時間走りますと
中山町にはいります。中山高等学校から約1.3km走ります。
約1.3kmくらい走ると速度を落とし、下図を確認してください
とまった所の右図は、遊栗館公園です。ここに駐車してその先が伊福城、登り口です。
別のところから途中まで車で行けますと地元の人に聞きましたが、徒歩での挑戦
さ~出発GO,GO
昔は、上のへ行くための道、また、馬や、牛で木材をおろしていたそうです。
全く人は通りませんので、見当がつきません。
(;◎_◎)ノ ヤバヤバ
これは、ひどいです。<(; ^ ー^) マイッタマイッタ...でも・・GO,GO
道なき道を尾根に向かって登ります。
\('∇'*)や?小屋、に畑、らしい?道路?かな~
ア。。ここまで、車で向こうから、これるんだ('ε') フーン
あのあたりかな? GO,GO
ここから、登ります
眼下は中山街です。遠くは、中山村落です
上から眺めた!
これから、林の中を登ります。目印も付けなくちゃ(● ̄▽ ̄●;)
目印を付けて登ります
尾根みたいだ!これを右?それとも左?ん~右に登ります
尾根から約30分登って遂に伊福城攻略 ヤッター!(^.^)>
遺構は、堀切が数箇所、また曲輪が数箇所あり、かなり広い城郭と思いました
往時をしのばせる墓石 激しく戦い、戦士した兵の墓
複雑な山は下山するとき迷う恐れがあります。目印は必要です。
持ち物は,ライト、薄い合羽、ヘルメット
ロープ(8径×10m)、目印テープ、手袋、ナイフ、
カメラ、 飲料水、非常食、
獣対策の音の出るもの、
方位計,携帯電話、等
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