adoの「阿修羅ちゃん」で主人公「阿修羅王」の事を思い出した訳ですが、偶然に古本屋さんで入手しました。
背表紙は日焼けして読めませんので、もう棚置きでは売れないですね。しかし、状態はかなり良いです。奥付を見てみます。第一巻は七版、第二巻は初版でした。共に昭和五十三年で、一冊350円の時代です。表紙はご覧の通りで、やはり阿修羅王の首飾りと裸足に目が行きます。正義を司る神らしい雰囲気です。(3/31追記。仏教に帰依後の話です)
第一巻は序章とそれに続く第1章から第8章で構成されています。第1章が全体の1/4以上を占めており、重要なシーンが続きそうな予感がします。
序章はほぼ完全に覚えていました。フリガナが振ってあるので、私でも読めたんですね。曖昧ですが、繰り返し読んだのは中学時代だったはずで、それなりにフリガナに助けられたような気がします。今読み返しても、フリガナが邪魔だとは思わないです。(3/31追記。アンドロメダ・ストーリーズに良く似た出だしです。不思議なものです。後日、原作比較をしたいです)
第1章、プラトンかつオリオナエの章です。こうして読み返すと、グラディウスが良い味を出しています。美形だし、振り回されるし、コメディっぽくて、萩尾望都氏らしい造形だったと感じました。オリオナエの息子ハルトも鋭いですね。こんな風に、ちょいちょい良いキャラが出てくるんでしたっけ。ポセイドン登場シーンの頭と槍の最上部の演出も、こんなことまでしてたのかと気づかされました。48~49ページは強烈な印象を私に植え付け、私の宗教観(無宗教観と言えるかもしれません)の基盤になったようです。この部分は見た瞬間に記憶が蘇りました。そして今更ですが、古本独特の香りに懐かしさを覚えます。54~55ページは正直、忘れていましたが、じんわりと思い出してきました。SFとは何か、という事を考えさせられます。豊かな想像力に基づく衝撃、と言ったところでしょうか。59ページの、王宮の船着き場の下りですが、このやり取りは鮮明に覚えていました。大変な緊張感を持たせる台詞の連続するシーンで、漫画の技巧の高さに舌を巻きます。とりあえずユメは最高に綺麗だと言っておきましょう。長い旅が始まります。いや、これが本当に長いんですよ。もうとんでもない物語の幕開けなのです。
第2章、シッタータの章です。76ページの四人が名乗りを上げるシーンですが、非常に印象深いです。四人目のの「富楼那」=「フルナ」というのは、キラキラネームとしても上質なものではないかな、って思ったのは当時と同じでした。老ウッダガの立ち位置が巧みで、読者に必要な情報を伝えてくれます。これを狂言回しというのでしょうか。81ページの「由旬」は当時、理解できないけど凄いんだろうな、とは思っていました。調べると、定義が多く、1由旬は7~14.5km程度のようです。1由旬=10kmで換算すると、32万由旬で320万km、約10光年というところで、プロキシマ・ケンタウリやバーナード星を大きく超える距離となります。意外と近い気もします。調べない方が良かったかな、という経験ってありますよね。同じページの虚数とかエントロピーとか、中学生に言われても困りますよね。でも、何か雰囲気で伝わるものがあったのも事実でした。87ページ、遂に登場しました。次のページの「画像を空間に結んでみました」は名セリフでした。しっかりと覚えていました。鬼ですよ、鬼。戦いの鬼です。
第3章、梵天と帝釈天の章です。96~97ページに、思い出深い弥勒と五十六億七千万年後の下りがあります。慈悲深そうな梵天王と敬虔なシッタータの対照が印象深いです。ここで十六万由旬が千六百億光年であると示されます。従って第二章での換算との違いから、由旬の定義が我々と全くと異なる、ということが判ります。このかっこ書きは第二章で欲しかったですね。レイアウトの都合だったのでしょう。ちなみに「光年」の定義は知っていました。マセガキでしたから。それだけに、当時は聞いたことも無かったスケール感に圧倒されました。今考えると、兜率天と夜摩天は完全に切り離された世界であることが判ります。興味深いのは「天」の使い方です。「天」は世界に対しても、神格にたいしても使われています。名前については繰り返し強調している通り重要で、これは「世界と神格の同一視」が背景にあるのだと思います。ところで、夜摩天と言われるとYOASOBIの「夜に駆ける」を連想してしまいます。何にロマンを感じるのかというのは時代を超えるのではないかと感じます。初めはadoとYOASOBIの区別がつかなかったのは内緒です。話を戻して次のページ以降も、世界説明など重要な話が続きます。金輪際の語源もここからでしょうか。とにかくスケール感が桁違いで、当時も今も「ほえー」って溜息をつくしかできません。100ページでついに阿修羅王に言及されます。梵天王は阿修羅こそが諸悪の根源だと断じ、シッタータに命題を与えました。ここは非常に重要な所だと思います。帝釈天は美形の青年の容貌です。阿修羅王は中性だと何かで目にしました。104ページからのシッタータの内心吐露は、当時は良く判りませんでした。ちょっと中学生には難しかったのかもしれません。今となっては、シッタータは慎重で、弥勒による救済に疑問を持っているかのようです。五十六億七千万年後というのは、永遠に来ない事の比喩なのではないか、とすら考えているのではないか、と想像できます。この章では、梵天は存在感を示しましたが、帝釈天はシッタータに食われてしまったようです。
第4章、阿修羅王の章です。冒頭から、非常に複雑な表情の阿修羅王が登場します。この絵は描くのにかなり苦労したのではないでしょうか。それとも萩尾氏なら、あっさりと描けちゃうものだったのでしょうか。とてもではないですが、鬼には見えません。憂いを帯びたその表情は興福寺の阿修羅像の写し絵とも言えそうです。なんて寂しそうな顔をするのでしょうか。四億年。人間の脳が耐えられる時間ではありませんね。阿修羅王の表情変化も像を踏襲しています。弥勒の偽善性を示唆する阿修羅王。シッタータはひれ伏すしかありませんよね。こう書いてから、阿修羅王による追い打ちがありました。思い出します。というか、覚えていたから上のように書けた訳です。「示唆」では済まず、かなり辛辣でしたけど。熱的死。強烈なワードです。第二法則だと判ったのは高校に入った後でした。「初めて意見が一致したな」の下りは覚えていますが、流れ的にシッタータの聡明さを浮きだたせるものだった事までは理解できていなかったです。やはり、読み返すと面白いですね。この章で阿修羅王に心を鷲掴みにされます。非常に良いキャラで、このキャラを得た時点で作品は成功したも同然だと感じました。
第5章、弥勒の章です。132ページは大事なシーンで、シッタータがなぜ涙を流すのかぼんやりと理解していました。どうやらそれで正解だったみたいです。描かれているたった一筋の涙でもって、若者にも雰囲気で彼の気持ちを理解させる、まさに漫画の力を思い知りました。阿修羅王は相変わらず辛辣で、この台詞にまつわる記憶が一気に戻ってきました。リチウム原子弾なんて、語感だけでとんでもない物なのだろう、と想像しか出来ませんでした。もちろん今でも「核融合弾なのだろうな」との類推しかできませんけど。話は壮大そのもので、かつ弥勒の欺瞞性が固まっていきます。
第6章、ユダとキリストの章のようですが、ちょっと混乱しています。覚えているのは「ナザレのイエス」です。ユダはそれほど出てこなかったように記憶しています。僅かな不安を抱えて読み進めます。イエスの誕生はシッタータのそれと相似形をなしていて、しかも弥勒の委員会が共に影響力を行使した結果でした。この段階で、ちょっと可笑しくて笑ってしまいます。イエスとシッタータの人となりの違いについでです。これはご存じの方でないと判らないかと思います。さて、ユダですが、重要な狂言回しの役でした。恐らく、ストーリーに溶け込んでしまってキャラの印象が減ったのだと思います。話としては、更なる相似性が顕わになります。終末思想とその救済です。この章の最期まで読むと、ユダは当然、狂言回しに留まらない訳ですが、これを忘れているというのはどうなのでしょうか。不思議です。おそらくユダが何をしたか、当時の私は既に知っていて、驚きがなかったというのはあるようです。ただ、その行動は委員会に制御されている、というのが本作品の重要なプロットとなります。プロットに魅かれ、キャラに魅かれなかったのでしょうね。エヴァ風に言うと、シッタータとイエスは共に作られた子供たちで、行動は人それぞれ。ゼーレ(あ、これも委員会だわ)のシナリオに従わない者も出てくる、それと知らずに手伝うものも出てくる、といったところでしょうか。「シ」と「使徒」も被りますし、何かとありますね。
第7章、イエスの見せ場のようですが、いよいよ記憶が怪しくなってきました。物語も起が終わり、承に差し掛かります。起は覚えているけど承は覚えていないのが興味深い所です。逆に楽しみが増えます。章の扉絵に見慣れない人と、居るべきなのに居ない人が居ます。ピラトウス総督は良い味を出しています。イエスも相変わらず素朴かつ上から目線で、原始キリスト教ってこんな感じだったのかなと想像が膨らみます。危険視されるわけですね。弥勒とミカエルの語感が近い事も光瀬先生の頭の中にはあったみたいですね。ミカエルの説明により、おおまかな舞台立てが判明します。非常に助かりますね。188ページでも何度目かの衝撃を受けます。
第8章、トーキョーシティーです。何が起こるのかワクワクです。なんとまあ。オリオナエは高齢のため自己防衛用の出力専用モードで休憩中のようですね。鍵になる入力ワードがあるんでしたっけ。とにかく合流出来ました。「名前をつける」ですか。ふむふむ。オリオナエの説明で第一巻が終わります。
第二巻は、第9章から第18章、および終章から成ります。第一巻よりも分厚いです。
第9章、どうやら更に集結するようです。話が動き始めています。イエスによる襲撃時に、オリオナエは過去と同じ悲劇に見舞われます。シッタータは追尾を試みますが、襲撃側のイエスの方から仕切り直してきます。そこで阿修羅王の登場です。これから分かることは、シッタータは一旦は「シ」の追跡を逃れ、海の底で上手く隠れていたようです。イエスは忠実にもトーキョーシティーでずっと待ち伏せを続けており、更にそれを阿修羅王は待ち構えていた、という事になります。
第10章、果たして阿修羅王の目論見通りに行くのかどうか、という章のようです。ちょっと言葉足らずのようですので書きますと、阿修羅王は「シ」に話があるため、イエスに案内をさせたい訳で、そのために待ち構えていました。この章ではオリオナエとシッタータそれぞれにもはっきりとした動機があることが再確認されます。この追跡劇は始まったばかりのようで、これが後半の主題になるのか、何章かで終わるのか、もちろん忘れてしまっています。
第11章、ゼン・ゼン・シティー、忘れようもない名前の章です。なるほど、追跡の舞台だったわけですね。こうして見ると、阿修羅王は結構、突飛な行動が多いですね。だからこそ、この奇妙な都市での探索が捗っているのですが。気になるのは最後、阿修羅王でも無効化されている、という描写がありましたが、一体そんなことのできる存在は何なのか、全く見当もつきません。それこそ帝釈天レベルを持ってこないと無理なような気がするのですが。帝釈天、なんだか忘れ去られていますね。
第12章、ゼン・ゼンの隠された真実、ということでしょうか。管理システムの「しょうがない」には笑っちゃいましたが、こんな曖昧判断が出来るのは相当に高いレベルの人工知能なのではないか、と感じました。「人間は全て・・・」の下りはアンドロメダ・ストーリーズの機械管理下に置かれた人間の状況と完全に重なります。もう2作品のどちらが早いかという野暮な話を通り越して、時代性だったのだと感じます。今にも通じる時代性なのかは、よく判りません。事実としては、2作品が薄っすらとではあっても提示した内容に、我々は集団としては何も答えを出さずにズルズルと進んでいるあるいは後退している、ということだけでしょう。内容の方は、シッタータにも阿修羅王の無茶をする傾向が出て来て、ある種の共鳴があったのかなと思ったりします。しかし、あのように言われても、知覚できる世界が私の世界だ、と答える他はないと思います。
第13章、ユダがもう一回出てくるとは。いよいよ私の記憶も頼りなくなってきました。本作品ではイエスに12人の弟子が既にいる状態でユダが登場したので、ユダは13番目だと見る事も出来ます。それが第13章に来る辺り、合わせて来てますね。なお、漫画版の章立ては原作小説と全く異なっています。漫画版に再構成していく時の楽しそうな情景が目に浮かびます。内容の方は、シンクロニシティの強烈版、と言っていいのか、人工的なものというべきなのでしょうか、まあ、そうゆうものが出てきます。ここまでの強度で個を無くしてしまうと、アンドロメダ・ストーリーズの感想で書いた結論と同じ事を思い浮かべてしまいます。この時点で、なんとなく新シッタータとユダが似てることに気づきました。ん、どうなってたんだっけ。すぐに判りました。ユダ登場、道標に続く信号ということでした。ふむ、並んでも似ています。しかし、機械の支援があっただろうとはいえ、ユダが阿修羅王を封じ込められる、というのは驚きのパワーバランスでした。
第14章、兜率天のトバツ市に戻るようです。ユダも一緒のようで心強いです。ここまでユダは良いように使われているだけでしたが、覚醒したみたいです。全体的にイエスとユダの描き方が独特で、いっそ清々しいですが、日本以外での展開には困難な点となるのでしょう。ユダを私が完全に忘れているのは、ここまで来ると謎だ、としか言えません。キーワードがあったのはオリオナエではなく、ユダだったのですか。これは頭が混乱してたみたいです。ユダの要素をバラバラに分解して、各キャラに付与した、とも言えそうです。脳は謎だらけですね。117ページ最終コマ、実に寂しそうな表情です。この世界は誰のものか。今まで真面目に考えたことの無い問いであるし、普通に生きていくにはその必要もないでしょう。唯一、SFの世界だけが、これを問うきっかけをもたらしてくれます。あ、唯一じゃ無い気がしてきました。これ以上の脱線はよしましょう。内容としては、帝釈天とユダが全く連携が取れていない事がはっきりします。帝釈天は阿修羅王とは付き合いが4億年ですから、長いですね。これだけ戦ってきたのだから、お互いにある種の感情を抱いても不思議ではありません。ただ、常人ではないので、感情に支配されることがほぼないはずです。それでもやはり、という部分がきっとあるのだと思います。もしかして、これって究極のラブロマンスなのかもしれませんね。まったく表に出さない(私の記憶です。これから読みますがヒヤヒヤ物です)というのが憎いですね。と書いているはなから、早速です。帝釈天の言葉に、阿修羅王は目から涙をこぼします。これだから私の記憶は全く頼りにならないのです。これ以上の告白はないのではないでしょうか。122~123ページは神シーンです。もう記憶について書くのは止そうと思います。ラスト四分の一に差し掛かりました。間もなく本記事も終わりを迎えそうです。
第15章、いよいよ弥勒へ近づくようです。131ページ前半、シッタータの立ち位置が良く判ります。結構、ドロドロしていたんですね。ユダよ・・・。こうして一つの世界が消滅しました。帝釈天の言葉はいまいち判りませんでした。なぜそのような制約を受けているのでしょう。ユダの知識の源泉とも関係があるのかもしれません。
第16章、敵の本拠地らしき場所の話です。イエスもここへ向かったはずです。新星雲起、変化の時代。変化しすぎて終末になるとかは勘弁願いたいです。阿修羅王は巧みにイエスを誘導し、手がかりを掴みました。神の姿も声も、開発も救いも、全ては虚構でした。全ての文明は造られた道の上を破滅へ向かって進まされていただけでした。どうにもやるせない、苦しくて気の晴れない話です。作品から受けたイメージの主要部分はこの辺りにあったみたいです。イエスの「な な なにをするんだ!」には笑えました。
第17章、さっぱりどんな内容なのか判らないタイトルでした。余計な気を起こさず、素直に読み進めます。永劫の門。169ページ、阿修羅王の台詞の意味が難解です。彼岸だけはなんとなく暗喩するところが判りますが、転輪王や弥勒が何をどう比喩しているのかが判りません。しかし、それどころではありませんでした。弥勒が現れ、阿修羅王に一つの問いを発します。完全に固まる三人と私。そうだ、確かにそうでした。何重もの意味でそうでした。慄然とはこの事を言うのでしょう。弥勒の心理攻撃の印象はとても大きかったです。永遠の時を戦い続ける阿修羅王、このイメージを形作ったのはこのシーンでした。この心理攻撃が後々まで読者の心に残る、という建付けは良く思いついたなと純粋に感服します。エルカシア。たしかにエルカシアの事、宗主の事をすっかり忘れていました。無理はないでしょう。余りにも他の情報が多すぎたのですから。阿修羅王たちに反抗を命じていた者とは。悪の神、夜の神とは。
機会がなかったので、ここで書きますが、他の登場人物はほとんどが「阿修羅」と呼び、王は付けないようです。私は何故「阿修羅王」と呼んでいたのでしょう。たぶん、単にかっこいいから、辺りなのだと思います。
第18章、更に進むようです。さすがに色即是空の意味する比喩は判ります。乱暴に言うと水爆ですけど。209ページ、オリオナエの謎技術が炸裂します。褒めてもらいたいのか、どこか誇らしげです。ディラックの海、マイナス・エネルギーの世界。どこでもドア。これでD座標へ。しかしこれ自体が罠で、虚数空間を漂い続ける事に。文字通り、決死の脱出。
終章、百億の昼と千億の夜。ただ一人、どこかの世界に辿り着いた阿修羅王。声がして、転輪王と自称しました。転輪王とは、姿なく、長きにわたって世界の外にあって、世界の全てを見てきた存在です。転輪王こそが阿修羅王たちに抵抗を命じたのでした。自らの非力を嘆き、転輪王は自らが見た不可解な幻を阿修羅王に見せます。どうやらどこかの実験室で、偶然発生した生命を安全に、ゆっくりと除去する者たちの声であったようです。阿修羅王は更に前へと進むことを決意しました。
全体を通しての感想ですが、気の遠くなるようなスケールが、更にスケールアップしていき、ついには理解を超えた多重世界構造らしきものが浮かび上がるという、まさに壮大な一篇でした。漫画ならではの優れた技法が多用されていて、独自の作品世界を感じることが出来ました。原作を知らずして漫画を読むのはもったいない気もしますし、漫画から入るのも良いかなとも思いました。どちらか一方だけを、と言われると非常に難しいのですが、とりあえず、現時点では、漫画版かな、というのが実感としてあります。まずは原作を再読してみたいと思います。ハードSFを読み慣れた人ならば原作小説から読み始める一択なのは言うまでもないのですが。
読み始めは、漫画自体に触れるのが久しぶりだった事もあり、非常にノロノロとしたペースで読んでいました。ある時にスイッチが入り、一気に読み終えました。それでも読むスピードはかなり落ちていました。
adoの阿修羅ちゃんの記事で書いた内容は一点を除いて誤りはなかったようです。その一点については、今から当該記事に追記を載せておこうと思います。