少し前のこと。
ふと昔を思い出しGoogle マップで探した。
あったー。
遠い記憶中にあるその建物は確かにおぼえがあった。
京北警察署(現 右京警察署京北交番)
高校2年生の終わり春休みに家出をした。
が、2日目に京都の山奥で保護された。
東京を目指したが、京都市内で迷い京都から脱出できずに
どんどん山奥に・・そして、京北町にたどり着いた。
そこの警察署のお巡りさんは、皆、とても温かく
晩ごはんは、出前をとってくれた。
かつ丼だったかもしれない・・・(笑)
逮捕されたわけではないので、留置場に泊まるわけもなく
署長室のソファをお借りして寝た。
といっても眠れず、当直のお巡りさんと語りあかした。
「お母さんが明日迎えに来るから、素直に帰りなさい。
そして、もうお母さんに心配をかけたらいけないよ。
ちゃんと学校を卒業して親孝行をしないとね」
みたいな話をしたと思う。
朝食はサンドイッチとオレンジジュース。
もう4月だというのに京都の山奥は寒く、窓の外は霙が降っていた。
続々とお巡りさんが出勤してきた。
「あー、広島の元気のいいお嬢さんはあんたねー」
部長刑事のYさんは、午後からの麻薬関係の張り込み?
に行くまでの時間私の守りをしてくれた。
「いつでも辛くなったら連絡しておいで」と
名刺をくれた。その後、文通をするようになって私を支えてくれた。
最初の手紙には「夕方、署に戻ったら机にもみじ饅頭があって、
あぁ都ちゃん広島に帰ったんだなとおもってちょっとしんみりしたよ」
と書いてあったっけ。
昼過ぎに母が、迎えに来てくれた。
「もーあんた、京都駅から2時間もバスに乗ったよー」
が第一声だった。
実は保護されるまえに、揉め事があってパトカーを見たときに
これは、もう保護されると思い、母に電話をした。
急に警察から電話があると母が驚いて倒れるんじゃないかと心配で。
公衆電話に10円玉が凄い勢いで飲み込まれる。
「ごめん、今、京都におるんよ。逮捕されるわけじゃないけど
今から警察に捕まる感じ?
たぶん警察から電話があると思う、迷惑かけるごめん」と。
私は、不良だったけど警察のお世話になることは初めてだった。
母は、何度も頭を下げていた。
私はまだ此処に居たい気分だった。
目の前のバス停の時刻表には、1時間に1本?の数字が記載されていた。
そこへ年配男性が「二条駅の方にいくから乗っていきませんか?」と
タクシーの相乗りに誘ってくださった。
「この駅から京都駅にいって、そこから新幹線に乗りなさい」
と優しく教えてくださった。
代金は受け取ってもらえなかった。ただただ感謝。
母は、この時生まれて初めて新幹線に乗ったのではないだろうか。
私は小学中学の修学旅行いらい3回目だった。
私にとっても初めての京都駅、自分の力で?時刻表を見たり切符を買ったり
ホームを探したり、なぜか私は張り切っていて少し楽しかった。
丁度、神戸ポートピア'81が開催されて数週間たった頃で
新幹線に空席がなく、トイレの前で母と過ごした。
座れず立ちっぱなしで母に申し訳なかった。
広島駅の南口に出て見慣れた風景を目にし
「あぁ・・・帰ってきてしまった失敗だ。」と思った。
家出をしたのには理由があって・・・
決して家が嫌なわけではない。
一大決心の行動であったのは確かだけど詰めが甘い。
思えば、母と乗り物に乗って県外に出たのは後にも先にもこの時だけ。
旅行など一度もしたことがなかった。
だから、最初で最後の親子旅行になった。
家出した娘を迎えに行ったことが旅行だ何て、ゴメンナサイ・・・
私が高校を卒業したと同時くらいに母は、体調を崩して寝たり起きたりとなったので
私は家計を助けなければならなかった。
昼も夜も働いていた。
時間的にも金銭的にも旅行に行く余裕はとてもなかった。
月日が流れて、「あの時は、ほんまにごめんね・・・」というと
「ほんま、あんたはごういらす(世話のかかる)子じゃったよねー」
と笑っていた。
もう、40年も前の話。
ふと昔を思い出しGoogle マップで探した。
あったー。
遠い記憶中にあるその建物は確かにおぼえがあった。
京北警察署(現 右京警察署京北交番)
高校2年生の終わり春休みに家出をした。
が、2日目に京都の山奥で保護された。
東京を目指したが、京都市内で迷い京都から脱出できずに
どんどん山奥に・・そして、京北町にたどり着いた。
そこの警察署のお巡りさんは、皆、とても温かく
晩ごはんは、出前をとってくれた。
かつ丼だったかもしれない・・・(笑)
逮捕されたわけではないので、留置場に泊まるわけもなく
署長室のソファをお借りして寝た。
といっても眠れず、当直のお巡りさんと語りあかした。
「お母さんが明日迎えに来るから、素直に帰りなさい。
そして、もうお母さんに心配をかけたらいけないよ。
ちゃんと学校を卒業して親孝行をしないとね」
みたいな話をしたと思う。
朝食はサンドイッチとオレンジジュース。
もう4月だというのに京都の山奥は寒く、窓の外は霙が降っていた。
続々とお巡りさんが出勤してきた。
「あー、広島の元気のいいお嬢さんはあんたねー」
部長刑事のYさんは、午後からの麻薬関係の張り込み?
に行くまでの時間私の守りをしてくれた。
「いつでも辛くなったら連絡しておいで」と
名刺をくれた。その後、文通をするようになって私を支えてくれた。
最初の手紙には「夕方、署に戻ったら机にもみじ饅頭があって、
あぁ都ちゃん広島に帰ったんだなとおもってちょっとしんみりしたよ」
と書いてあったっけ。
昼過ぎに母が、迎えに来てくれた。
「もーあんた、京都駅から2時間もバスに乗ったよー」
が第一声だった。
実は保護されるまえに、揉め事があってパトカーを見たときに
これは、もう保護されると思い、母に電話をした。
急に警察から電話があると母が驚いて倒れるんじゃないかと心配で。
公衆電話に10円玉が凄い勢いで飲み込まれる。
「ごめん、今、京都におるんよ。逮捕されるわけじゃないけど
今から警察に捕まる感じ?
たぶん警察から電話があると思う、迷惑かけるごめん」と。
私は、不良だったけど警察のお世話になることは初めてだった。
母は、何度も頭を下げていた。
私はまだ此処に居たい気分だった。
目の前のバス停の時刻表には、1時間に1本?の数字が記載されていた。
そこへ年配男性が「二条駅の方にいくから乗っていきませんか?」と
タクシーの相乗りに誘ってくださった。
「この駅から京都駅にいって、そこから新幹線に乗りなさい」
と優しく教えてくださった。
代金は受け取ってもらえなかった。ただただ感謝。
母は、この時生まれて初めて新幹線に乗ったのではないだろうか。
私は小学中学の修学旅行いらい3回目だった。
私にとっても初めての京都駅、自分の力で?時刻表を見たり切符を買ったり
ホームを探したり、なぜか私は張り切っていて少し楽しかった。
丁度、神戸ポートピア'81が開催されて数週間たった頃で
新幹線に空席がなく、トイレの前で母と過ごした。
座れず立ちっぱなしで母に申し訳なかった。
広島駅の南口に出て見慣れた風景を目にし
「あぁ・・・帰ってきてしまった失敗だ。」と思った。
家出をしたのには理由があって・・・
決して家が嫌なわけではない。
一大決心の行動であったのは確かだけど詰めが甘い。
思えば、母と乗り物に乗って県外に出たのは後にも先にもこの時だけ。
旅行など一度もしたことがなかった。
だから、最初で最後の親子旅行になった。
家出した娘を迎えに行ったことが旅行だ何て、ゴメンナサイ・・・
私が高校を卒業したと同時くらいに母は、体調を崩して寝たり起きたりとなったので
私は家計を助けなければならなかった。
昼も夜も働いていた。
時間的にも金銭的にも旅行に行く余裕はとてもなかった。
月日が流れて、「あの時は、ほんまにごめんね・・・」というと
「ほんま、あんたはごういらす(世話のかかる)子じゃったよねー」
と笑っていた。
もう、40年も前の話。