鰻のあとの腹ごなしに、日比谷線で三ノ輪まで。
日光街道と明治通りの交差点に立って見上げると、マジンガーZの頭のようなビルがある。
パイルダーON!
ちんちん電車の駅の方へ、道路を渡り、歩く。
ここを通り抜けて三ノ輪商店街へ。
総菜屋さんや餃子専門店、古い作りの蕎麦屋、おばさん向けの衣料がばか安なお店が、アーケードの下に続く。
水曜日なので閉まっている店が多いのが残念。
が、ここへは買い物に来たのではない。
本日は、ばあさんの思ひで探しの町歩きなのだ。
尋常小学校に入学する前くらいに、ばあさんはこの辺りに住んでいたそうな。
空襲で焼けてしまったり、開発ですっかり様相が変わってしまったりと、昔の面影はごく少ないのだが、わずかな記憶をたよりに歩いてゆく。
70年ほど前の話だ。
「古今亭志ん生」の落語に出てくるような、貧乏長屋に娘が3人、その2番目がばあさん。
父は(つまりオヤジの祖父さん)売れない西洋画家で、しかも共産党に傾倒したプロレタリアな酔っぱらいで、特高警察と借金取りから逃げ回ったあげく、一時この土地に落ち着いたのだった。
絵など全く売れないご時世で、生活のために紙芝居や羽子板などに描いて、糊口を凌いでいたという。
プラチナの刃先を熱し、木版に焦げ付けるように描いた絵はいくらか金になったらしく、それでもわずかな生活費を入れて、近所の飲み屋で「先生、先生」とおだてられて飲んだくれていたそうだ。
仕事があるうちはまだいいが、なくなると商売道具のプラチナを質屋に入れて、金をつくる。
その繰り返し。
警察の留置場へ何度も入れられて、その度に祖母は幼い娘の手を引いて請出しに行ったという。
ばあさんが今思うに、それは警察の心証を良くするための祖母のささやかな作戦だったのだろう、と。
「226事件」が起きる前くらいまでの話である。
都電の踏切を渡り、明治通りへ出る。
この工場の前を通り、反対側へ渡る。
そしてこの「正庭通り」をずっと歩いてみたかったそうだ。
ばあさんが通った小学校は、もうすっかり新しくなり、見るべきものもない道をてくてく歩く。
貧乏で、しょうもない父親で、辛い日々でも、時は過去を懐かしく変える。
〈中略〉
しばらくして道は日光街道に突き当たり、かつて三菱銀行だったところがスーパーに変わり、隣りの吉野家との間の細い路地に、
これがある。
一同ウシロムキで入って行くと、
ひっそりとあるお地蔵さん。
さて、祖父さんの絵は一度「プラウダ」で取り上げられたものの、日の目を見ることはなく、肺結核のために戦争が激しくなる前に亡くなった。
一家は南千住へ越していき、そこで終戦を迎えたのだ。
3月10日の東京大空襲の時、防空壕へ入り、高射砲がちっとも当たらず、サーチライトの交差する中を悠然と飛来したB29のピカピカ輝く機体を目撃したばあさんの姉は、「かっこいいなぁ・・・」とつぶやいたという。
その光景を見て、軍国少女だったばあさんは、“日本は戦争に負ける”と密かに思ったのだそうだ。
その肝の座った姉も、すでに82歳。元気である。
〈この記事が更新されていくらも経たないうちに、この伯母は亡くなってしまった〉
10年ほど前、その姉の元へ「アサヒグラフ」から、戦前戦後の埋もれた画家の特集を組むと連絡があり、ほどなく祖父さんの絵は雑誌に載った。
それ以前にも「赤旗」の本部のロビーに祖父さんの大きな絵が飾ってあったらしい。
やがて「近代美術館」に祖父さんの絵が展示され、家族、親戚で見に行った。
東京駅のホームに政治家が汽車から降り立ち、出迎える人々と、反対のデモ隊とが衝突したところが、マンガチックなタッチで描かれた大きな絵だった。
少しだけやっと日の目を見た祖父さんの絵は、その後「近代美術館」にお蔵入りした。
今度、もし展示されることがあれば、もう少しきちんと見ようと思う。
懐かしい散歩から帰って、疲れたばあさんは、鼾をかいてお休みだ。
最近南千住界隈や、下町散策を積極的にしている訳が、これでおわかり頂けたかと思います。
飲んだくれの祖父さんと、飲んベェの父ちゃんの血を引いたオヤジの長い1日は、これで終わったわけではない。
この後さらにぐでんぐでんの夜が待ち構えているのである。
〈つづく・・・〉
この記事の約1年後に、画家「望月晴朗」の絵は再び「近代美術館」に展示され、画伯のご令嬢としてばあさんと家族御一同様はご招待を受けた。
やはり嬉しそうである。
故人の冥福を祈り、あえて過去ログを加筆・再録いたしました。
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