かつて千住の呑み横にあったカウンターだけの小さなお店に、仕事が終わってからご飯を食べによく行っていた。
ある晩ママが常連さんに、
「ちょっと待ってね、もうすぐイノキが来るから」
と言った。
えっ!! と振り向いたオヤジの脳裏に燃える闘魂「炎のファイター~INOKI BOM-BA-YE~」が鳴り響く。
『おい、本当かよ』とワクワクして待っていると、
「お待ちどうさま」
と言ってマスターが入ってきたその手には、エノキの袋がのっていた😳
なんとママは茨城弁で「エノキ」のことを「イノキ」と発音していたのであった、チャンチャン🤪
今から42、3年前の六本木、バーガーインを背にして外苑東通りを渡り、ロアビルの隣にあったビルの2階に「アントンリブ」があった。
生意気にも六本木5丁目に住んでいた若造は、1、2度「アントンリブ」で肉に喰らいつく機会があって、その時初めてタバスコを知ったのだった。
タバスコは戦後日本に入ってきてはいたようだけど、その当時はまだあんまり普及していなかったから、初めてタバスコの鮮烈な辛さを味わいぶっ飛びつつもそれ以来トリコになった。
その店で女優の「倍賞美津子」さんを見かけた。
色っぽかった、肉感的だった、旦那さんは燃える闘魂「アントニオ猪木」、然もありなんと納得した。
当時「アントニオ猪木」が経営していた「アントン・トレーディング」という貿易会社が、国内で唯一タバスコの販売権を持っていたから「アントンリブ」には当然タバスコが置いてあったのだ。
あれからいったい何十本のタバスコを空けたことだろう❓
我が家の冷蔵庫には常にタバスコが入っている。
二十歳に毛が生えたくらいの若造は、麹町にあった日テレの関係の会社でCAのバイトをやったことがある。
CAったってキャビン・アテンダントではない、カメラ・アシスタントだ。
まあそんな横文字でカッコつけたって、ようはカメラのケーブルを邪魔にならないようにさばいたり、本番前にテストパターンを撮ったりするカメラマンの下働きで、当時のテレビカメラもすんげぇ高価だし重かったし、ものすごく気をつけて扱っていた。
月に何回か後楽園ホールで「笑点」を二週撮りするのと、プロレス中継にはよく駆りだされた。
「笑点」の司会は「南紳助」で、五代目の「三遊亭圓楽」師匠が大喜利メンバーでおられて、その仕事は楽しかった。
悲惨なのはプロレス中継だ。
必ず場外乱闘になって外人レスラーはカメラに向かってくるのだが、レスラーだって高価なカメラを壊したらヤバイのは承知だから寸前で見切れて腹いせのようにケーブルを捌いている若造を蹴ったりするのだ。
カメラマンはカメラマンで、カメラを守りながら「どけぇ‼︎」とか言って若造を足蹴にする。
黒い魔神「ボボ・ブラジル」が迫ってきたときにはほんとうにビビった、なんせ腿の太さなんかこっちの腰まわりくらいあるし、汗でテカテカになった黒い肉体は鋼のようで、ケーブルを抱えながら逃げまどった。
あの時リングにはあの人が、燃える闘魂がいたのだろうか❓
店を改装する前、まだ昼も営業をしている頃、「マヤさん」がひょっこり連れてきてくれたのは、な、な、なんと、あの「タイガー・ジェット・シン」だった!(◎_◎;)
あの人を、燃える闘魂を血だるまにしてリングを血に染めた「狂虎」がモグランポにいるなんて・・・。
しかし目の前にいる「狂虎」はビジネスマン然として、穏やかで柔和な笑みを浮かべている。
そして柔和な「狂虎」は「マヤさん」と二人で、ペロッとまるでモーニングティーでも飲むようにビールを1ケース空けてしまったのだ。
こんな日が来ようとは・・・、あの人の、燃える闘魂の1/100でもファイト出来るかと無謀な妄想を抱きながらも興味の対象はひとつ、あの血みどろのサーベルはどこにあるのかということ。
すると柔和な「狂虎」は気さくに👌といい、ビビリ気味のオヤジは付き人と一緒に彼の車まで見に行き、トランクに納まっていたあの人を打ちのめしたサーベルを目の当りにしたのだった。
今となって考えてみりゃ、あれ銃刀法違反じゃね❓って感じだし、駐車場でトランクの中の凶器を確認するなんざまるで「反社」みたいだが、あの時はさすがに興奮しまくっていたからなぁ・・・。
昨日から「イノキボンバイエ」が脳裏に鳴り響いて止まらない。
テレビを見ながら涙が止まらない。
タオルを差し出すかあちゃんに「赤いタオルにしてくれ😭」と鼻水を啜り上げる。
なんで闘魂注入してもらわなかったんだ😩
「元気があればなんでもできる」という言葉が今は染みて沁みて滲みる、退院直後のポンコツだ。
危ぶまず、最後まで闘って道を切り拓き、その道を逝った炎のファイター、闘魂「アントニオ猪木」に感謝、合掌‼️