今のご時世テレビで「兵隊やくざ」が放映されることは間違ってもないだろうが、あの当時でもなかなかエグイ場面があり、子どもが親とみるような映画じゃなかった。
このオヤジがご幼少の頃、まだ上野辺りの路上には傷痍軍人が白い軍服を着て、アコーディオンのもの悲しい音色を奏でながらいくばくかの小銭をもとめていたものだ。
子供心にもあのオジサンたちの姿は痛々しく、あんまり見ちゃダメだと親から叱られた。
だがある日、爆弾で足を失ったかに見えた松葉杖を傍らに置いていた傷痍軍人が、どこからかやって来た仲間と帰り支度をして、義足かと思ったらヒョイと立ち上がりスタスタと両足で歩いて行ってしまった。
軍国少女だったお袋は8月15日、皇居前の広場に駆けつけ泣きながら玉音放送を聞いたと生前何度も聞かされた。
一方親父はその時まだ満州にいて、日本に帰れるかどうか暗澹たる気持ちだったと言う。
その話しを「兵隊やくざ」を見終わってからぽそっと漏らしたのだ。
戦争の話しを親父はあまり語ろうとはしなかったが、その時は「勝新太郎」の大宮と「田村高廣」の上等兵の痛快な映画をみて心が軽くなったのか、問わず語りに戦時中のことを回想した。
親父は北支派遣軍として満州に赴き、トラック部隊で中国の荒野を遠征したという。
「勝新=大宮」のように意地悪で強欲な上官に殴られ、ただひたすら空腹に耐え空襲を逃れ、何もない荒野に動くものがあれば命令のまま小銃を撃ったそうな。
命中したものは巨大な野ネズミで、トラックの全員でむさぼり喰ったという。
だが無駄な正義感が芽生えたガキはそんな親父の気持ちも知らず、「人を撃ったのか、殺したのか」と詰問し、せっかくの「兵隊やくざ」の親子団欒をぶち壊し気まずくさせてしまった。
それから中学になってますます屁理屈で反抗的なガキに成長したオヤジは、ポータブルプレーヤーでー「吉田拓郎」の「イメージの詩」を大音量でかけ、
「たたかい続ける人の心を 誰もがわかってるなら たたかい続ける人の心は あんなにも 燃えないだろう」
という歌詞で親父はぶち切れ、レコードプレーヤーを蹴飛ばし、たちまち親子は取っ組み合いの喧嘩😑
親父とオヤジはそんな事があってから何年もギクシャクした関係で、かあちゃんと一緒になって少しはマシになったもののまだわだかまりは残り、それが小僧という孫ができてようやく落ちついたのもつかの間、やがて親父は患い透析をする障害者になり、店をオープンした翌年75歳で逝った。
親父の戦争とは何だったのだろう❓
戦友会の案内がきていたけれど一度として行かなかったし、靖国神社にも足を踏み入れたことがなかった。
8月15日の水曜日、親父とお袋の墓参りに行き、ふとそんなことを考えた。
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mogmas
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