アテネでは例年、夏に舞台芸術祭が行われる。
オペラ、ダンス、演劇、音楽など内容は多岐にわたり、「パフォーマンス」なんて
ジャンルまであるところを見ると、もうなんでもありらしい。会場も複数に分かれている。
わたしは創作ダンスを見た。
パフォーマーはポール・テイラー・ダンス・カンパニーという集団で、アメリカから参加。
鑑賞というより、会場であるヘロド・アティクス音楽堂に入るのが主目的だったため、
日時的に他に選択肢がなかった。創作ダンスはあまり好きではないと思うが……
実際に見て。……いや、ほんとにつまらなかったですね。
このポール・テイラーという人は、既に半世紀以上ダンスに携わっている人らしい。
こう言ってはなんだけど、50年も振付を続けることには無理があるのではないか。
移り変わりの激しい現代社会において。
50年、時代と足並みを揃えているのは不可能に近いと思うが。
まあ、わたしはダンス、創作ダンスにはまったく詳しくないので、
単に眼が慣れてないのかもしれないけれど。
拍手は盛大だったけど、他の方々はほんとに良かったと思って拍手してたのかねえ。
人間の走る姿を美しく見せるのは大変だ。と思いながら見ていた。
第一部は特に、ダンスというより肉体表現だったので、転がりまわったり走ったり、
飛び上がったり、という動きが多くなる。
このうち、全速力で走る姿がとても多かったんだけど……
走る姿が全て美しくないわけではない。
陸上競技としての「走る」は美しいと言っていいと思う。マラソンはそうでもないが、
短距離走のフォルムと動きはかなり美しいと思いますよ。
力とスピードが美を生み出す決定的な要因。もちろんそれは、一級の選手においてのみ。
主目的が「見せる」である場合、「走る」の本来の目的である肉体移動は荷が重すぎる。
まさに「荷が重い」のだ。肉体の重さを全速力の中でコントロールするのは不可能。
肉体移動の美しさではバレエがまず来ると思うけれど、バレエが美しく移動できるのは、
スピードを減じることによって、ポーズに力を割いているから。
バレエでは全速力は必要とされない。ジャンプの助走はスピードが必要だが、
それは「ジャンプのための助走」だから、多少「見せる」部分としては大目に見られる。
が、今回のパフォーマンスでは、その走りもパフォーマンスの一環だったため、
その粗さが目についた。こういうことだと思う。
自分の中で、能と対比させていた。
能は存在移動を見せる芸術。それは、あの動作の遅さによってのみ可能なもので、
やはり「静の芸術」でしか有り得なかったろう。
この振付師は「動の芸術」としての肉体移動を狙っているように見える。
しかしそれを達成するには相当の筋力、表現力が必要とされる。
このパフォーマーたちはそれが出来るほどレベルが高くない。
ボディ・コントロールという意味で思い出したのは、ミュージカル「キャッツ」の役者たち。
ロンドンの舞台を見た時は、一目見た時から舌を巻いたものだった。
この動きを身につけるために。彼らはどれほど努力をしたことだろう。
今回の創作ダンスと「キャッツ」では、求めるものが違っている。
なので、単純に比較もならんとは思うのだが、しかし。
……なんだかめんどくさいことをつらつら書き連ねてますが、全部蛇足。
要は見ててつまらなかった。これが結論。
本当は古代ギリシア劇を見たかった。あの劇場で見ることが出来ればなあ。
まあでもアテネ・フェスティバルの演目として、古代ギリシア劇はあまりないようだけど。
蜷川のグリークスをテレビで見て注目したわたしとしては、
現地人が現代において、どんな風にギリシア古典劇を扱っているか、興味があったのだが。
オペラ、ダンス、演劇、音楽など内容は多岐にわたり、「パフォーマンス」なんて
ジャンルまであるところを見ると、もうなんでもありらしい。会場も複数に分かれている。
わたしは創作ダンスを見た。
パフォーマーはポール・テイラー・ダンス・カンパニーという集団で、アメリカから参加。
鑑賞というより、会場であるヘロド・アティクス音楽堂に入るのが主目的だったため、
日時的に他に選択肢がなかった。創作ダンスはあまり好きではないと思うが……
実際に見て。……いや、ほんとにつまらなかったですね。
このポール・テイラーという人は、既に半世紀以上ダンスに携わっている人らしい。
こう言ってはなんだけど、50年も振付を続けることには無理があるのではないか。
移り変わりの激しい現代社会において。
50年、時代と足並みを揃えているのは不可能に近いと思うが。
まあ、わたしはダンス、創作ダンスにはまったく詳しくないので、
単に眼が慣れてないのかもしれないけれど。
拍手は盛大だったけど、他の方々はほんとに良かったと思って拍手してたのかねえ。
人間の走る姿を美しく見せるのは大変だ。と思いながら見ていた。
第一部は特に、ダンスというより肉体表現だったので、転がりまわったり走ったり、
飛び上がったり、という動きが多くなる。
このうち、全速力で走る姿がとても多かったんだけど……
走る姿が全て美しくないわけではない。
陸上競技としての「走る」は美しいと言っていいと思う。マラソンはそうでもないが、
短距離走のフォルムと動きはかなり美しいと思いますよ。
力とスピードが美を生み出す決定的な要因。もちろんそれは、一級の選手においてのみ。
主目的が「見せる」である場合、「走る」の本来の目的である肉体移動は荷が重すぎる。
まさに「荷が重い」のだ。肉体の重さを全速力の中でコントロールするのは不可能。
肉体移動の美しさではバレエがまず来ると思うけれど、バレエが美しく移動できるのは、
スピードを減じることによって、ポーズに力を割いているから。
バレエでは全速力は必要とされない。ジャンプの助走はスピードが必要だが、
それは「ジャンプのための助走」だから、多少「見せる」部分としては大目に見られる。
が、今回のパフォーマンスでは、その走りもパフォーマンスの一環だったため、
その粗さが目についた。こういうことだと思う。
自分の中で、能と対比させていた。
能は存在移動を見せる芸術。それは、あの動作の遅さによってのみ可能なもので、
やはり「静の芸術」でしか有り得なかったろう。
この振付師は「動の芸術」としての肉体移動を狙っているように見える。
しかしそれを達成するには相当の筋力、表現力が必要とされる。
このパフォーマーたちはそれが出来るほどレベルが高くない。
ボディ・コントロールという意味で思い出したのは、ミュージカル「キャッツ」の役者たち。
ロンドンの舞台を見た時は、一目見た時から舌を巻いたものだった。
この動きを身につけるために。彼らはどれほど努力をしたことだろう。
今回の創作ダンスと「キャッツ」では、求めるものが違っている。
なので、単純に比較もならんとは思うのだが、しかし。
……なんだかめんどくさいことをつらつら書き連ねてますが、全部蛇足。
要は見ててつまらなかった。これが結論。
本当は古代ギリシア劇を見たかった。あの劇場で見ることが出来ればなあ。
まあでもアテネ・フェスティバルの演目として、古代ギリシア劇はあまりないようだけど。
蜷川のグリークスをテレビで見て注目したわたしとしては、
現地人が現代において、どんな風にギリシア古典劇を扱っているか、興味があったのだが。
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