紀元前1万数千年頃、ようやく氷河期が終わり数千年かけて地球は暖かくなってゆきました。それまで暖かい地だけに集まって地中に家を作って住んでいた人間たちは、徐々に地上に出て旅に出ました。思い思いに自分たちの気に入った場所を見つけ、家族や気の合う人たちで定住しました。
中でも、探求心と好奇心の強い民族は、この世界がどこまで続くのか知りたくて地球の果てを目指し、”星の地図”を見てでどんどん前へ前へ進みました。
紀元前5000年ごろ、地球は非常に温暖化し海の水面が今よりもずっと(100mくらい)高い位置にありました。日本は亜熱帯のような気候で、南は熱帯雨林になっていたため大陸から流れて来た人間は北半分に住みました。
そのころには、エジプトにはエジプト人、アメリカにはアメリカ人、オーストラリアにはオーストラリア人、日本には日本人が住んでいました。
やがて、争いの絶えない大陸の方から、徐々に人が集まってきました。歩いてやって来た民族や、馬にまたがってやってきた民族、船に乗って来た民族が、どんどん日本に入ってきました。
その地域の気候のせいか、ずっと日本に住んでいた人間とは肌の色や髪の色が少し違っていました。おまけに言葉も違ったため、最初は中々分かり合えず、近づかないようにして暮らしていましたが、やがて悪い民族ではないと分かると、鹿肉を分けあったり、栗を分け合ったり、煮た豆を分け合ったりして仲良くなってゆきました。そうやって身振り手振りで会話するうちに、言葉がなんとなく通じあってきました。
後から来た民族の頭と日本の頭を”長”『ミカド・ミコト』とする大きな集落ができました。民族たちはお互いの違いを生かし、ひとつの民族として文化を発展させてゆきました。
新しい道具や、新しい食品を加工しました。後から来た民族がお酒なるものを作ってくれましたが、日本人の体には全く合いませんでした。
言葉が通じ合うようになってくると、その話から彼らがとても遠い所からやって来たということが分かってきました。遠い地で起こっている大陸沈殿や、戦争というやらに、氷河期から日本に居た日本人は驚き、恐怖感を覚えました。
少し暑さが和らいできた紀元前3000年頃、5つめの民族(A民族)が大陸からやって来ました。彼らは、どうやら見た目からすると、2つ目と4つ目の民族と同じ民族のように思われました。ただしゃべる言葉が少々違いました。
彼ら5つの民族と日本人は、木造の家を作り、人と馬が通る道を平たくし、土器を作るための土を採取する場を作り、自分たちの作った土器で収穫した木の実を入れたり、豆を煮たり、栗を焼いたりしていました。もちろん、木の実から種が出ますから、わざわざ遠くへ出かけて採集しに行かなくてもいいように、種を蒔いて栽培もしました。水は、天から降り注ぐキレイな雨水を土器に集めて飲みました。貝は潜って素手で採り、貝殻はその日の食器として使って食事が終わると貝塚へ捨てました。
罠を仕掛けて動物を捕りました。それまで服は毛皮と編み込んだものを着ていましたが、木で機織り機を作り出しました。そうして、モノを作ることの素晴らしさを分かち合いました。ゴミ集積場もつくり、生活圏はいつも清潔さを保ちました。日本人は太古の昔から、汚れたものから病気がやってくることをよく知っていたので、汚いものとキレイなものをきちんと分けていました。
大きな栗の木を使って高い所に大きな集合所を建て、火山噴火や地震や洪水の時の避難場所にしました。又、人が亡くなると墓に埋めました。ある母親が子の墓に花を飾りました。その心は全ての民族に伝わり、皆がそうするようになりました。
紀元前1000年頃、また大陸から民族が大きな箱舟に動物たちを携えてやって来ました。彼らは、黄金でできた大切な箱を山の頂に運び隠すと、動物たちと共に山に住みつきました。
やがて人が増えてきたので、人の集まりを『村』と呼び、村のあつまりを『県(あがた)』と呼び、県の集まりを『国』と呼ぶことにしました。なぜそうしなければならなかったかというと、全部をひとつの村としてしまうと、統治する人が大変になってしまうからでした。
各国ごとに偉い人を選び、県ごとに偉い人を選び、村ごとに偉い人を選びました。偉い人は知恵と力と思いやりのある人が自然となったりみんなで選挙して決めたりしました。そして、全ての情報は、村→県→国→ミカド・ミコトという風にすぐに伝わるようにしました。
人が増えてくると、不届き者も出現したので、不届き者をこらしめる警察『もののへ』もつくりました。
いつの間にか、南側にも人が住みつくようになっていました。米作りと船を作るのが上手な東南アジアからやってきた民族です。彼らは肌が浅黒く入れ墨をしていて、背は低いけれど体格がよく濃い顔をしていました。後で聞いたことによると、東南の国がひどい洪水で国が沈没し、大事な武器と主食の米だけ持って逃げて来たということでした。
やがて南側には、大陸の半島からも狐顔の民族が入ってきて、B、C、Dの3民族が住みつきました。D民族は、C民族の作った船を利用して半島と日本を行ったり来たりできたので、半島の最南端とこちら両方に住みつきました。
南側の民族は、北の民族が真四角に土を盛った墓を作り自分たちのミカド・ミコトの亡骸を葬っているのを見て、それを真似しました。北側では水田を作った時の土を利用して土を盛りました。周りに稲作のための大きな水路を作って盗賊を防ぎました。北では橋を渡って花や土器・土偶をお供えする仕組みになっていましたが、南側では丸く土を盛り、水路を渡る為の橋だった部分がどんどん大きくなって鍵穴の様な形になりました。それは波及して、大陸の半島の最南端の国にも作られました。
熱帯期~温帯期に北側に住みついた民族の内、4つの民族をまとめてY民族とします。Y民族の一部は、山を偉大なる神(ヤッホー)として崇めました。そして大事なことが書かれた黒くて小さな箱を頭の上にくくりつけ、これまた大事なことが書かれた紙を筒状に巻き『トーラーの巻』と言って大事に持ち山中を歩いていました。
時が過ぎ、Y民族の中のA民族がイヅモの国まで南下したとき、南側の頭の弟の『スサ』がやって来てこう言いました。
スサ「ちょっとおまいら、広がりすぎだぞ!イヅモは俺らの地とする。」
A民族の家来が言いました。
「それは困ります。もう国ができていて、ヤマトも定住しております。」
D家来「ダメだ。俺らの地域を広げたいのだ。それに稲作を全国に広めて、大王に貢がなければならないのだ!」
A家来「実は、私たちには既にとても賢いミカドが居て、私達の中心を担っています。そのミカドを中心に政治を行い、村、県、国があり、それは私達にとっては、何よりも変え互い”宝”であり、”神”なのです。」
スサ「なんだと!?神のような宝のお人は俺らの女王のことじゃ!」と言って、剣を振りかざしました。
A家来「ちょっとまってください!『わ』は、戦いは懲り懲りです。ちゃんと話し合いませんか?」
スサ「いいだろう。話は聞いてやろう。」
スサが靴を脱いで、イヅモの国の『シャムショ』に入ると、それはそれはとても美しい弦楽器の音色が聞こえてきました。スサは、一瞬にしてその音色の虜になってしまいました。
スサ「これは、どこから聞こえているんだ?」
A「姫がハープを弾いておられるのです。」
スサ「ハープ?なんだそれは?この音色は琴に似ているが?」
A「ええ。そうです。琴でございます。」
スサ「弾いてるおなごを見たい。」
A「では、こちらからこっそりどうぞ。」というと、ふすまを少し開けました。
スサが覗くと、それはそれは美しい女性が琴を弾いておりました。
この日より、スサはイヅモから帰ってこず、業を煮やした南側の頭がイヅモにやってくることになったのです。何度もイヅモに来てスサを説得しましたが、荒くれもので独立心の強いスサは、南にはもう帰るつもりがないと言いました。
やがて、スサが寿命を終えてその6代目の息子になったとき、南側は一層強く出ました。
とうとう南側の頭の強引な押しに負けて、A民族は「それでは相撲で勝った方がこの国を支配するものとしましょう。」と提案し、南の頭はそれに応じました。
後日、相撲大会が始まりました。
A民族は土俵を聖なる場所の意味でロープを張り巡らせ塩で清めると、国の”神宝”をかけた聖なる戦いです。
「ハッケ・ヨイ」「ノコッタ・ノコッタ!」
結果は、南側が勝ちました。
しかしA民族は、どうしても自分たちの”神宝”を無くすことはできないと懇願しました。
南側は、それでは仕方がないと、今存在している”神宝”(人)は ”神”として残すことを許しました。そして北側にも米を作るように命令し、南側のミコトを崇めるよう命令しました。実質上、支配は南側がすることになったのです。
そのころ南側は、イセを中心とし南側の国々を稲作によって統治しました。鉄器や土器は仕事をするための道具でしかなかったため、北側が作ってきたような芸術的な土器や土偶は誰もつくりませんでした。
北側では民が喜んで神宝の墓を作って花や土器・土偶をお供えしましたが、南側では半強制的に大きな大きな墓をつくらされ、稲作をやらされ、飾りっ気のない土器を大量に作らざるを得ませんでした。王の墓には生きたままの馬や人間が一緒に埋められました。
一方北側では、年に一度、祭りをしていました。
スワでは、神が宿るとされる大きな柱に乗り、山を滑り落ちるお祭りです。(この民族の中では、神は木に宿るとされていました。)
そしてもう一つは、神の山「モリヤ山」に鹿を生贄にする儀式です。
また別の地域では、「エッサ、エッサ」と言って神輿を担ぎ、楽しく且つ面白く、好奇心旺盛で新しい物好きな日本人を巻き込み、また他民族もそれを進んでやりました。神輿は祭りの最期に神殿に持って行かれ納められました。Y民族にとって、神輿の箱が毎年別の神殿に移動することが重要だったのです。
作詞作曲に長けたY民族は、ヤマト言葉とそれぞれのY民族の言葉を主に囃子詞として歌詞の中に入れて、いくつもの歌を作り皆で歌いました。
意味が分からない民族にとっては掛け声の入った元気の出る歌として、また、意味が分かるY民族にとっては隠れた合言葉のように、誰もが喜び唄える(ヤーレンな)歌として、歌い継がれたのです。
イヅモの国は実質上奪われましたが、儀式や言葉はこうして残っていったのでした。
つづく
もちろんフィクション(空想)です。
中でも、探求心と好奇心の強い民族は、この世界がどこまで続くのか知りたくて地球の果てを目指し、”星の地図”を見てでどんどん前へ前へ進みました。
紀元前5000年ごろ、地球は非常に温暖化し海の水面が今よりもずっと(100mくらい)高い位置にありました。日本は亜熱帯のような気候で、南は熱帯雨林になっていたため大陸から流れて来た人間は北半分に住みました。
そのころには、エジプトにはエジプト人、アメリカにはアメリカ人、オーストラリアにはオーストラリア人、日本には日本人が住んでいました。
やがて、争いの絶えない大陸の方から、徐々に人が集まってきました。歩いてやって来た民族や、馬にまたがってやってきた民族、船に乗って来た民族が、どんどん日本に入ってきました。
その地域の気候のせいか、ずっと日本に住んでいた人間とは肌の色や髪の色が少し違っていました。おまけに言葉も違ったため、最初は中々分かり合えず、近づかないようにして暮らしていましたが、やがて悪い民族ではないと分かると、鹿肉を分けあったり、栗を分け合ったり、煮た豆を分け合ったりして仲良くなってゆきました。そうやって身振り手振りで会話するうちに、言葉がなんとなく通じあってきました。
後から来た民族の頭と日本の頭を”長”『ミカド・ミコト』とする大きな集落ができました。民族たちはお互いの違いを生かし、ひとつの民族として文化を発展させてゆきました。
新しい道具や、新しい食品を加工しました。後から来た民族がお酒なるものを作ってくれましたが、日本人の体には全く合いませんでした。
言葉が通じ合うようになってくると、その話から彼らがとても遠い所からやって来たということが分かってきました。遠い地で起こっている大陸沈殿や、戦争というやらに、氷河期から日本に居た日本人は驚き、恐怖感を覚えました。
少し暑さが和らいできた紀元前3000年頃、5つめの民族(A民族)が大陸からやって来ました。彼らは、どうやら見た目からすると、2つ目と4つ目の民族と同じ民族のように思われました。ただしゃべる言葉が少々違いました。
彼ら5つの民族と日本人は、木造の家を作り、人と馬が通る道を平たくし、土器を作るための土を採取する場を作り、自分たちの作った土器で収穫した木の実を入れたり、豆を煮たり、栗を焼いたりしていました。もちろん、木の実から種が出ますから、わざわざ遠くへ出かけて採集しに行かなくてもいいように、種を蒔いて栽培もしました。水は、天から降り注ぐキレイな雨水を土器に集めて飲みました。貝は潜って素手で採り、貝殻はその日の食器として使って食事が終わると貝塚へ捨てました。
罠を仕掛けて動物を捕りました。それまで服は毛皮と編み込んだものを着ていましたが、木で機織り機を作り出しました。そうして、モノを作ることの素晴らしさを分かち合いました。ゴミ集積場もつくり、生活圏はいつも清潔さを保ちました。日本人は太古の昔から、汚れたものから病気がやってくることをよく知っていたので、汚いものとキレイなものをきちんと分けていました。
大きな栗の木を使って高い所に大きな集合所を建て、火山噴火や地震や洪水の時の避難場所にしました。又、人が亡くなると墓に埋めました。ある母親が子の墓に花を飾りました。その心は全ての民族に伝わり、皆がそうするようになりました。
紀元前1000年頃、また大陸から民族が大きな箱舟に動物たちを携えてやって来ました。彼らは、黄金でできた大切な箱を山の頂に運び隠すと、動物たちと共に山に住みつきました。
やがて人が増えてきたので、人の集まりを『村』と呼び、村のあつまりを『県(あがた)』と呼び、県の集まりを『国』と呼ぶことにしました。なぜそうしなければならなかったかというと、全部をひとつの村としてしまうと、統治する人が大変になってしまうからでした。
各国ごとに偉い人を選び、県ごとに偉い人を選び、村ごとに偉い人を選びました。偉い人は知恵と力と思いやりのある人が自然となったりみんなで選挙して決めたりしました。そして、全ての情報は、村→県→国→ミカド・ミコトという風にすぐに伝わるようにしました。
人が増えてくると、不届き者も出現したので、不届き者をこらしめる警察『もののへ』もつくりました。
いつの間にか、南側にも人が住みつくようになっていました。米作りと船を作るのが上手な東南アジアからやってきた民族です。彼らは肌が浅黒く入れ墨をしていて、背は低いけれど体格がよく濃い顔をしていました。後で聞いたことによると、東南の国がひどい洪水で国が沈没し、大事な武器と主食の米だけ持って逃げて来たということでした。
やがて南側には、大陸の半島からも狐顔の民族が入ってきて、B、C、Dの3民族が住みつきました。D民族は、C民族の作った船を利用して半島と日本を行ったり来たりできたので、半島の最南端とこちら両方に住みつきました。
南側の民族は、北の民族が真四角に土を盛った墓を作り自分たちのミカド・ミコトの亡骸を葬っているのを見て、それを真似しました。北側では水田を作った時の土を利用して土を盛りました。周りに稲作のための大きな水路を作って盗賊を防ぎました。北では橋を渡って花や土器・土偶をお供えする仕組みになっていましたが、南側では丸く土を盛り、水路を渡る為の橋だった部分がどんどん大きくなって鍵穴の様な形になりました。それは波及して、大陸の半島の最南端の国にも作られました。
♢
熱帯期~温帯期に北側に住みついた民族の内、4つの民族をまとめてY民族とします。Y民族の一部は、山を偉大なる神(ヤッホー)として崇めました。そして大事なことが書かれた黒くて小さな箱を頭の上にくくりつけ、これまた大事なことが書かれた紙を筒状に巻き『トーラーの巻』と言って大事に持ち山中を歩いていました。
時が過ぎ、Y民族の中のA民族がイヅモの国まで南下したとき、南側の頭の弟の『スサ』がやって来てこう言いました。
スサ「ちょっとおまいら、広がりすぎだぞ!イヅモは俺らの地とする。」
A民族の家来が言いました。
「それは困ります。もう国ができていて、ヤマトも定住しております。」
D家来「ダメだ。俺らの地域を広げたいのだ。それに稲作を全国に広めて、大王に貢がなければならないのだ!」
A家来「実は、私たちには既にとても賢いミカドが居て、私達の中心を担っています。そのミカドを中心に政治を行い、村、県、国があり、それは私達にとっては、何よりも変え互い”宝”であり、”神”なのです。」
スサ「なんだと!?神のような宝のお人は俺らの女王のことじゃ!」と言って、剣を振りかざしました。
A家来「ちょっとまってください!『わ』は、戦いは懲り懲りです。ちゃんと話し合いませんか?」
スサ「いいだろう。話は聞いてやろう。」
スサが靴を脱いで、イヅモの国の『シャムショ』に入ると、それはそれはとても美しい弦楽器の音色が聞こえてきました。スサは、一瞬にしてその音色の虜になってしまいました。
スサ「これは、どこから聞こえているんだ?」
A「姫がハープを弾いておられるのです。」
スサ「ハープ?なんだそれは?この音色は琴に似ているが?」
A「ええ。そうです。琴でございます。」
スサ「弾いてるおなごを見たい。」
A「では、こちらからこっそりどうぞ。」というと、ふすまを少し開けました。
スサが覗くと、それはそれは美しい女性が琴を弾いておりました。
この日より、スサはイヅモから帰ってこず、業を煮やした南側の頭がイヅモにやってくることになったのです。何度もイヅモに来てスサを説得しましたが、荒くれもので独立心の強いスサは、南にはもう帰るつもりがないと言いました。
やがて、スサが寿命を終えてその6代目の息子になったとき、南側は一層強く出ました。
とうとう南側の頭の強引な押しに負けて、A民族は「それでは相撲で勝った方がこの国を支配するものとしましょう。」と提案し、南の頭はそれに応じました。
後日、相撲大会が始まりました。
A民族は土俵を聖なる場所の意味でロープを張り巡らせ塩で清めると、国の”神宝”をかけた聖なる戦いです。
「ハッケ・ヨイ」「ノコッタ・ノコッタ!」
結果は、南側が勝ちました。
しかしA民族は、どうしても自分たちの”神宝”を無くすことはできないと懇願しました。
南側は、それでは仕方がないと、今存在している”神宝”(人)は ”神”として残すことを許しました。そして北側にも米を作るように命令し、南側のミコトを崇めるよう命令しました。実質上、支配は南側がすることになったのです。
そのころ南側は、イセを中心とし南側の国々を稲作によって統治しました。鉄器や土器は仕事をするための道具でしかなかったため、北側が作ってきたような芸術的な土器や土偶は誰もつくりませんでした。
北側では民が喜んで神宝の墓を作って花や土器・土偶をお供えしましたが、南側では半強制的に大きな大きな墓をつくらされ、稲作をやらされ、飾りっ気のない土器を大量に作らざるを得ませんでした。王の墓には生きたままの馬や人間が一緒に埋められました。
一方北側では、年に一度、祭りをしていました。
スワでは、神が宿るとされる大きな柱に乗り、山を滑り落ちるお祭りです。(この民族の中では、神は木に宿るとされていました。)
そしてもう一つは、神の山「モリヤ山」に鹿を生贄にする儀式です。
また別の地域では、「エッサ、エッサ」と言って神輿を担ぎ、楽しく且つ面白く、好奇心旺盛で新しい物好きな日本人を巻き込み、また他民族もそれを進んでやりました。神輿は祭りの最期に神殿に持って行かれ納められました。Y民族にとって、神輿の箱が毎年別の神殿に移動することが重要だったのです。
作詞作曲に長けたY民族は、ヤマト言葉とそれぞれのY民族の言葉を主に囃子詞として歌詞の中に入れて、いくつもの歌を作り皆で歌いました。
意味が分からない民族にとっては掛け声の入った元気の出る歌として、また、意味が分かるY民族にとっては隠れた合言葉のように、誰もが喜び唄える(ヤーレンな)歌として、歌い継がれたのです。
イヅモの国は実質上奪われましたが、儀式や言葉はこうして残っていったのでした。
つづく
もちろんフィクション(空想)です。