祖母のお葬式の日記
2001年3月 祖母のお葬式
3月10日 土曜日 晴れ時々曇り
夜に弟ともぐちゃんから祖母(92歳)が亡くなったとの電話が入る。着信履歴によると、最初に午後7時19分に母から電話が入っている。亡くなったのは午後10時15分だそうだが、7時頃に悪くなったのだろうか。電話で話している時は大丈夫だったが、電話を切った途端に悲しみが込み上げて来て泣いてしまう。
帰省して聞いた所によると、10日の朝9時過ぎに祖母が部屋から父を呼び、父が行ってみると片手がしびれると言って部屋で転んでいたそうだ。病院に連れていって検査を受けさせた所、どこも異常は無いとのこと。
祖母は両親に「お世話になります。」と言い、手のしびれも良くなって来ていたのだが一応安心のため入院することになる。
両親は帰って大丈夫と言われて夜に一旦家に帰ったのだが、遅くに急に悪くなったと病院から連絡が入り、間に合ったが10時15分にあっけなく亡くなってしまった。
祖母は午後11時前には家に戻って来たので、12~13時間病院に入っただけで、本当にぽっくり亡くなったという感じだ。
祖母は9日まで元気で、6、7日には庭の草取りをしているし、歩いてひとりで買い物にも出掛けている。宇和島市には9日に大雪が降り、祖母の9日の日記には「銀世界」と書かれている。悪くなったのは突然の寒さのせいだったのかもしれない。
祖母の毎日の日記を読んで、私がずっと日記を書くのは祖母に似ているせいなのかもしれないと思う。
3月11日 日曜日 晴れ
祖母の告別式に出るために全日空の第2便で四国松山空港へ。当日にすぐに降りられる様にと前方席を購入したら、最前列のC席になる。
松山からJRで宇和島市へ。午後2時前に実家に到着する。弟は第1便で先に帰っていて庭の掃除や窓拭きなど色々としてくれていた。朝から親戚の人や母の友人が手伝いに来て下さっていてとても助かっている。
祖母はもうお棺に入っていて、昔の顔に戻ったその顔を見ると涙が溢れて来た。祖母は私と同じく若い頃はつり目だったのだが年を取るにつれて目じりが下がって来ていたのだ。それが亡くなると色が白くなって皺も無くなって目じりがすうっと上がって本当に若い頃に戻った様だ。祖母の死に顔を見ながら「私も死ぬと目じりが上がった昔の顔に戻るのだなあ。」と思う。
通夜の準備など手伝いをし、午後6時半から通夜が始まる。焼香の後は殆どお茶出し係になっていた私だが、大勢の人に来て頂いて祖母の人生は良いものだったのだなあと思う。
日頃会うことの無い親戚の人たちや近所の人たちとも久し振りに顔を合わせて話をする。
みなさん帰られて両親と私と弟で祖母の話をし、夜は祖母の居る祭壇の前に布団を敷いて寝る。母は昨日は一睡もしていないので祖母に1番近い所に布団を敷いて今日は安心して眠った様だ。
夜中に甥っ子の熱が下がらないと妹から電話が入り心配になるが、それでも眠った様だ。何故なら翌朝弟から、としゴンが現れたことを聞いたから。(爆)(後日甥っ子の熱も下がって安心する。)
3月12日 月曜日 曇り後晴れ
朝早起きをして喪服を着る。9時出棺。老師の「死に様あっぱれ!」の言葉に「おばあちゃん、褒めて貰ったね。」と母が話す。
棺おけに釘を打ってしまう時は悲しい。
霊柩車には龍が沢山居て、今回風邪で来られなかった龍好きの甥っ子に見せてやりたかったなあと思う。
9時半から11時に祖母は火葬になる。ドアが閉まる瞬間には「ああ、これで本当にお別れだなあ。」と思う。1時間半お茶やお菓子を出して祖母の話をしながら待つ。
11時にお骨になった祖母が出て来る。病気だった所は黒くなると言うが、健康だった祖母の骨には黒い所はひとつも無くて真っ白でとても綺麗だ。
明治生まれで身長が163センチ有った祖母は骨もしっかりしている。すべての骨を拾い、紺地に花模様の美しい骨壷に祖母は入る。小さくなった祖母は私が抱いて車で家まで帰る。母から「おばあちゃん、軽くなったでしょう。」と言われたが、生きている時に祖母を抱いたことが無いので、私には重みが感じられた。
家で親戚の人や母の友人達と昼食を取る。
もぐちゃんも仙台から到着。道を覚えようと思って宇和島駅からこの家まで歩いて来たもぐちゃんは(間違わなければ徒歩15分位の距離)今回初めて駅やお城と、この家の位置関係や 駅や街の中心部から意外に近いことがよく分かったと言う。車に乗せて貰って来た時には分からなかったそうだ。
しかし初めて歩いたため、道を間違えて少し遠回りをしていた。
午後2時からお寺で告別式が始まる。家から近い所に有るお寺には近所の人達も沢山来て下さっている。9日に降った雪がまだ日陰には残っていて、祖母の亡くなる前日の9日の日記の「銀世界」という言葉を思い出す。
お膳の後、午後3時58分宇和島発の汽車で弟ともぐちゃんは帰る。
両親と私は最後に祖母の遺骨、遺影、お膳やお酒を持ち帰る。
帰宅後、お膳は父と私で配り、お酒は主に私が横浜に戻るまでに夕食時に頂いた。「姫鶴」という宇和島市のお酒。
夜は祖母の遺骨のある祭壇の置かれた部屋に布団を敷いて寝る。祖母と一緒に寝るのは今日が最後だ。
3月13日 火曜日 晴れ
喪服を着て10時に両親とお寺へ行く。本堂でお経をあげて貰ってからお墓に行き納骨をする。祖母の綺麗な骨壷は祖父の隣に納められる。祖父と祖母が話をする様子を思い浮かべて穏やかな気持ちになる。
帰宅して洋服に着替えて1階の祖母のベッドと2階のソファーを入れ換える作業をする。その他片付けものなど沢山有り、暫くは忙しくなりそうだ。
母からは納骨まで居て欲しいと言われていたのだが、まだまだ大変そうなのでもう暫く残ることにする。
祖母の部屋に掛けてある使っていない柱時計のねじを回してみたらちゃんと使えることが分かる。しかもかなり正確である。私が物心ついた頃から居間で大活躍していた柱時計だ。日本製で「コンパスマーク」と書かれていてコンパスのイラストが描かれている。母の話では祖父母が結婚した頃に買ったものらしい。まだまだ元気な時計を見て嬉しくなる。
新聞を見て祖母の死を知った弔問客が次々に来られる。12日は新聞の休刊日だったため、葬儀には間に合わなかった人達が結構あった様だ。大正14年にお嫁に来てからずっとここに住んでいた祖母は古い知り合いが市内のあちこちに多く居た様だ。
3月14日 水曜日 晴れ
弔問客は途絶えず。足が悪いのに遠くから来て下さる方も居て、感激する。
私は自転車で買い物に出る。普段自転車に乗ることは無いのでちょっときつい良い運動になる。出掛ける時にうちに弔問に来られる途中の同級生のお母さんに会う。透析をされているそうだが、来て下さって有難い。
帰宅してから着物を畳む。着物は好きだけれど、次に喪服を着る機会が早く訪れないことを祈る。
3月15日 木曜日 曇り時々晴れ
母の買い物のため運転手をつとめる。帰りに電器店に寄って店頭に並ぶファックス電話を見る。母は一目でソニー製品のデザインが気に入り、ほぼそれに決まるが、家で検討して明日のセールに改めて来ることにする。
帰宅してから母と祖母の墓参りに行く。今日も弔問客が有る。
夜に1989年12月の旅行のビデオを見る。
祖母、母、私の3人で車で回った旅行で、私の住む横浜から伊豆、石廊崎、箱根、彦根、広島と進む。
当時祖母は81歳だったのだが、浄蓮の滝の石段、箱根神社の石段、彦根城の天守閣の段差のある階段など杖もつかずに歩いて、とてもしっかりしている。
その旅行は私がビデオ(ソニーのパスポートサイズ)を買って間もない頃で、ビデオを触ることがとても嬉しい時だったので、長々と録画していたのだが、祖母との会話など沢山残っているので、今はずっとカメラを回していて良かったなあと思う。
祖母の箪笥の整理をしていたら、祖父母の若き日の写真と私の小学1年から高校3年までの通知表が出て来る。
祖母と私が、祖父と弟がよく似ている。
通知表は、成績もさることながら、担任の先生の書かれている私に対する一言が面白い。
成績はとても良いものから同じ人のものとは思えない程悪いものまで色々様々だ。(笑)
中学と高校は何名中何位、とはっきりと数字で書かれているので非常に分かり易い。体重の順位が無いのは有難かった。(笑)
3月16日 金曜日 晴れ
午前中に電器店へ行き、昨日見ておいた実家に置くファックス電話(ソニー)を購入する。在庫が切れていたので持ち帰って設定する所までは行かなかった。電器店は今日から20日まで春のセール中なので、プレゼントの鍋を貰う。昨日とは違って大勢のお客さんで賑わっている。
外で用事を済ませて帰ると、今日も弔問客があったことを聞く。
午後に葬儀屋さんが祭壇を片付けに来る。祖母の写真を残して貰って、家に有る祭壇を出して祖母の遺影をかざり、新しく祭壇を組み立てる。暖房で少し葉っぱは枯れて来ているが、まだまだ菊の花は綺麗に咲いている。
部屋の片付けを手伝い、昨日の続きの祖母と母との旅行のビデオを見て、父に宇和島駅まで車で送って貰う。
午後5時11分発松山行きのJRは、出発時には空席も結構有ったが、松山駅に到着するまでにはいっぱいになっていた。
午後6時43分に松山駅に着き、タクシーで松山空港へ。空港へは7時に到着し、7時15分発の東京行き全日空に間に合う。
飛行機の中では全日空寄席を聞いて笑うが、羽田空港からの高速バスではひとり祖母のことを思い出して涙が出て仕方が無かった。
横浜の家に帰ってから実家に無事着いたよコールをした後に、今年の2月に祖母から来た手紙を出して読むと、また涙が出て来た。孫である私の健康を気遣う内容と「いつあえるか、あえる日を楽しみにして居ります。」そして「自分の体は自分で守ることと思います。」という文章が心に残る。
92歳まで健康に気を配り、亡くなる前日まで歩いてしっかりしていた祖母を「偉いな、見習わなければならないな。」と思う。
横浜の家に帰るとびっくりすることがあった。テーブルの上にくまちゃんとクッキーの入った可愛い籠が置かれていたのだ。もぐちゃんからのホワイトデーのプレゼントだった。あんまり可愛いので暫く食べないで飾っておくことにする。
3月17日 土曜日 曇り後雨
今回の日記を書く。1日に何度も涙が出る。時が経てば涙は出なくなるのだろうか。
祖母からの最後の手紙(消印は今年の2月7日)
一筆申し上げます。
長落御無沙汰致して居ります。
御元気に御暮しでしよおか
御伺い致します。
私の方は皆無事に暮して居ります故
御安心下さい。
節分も終わりました。段々暖かくなりますが
まだ寒い日もあると思います。
風邪をひかぬ様気を付けて暮して
下さい。御願い致します。
節分に御守の御札戴いて帰りましたので
御送り致します。自分の体は自分で守る
事と思います。
何とぞ良く気を付けて病気にならぬ様
気を付けて暮して下さい。
御願い致します。
何時あえるか、あえる日をたのしみに
して居ります。忠○さんも
御元気でしよおか、よろしく言って下さい。
何卒体に気を付けて元気に暮して下さい。
御願い致します。
婆ちゃんは、みんなが元気に暮して
戴く事が何よりの御願いです。
何卒御元気で。 さようなら
○○忠○様
○○○志様 キミヨ
2001年3月 祖母のお葬式
3月10日 土曜日 晴れ時々曇り
夜に弟ともぐちゃんから祖母(92歳)が亡くなったとの電話が入る。着信履歴によると、最初に午後7時19分に母から電話が入っている。亡くなったのは午後10時15分だそうだが、7時頃に悪くなったのだろうか。電話で話している時は大丈夫だったが、電話を切った途端に悲しみが込み上げて来て泣いてしまう。
帰省して聞いた所によると、10日の朝9時過ぎに祖母が部屋から父を呼び、父が行ってみると片手がしびれると言って部屋で転んでいたそうだ。病院に連れていって検査を受けさせた所、どこも異常は無いとのこと。
祖母は両親に「お世話になります。」と言い、手のしびれも良くなって来ていたのだが一応安心のため入院することになる。
両親は帰って大丈夫と言われて夜に一旦家に帰ったのだが、遅くに急に悪くなったと病院から連絡が入り、間に合ったが10時15分にあっけなく亡くなってしまった。
祖母は午後11時前には家に戻って来たので、12~13時間病院に入っただけで、本当にぽっくり亡くなったという感じだ。
祖母は9日まで元気で、6、7日には庭の草取りをしているし、歩いてひとりで買い物にも出掛けている。宇和島市には9日に大雪が降り、祖母の9日の日記には「銀世界」と書かれている。悪くなったのは突然の寒さのせいだったのかもしれない。
祖母の毎日の日記を読んで、私がずっと日記を書くのは祖母に似ているせいなのかもしれないと思う。
3月11日 日曜日 晴れ
祖母の告別式に出るために全日空の第2便で四国松山空港へ。当日にすぐに降りられる様にと前方席を購入したら、最前列のC席になる。
松山からJRで宇和島市へ。午後2時前に実家に到着する。弟は第1便で先に帰っていて庭の掃除や窓拭きなど色々としてくれていた。朝から親戚の人や母の友人が手伝いに来て下さっていてとても助かっている。
祖母はもうお棺に入っていて、昔の顔に戻ったその顔を見ると涙が溢れて来た。祖母は私と同じく若い頃はつり目だったのだが年を取るにつれて目じりが下がって来ていたのだ。それが亡くなると色が白くなって皺も無くなって目じりがすうっと上がって本当に若い頃に戻った様だ。祖母の死に顔を見ながら「私も死ぬと目じりが上がった昔の顔に戻るのだなあ。」と思う。
通夜の準備など手伝いをし、午後6時半から通夜が始まる。焼香の後は殆どお茶出し係になっていた私だが、大勢の人に来て頂いて祖母の人生は良いものだったのだなあと思う。
日頃会うことの無い親戚の人たちや近所の人たちとも久し振りに顔を合わせて話をする。
みなさん帰られて両親と私と弟で祖母の話をし、夜は祖母の居る祭壇の前に布団を敷いて寝る。母は昨日は一睡もしていないので祖母に1番近い所に布団を敷いて今日は安心して眠った様だ。
夜中に甥っ子の熱が下がらないと妹から電話が入り心配になるが、それでも眠った様だ。何故なら翌朝弟から、としゴンが現れたことを聞いたから。(爆)(後日甥っ子の熱も下がって安心する。)
3月12日 月曜日 曇り後晴れ
朝早起きをして喪服を着る。9時出棺。老師の「死に様あっぱれ!」の言葉に「おばあちゃん、褒めて貰ったね。」と母が話す。
棺おけに釘を打ってしまう時は悲しい。
霊柩車には龍が沢山居て、今回風邪で来られなかった龍好きの甥っ子に見せてやりたかったなあと思う。
9時半から11時に祖母は火葬になる。ドアが閉まる瞬間には「ああ、これで本当にお別れだなあ。」と思う。1時間半お茶やお菓子を出して祖母の話をしながら待つ。
11時にお骨になった祖母が出て来る。病気だった所は黒くなると言うが、健康だった祖母の骨には黒い所はひとつも無くて真っ白でとても綺麗だ。
明治生まれで身長が163センチ有った祖母は骨もしっかりしている。すべての骨を拾い、紺地に花模様の美しい骨壷に祖母は入る。小さくなった祖母は私が抱いて車で家まで帰る。母から「おばあちゃん、軽くなったでしょう。」と言われたが、生きている時に祖母を抱いたことが無いので、私には重みが感じられた。
家で親戚の人や母の友人達と昼食を取る。
もぐちゃんも仙台から到着。道を覚えようと思って宇和島駅からこの家まで歩いて来たもぐちゃんは(間違わなければ徒歩15分位の距離)今回初めて駅やお城と、この家の位置関係や 駅や街の中心部から意外に近いことがよく分かったと言う。車に乗せて貰って来た時には分からなかったそうだ。
しかし初めて歩いたため、道を間違えて少し遠回りをしていた。
午後2時からお寺で告別式が始まる。家から近い所に有るお寺には近所の人達も沢山来て下さっている。9日に降った雪がまだ日陰には残っていて、祖母の亡くなる前日の9日の日記の「銀世界」という言葉を思い出す。
お膳の後、午後3時58分宇和島発の汽車で弟ともぐちゃんは帰る。
両親と私は最後に祖母の遺骨、遺影、お膳やお酒を持ち帰る。
帰宅後、お膳は父と私で配り、お酒は主に私が横浜に戻るまでに夕食時に頂いた。「姫鶴」という宇和島市のお酒。
夜は祖母の遺骨のある祭壇の置かれた部屋に布団を敷いて寝る。祖母と一緒に寝るのは今日が最後だ。
3月13日 火曜日 晴れ
喪服を着て10時に両親とお寺へ行く。本堂でお経をあげて貰ってからお墓に行き納骨をする。祖母の綺麗な骨壷は祖父の隣に納められる。祖父と祖母が話をする様子を思い浮かべて穏やかな気持ちになる。
帰宅して洋服に着替えて1階の祖母のベッドと2階のソファーを入れ換える作業をする。その他片付けものなど沢山有り、暫くは忙しくなりそうだ。
母からは納骨まで居て欲しいと言われていたのだが、まだまだ大変そうなのでもう暫く残ることにする。
祖母の部屋に掛けてある使っていない柱時計のねじを回してみたらちゃんと使えることが分かる。しかもかなり正確である。私が物心ついた頃から居間で大活躍していた柱時計だ。日本製で「コンパスマーク」と書かれていてコンパスのイラストが描かれている。母の話では祖父母が結婚した頃に買ったものらしい。まだまだ元気な時計を見て嬉しくなる。
新聞を見て祖母の死を知った弔問客が次々に来られる。12日は新聞の休刊日だったため、葬儀には間に合わなかった人達が結構あった様だ。大正14年にお嫁に来てからずっとここに住んでいた祖母は古い知り合いが市内のあちこちに多く居た様だ。
3月14日 水曜日 晴れ
弔問客は途絶えず。足が悪いのに遠くから来て下さる方も居て、感激する。
私は自転車で買い物に出る。普段自転車に乗ることは無いのでちょっときつい良い運動になる。出掛ける時にうちに弔問に来られる途中の同級生のお母さんに会う。透析をされているそうだが、来て下さって有難い。
帰宅してから着物を畳む。着物は好きだけれど、次に喪服を着る機会が早く訪れないことを祈る。
3月15日 木曜日 曇り時々晴れ
母の買い物のため運転手をつとめる。帰りに電器店に寄って店頭に並ぶファックス電話を見る。母は一目でソニー製品のデザインが気に入り、ほぼそれに決まるが、家で検討して明日のセールに改めて来ることにする。
帰宅してから母と祖母の墓参りに行く。今日も弔問客が有る。
夜に1989年12月の旅行のビデオを見る。
祖母、母、私の3人で車で回った旅行で、私の住む横浜から伊豆、石廊崎、箱根、彦根、広島と進む。
当時祖母は81歳だったのだが、浄蓮の滝の石段、箱根神社の石段、彦根城の天守閣の段差のある階段など杖もつかずに歩いて、とてもしっかりしている。
その旅行は私がビデオ(ソニーのパスポートサイズ)を買って間もない頃で、ビデオを触ることがとても嬉しい時だったので、長々と録画していたのだが、祖母との会話など沢山残っているので、今はずっとカメラを回していて良かったなあと思う。
祖母の箪笥の整理をしていたら、祖父母の若き日の写真と私の小学1年から高校3年までの通知表が出て来る。
祖母と私が、祖父と弟がよく似ている。
通知表は、成績もさることながら、担任の先生の書かれている私に対する一言が面白い。
成績はとても良いものから同じ人のものとは思えない程悪いものまで色々様々だ。(笑)
中学と高校は何名中何位、とはっきりと数字で書かれているので非常に分かり易い。体重の順位が無いのは有難かった。(笑)
3月16日 金曜日 晴れ
午前中に電器店へ行き、昨日見ておいた実家に置くファックス電話(ソニー)を購入する。在庫が切れていたので持ち帰って設定する所までは行かなかった。電器店は今日から20日まで春のセール中なので、プレゼントの鍋を貰う。昨日とは違って大勢のお客さんで賑わっている。
外で用事を済ませて帰ると、今日も弔問客があったことを聞く。
午後に葬儀屋さんが祭壇を片付けに来る。祖母の写真を残して貰って、家に有る祭壇を出して祖母の遺影をかざり、新しく祭壇を組み立てる。暖房で少し葉っぱは枯れて来ているが、まだまだ菊の花は綺麗に咲いている。
部屋の片付けを手伝い、昨日の続きの祖母と母との旅行のビデオを見て、父に宇和島駅まで車で送って貰う。
午後5時11分発松山行きのJRは、出発時には空席も結構有ったが、松山駅に到着するまでにはいっぱいになっていた。
午後6時43分に松山駅に着き、タクシーで松山空港へ。空港へは7時に到着し、7時15分発の東京行き全日空に間に合う。
飛行機の中では全日空寄席を聞いて笑うが、羽田空港からの高速バスではひとり祖母のことを思い出して涙が出て仕方が無かった。
横浜の家に帰ってから実家に無事着いたよコールをした後に、今年の2月に祖母から来た手紙を出して読むと、また涙が出て来た。孫である私の健康を気遣う内容と「いつあえるか、あえる日を楽しみにして居ります。」そして「自分の体は自分で守ることと思います。」という文章が心に残る。
92歳まで健康に気を配り、亡くなる前日まで歩いてしっかりしていた祖母を「偉いな、見習わなければならないな。」と思う。
横浜の家に帰るとびっくりすることがあった。テーブルの上にくまちゃんとクッキーの入った可愛い籠が置かれていたのだ。もぐちゃんからのホワイトデーのプレゼントだった。あんまり可愛いので暫く食べないで飾っておくことにする。
3月17日 土曜日 曇り後雨
今回の日記を書く。1日に何度も涙が出る。時が経てば涙は出なくなるのだろうか。
祖母からの最後の手紙(消印は今年の2月7日)
一筆申し上げます。
長落御無沙汰致して居ります。
御元気に御暮しでしよおか
御伺い致します。
私の方は皆無事に暮して居ります故
御安心下さい。
節分も終わりました。段々暖かくなりますが
まだ寒い日もあると思います。
風邪をひかぬ様気を付けて暮して
下さい。御願い致します。
節分に御守の御札戴いて帰りましたので
御送り致します。自分の体は自分で守る
事と思います。
何とぞ良く気を付けて病気にならぬ様
気を付けて暮して下さい。
御願い致します。
何時あえるか、あえる日をたのしみに
して居ります。忠○さんも
御元気でしよおか、よろしく言って下さい。
何卒体に気を付けて元気に暮して下さい。
御願い致します。
婆ちゃんは、みんなが元気に暮して
戴く事が何よりの御願いです。
何卒御元気で。 さようなら
○○忠○様
○○○志様 キミヨ