●ルーズベルトに与うる書
ルーズベルトに与うる書
現代訳
日本海軍市丸海軍少将が「フランクリン・ルーズベルト」君に書を宛てる。
ルーズベルトに与うる書
現代訳
日本海軍市丸海軍少将が「フランクリン・ルーズベルト」君に書を宛てる。
私は今、我が戦いを終えるに当たり一言貴方に告げることがある。
日本国が「ペルリー(ペリー)」提督の下田入港を機とし、広く世界と国交を結ぶようになった時より約百年の間、国の歩みは困難を極め、自ら欲しないにも関わらず日清戦争、日露戦争、第一次欧州大戦(第一次世界大戦)、満州事変、支那事変を経て、不幸にも貴国と交戦することになった。
そして貴方は我々を、あるいは好戦的国民であるとし、あるいは黄禍論を用い貶め、あるいは軍閥の独断専行であるとする。思いよらぬもの甚だしいと言わざるを得ない。
貴方は真珠湾攻撃の不意打ちを理由に対日戦争(大東亜戦争)唯一の宣伝資料とするが、そもそもにおいて日本国が自滅を免れるためこの行動に出る他ないという程の窮地にまで追い詰めたような諸種の情勢というのは、貴方の最も熟知するものであると思う。
畏れ多くも日本天皇は皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、養成(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三鋼(秩序)とする八紘一宇(天下を一つの屋根の下に)の文字によって表される皇謨に基づき、地球上のあらゆる人間はその分に従い、その郷土においてその生を生まれながらに持たせ、それによって恒久的平和の確立を唯一の念願になさったのに他ならない。
これは「四方の海皆はらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ(意訳:人は皆家族であるのに、なにゆえ争わねばならないのか)」という明治天皇の御製(天皇の詩)は貴方の叔父セオドア・ルーズベルト閣下が感嘆したものであるが故に、貴方もよく熟知しているのは事実であろう。
私たち日本人はそれぞれ階級を持ち、また各種の職業に従事するけれども、結局はその職を通じ皇謨、つまりは天業(天皇の事業)を翼賛(補佐)しようとするのに他ならない。
我ら軍人は交戦を以て天業を広めることを承るに他ならない。
我らは今、物量に頼った貴方の空軍の爆撃、艦隊の射撃の下、外形的に後ろへ退くもやむなきに至っているが、精神的にはついに豊かになり、心地ますます明朗になり、歓喜を抑えることができなくもある。
この天業翼賛の信念が燃えるのは、日本国民共通の心理であるが、貴方やチャーチル君は理解に苦しむところであろう。
今、ここに貴方達の精神的貧弱さを憐れみ、以下の一言を以て少しでも悔いることがあればいいと思う。
貴方達のなすことを見れば、白人、とくにアングロサクソン(アメリカとイギリスの主な民族)が世界の利益を独占しようとして、有色人種をその野望実現のための奴隷として扱おうということに他ならない。
この為に邪な政策をとり有色人種を欺き、所謂悪意の善政を行うことで彼らを喪心無力化しようとしている。
近世に至り日本国が貴方達の野望に抗し有色人種、特に東洋民族を貴方達の束縛より解放しようと試みたところ、貴方達は少しも日本の真意を理解しようと努めることなくただ貴方達に有害な存在となし、かつて友邦とみなしていたにも関わらず仇敵野蛮人であるとし、公然として日本人種の絶滅を叫ぶに至った。
これは決して神意にかなうものではないだろう。
大東亜戦争によって所謂大東亜共栄圏が成立し、所在する各民族はわれらの善政を謳歌しているから、貴方達がこれを破壊することが無ければ、全世界にわたる恒久的平和の招来は決して遠くは無いだろう。
貴方達はすでに成した。十分な繁栄にも満足することはなく数百年来にわたるあなた方の搾取から免れようとするこれらの憐れむべき人類の希望の芽をどうして若葉のうちに摘み取ろうとするのか。
ただ東洋のものを東洋に返すに過ぎないではないか。
あなた方はどうしてこのように貪欲で狭量なのか。
大東亜共栄圏の存在は少しも貴方達の存在を脅威するものではない。むしろ世界平和の一翼として世界人類の安寧幸福を保障するものであって、日本天皇の真意はまったくこれに他ならない。
このことを理解する雅量(器)があることを希望してやまないものである。
翻って欧州の事情を観察すると、また相互無理解に基づく人類闘争がいかに悲惨であるかを痛感し嘆かざるをえない。
今ヒトラー総統の行動の是非を云々するのは慎むが、彼の第二次世界大戦開戦の原因が第一次世界大戦の終結の際、その開戦責任の一切を敗戦国ドイツに押し付け、その正当な存在を極度に圧迫しようとした貴方達の処置に対する反発に他ならないということは看過できない。
貴方達の善戦によって力を尽くしてヒトラー総統を倒すことができたとして、どうやってスターリン率いるソヴィエトと協調するのか。
世界を強者が独専しようとすれば永久に闘争を繰り返し、ついに世界人類に安寧幸福の日はないだろう。
あなた方は今世界制覇の野望が一応、まさに実現しようとしている。あなた方は得意げに思っているに違いない。しかし貴方達の先輩ウィルソン大統領はその得意の絶頂において失脚した。
願わくば私の言外の意を汲んでその轍を踏まないでほしい。
市丸海軍少将
Wikipediaより
★
★市丸利之助 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/市丸利之助
市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9月20日 - 1945年(昭和20年)3月26日)は、日本の海軍軍人である。最終階級は海軍中将(戦死による特進)。佐賀県東松浦郡久里村(現在の唐津市)出身。
経歴
ウィキソースにルーズベルトニ与フル書の原文があります。
日本海軍の航空草創期のパイロットである。
訓練飛行中に操縦索が切れ、搭乗機が墜落し右大腿骨、頭蓋骨、顔面を骨折した。
再手術を行うなどして、 療養生活は3年近くに及ぶ。
復帰後、予科練設立委員長となり、次いで初代部長として教育にあたる。
市丸の指導は教育学的にも評価され[1]、市丸は予科練育ての親といわれる。
太平洋戦争において第二十一航空戦隊司令官として南方戦線で指揮をとり、次いで第十三連合航空隊司令官として内地防空にあたる。
1944年(昭和19年)に第二十七航空戦隊司令官として硫黄島に赴任し、翌年の硫黄島の戦いで戦死した。
市丸の戦死の状況は明確ではないが、アメリカ大統領・フランクリン・ルーズベルトに宛てた手紙(「ルーズベルトニ与フル書」)を残し戦後有名となる。
手紙はアナポリス博物館に保管されている。
なお市丸は同期生で自決した草刈英治とは親友の間柄であった。
★
★草刈 英治 https://ja.wikipedia.org/wiki/草刈 英治
草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1日 - 1930年(昭和5年)5月20日)は、日本の海軍軍人。ロンドン海軍軍縮条約に反対し自決した海軍少佐である。
★
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1891-1930 大正-昭和時代前期の軍人。
明治24年6月1日生まれ。昭和3年軍令部参謀。軍令部きってのフランス通とされた。フランス班主任在職中の5年5月20日東海道線寝台車内で自殺。40歳。ロンドン条約批准をめぐる政府の「統帥権干犯」をいきどおっての行動といわれる。海軍少佐。福島県出身。海軍大学校卒。
★
★「ルーズベルトニ与フル書」市丸利之介海軍中将 |https://00m.in/OWHh0
http://hirameki.tv/「ルーズベルトニ与フル書」/
大東亜戦争で最大の激戦地、硫黄島で戦死された市丸利之介(りのすけ)中将
がルーズベルト大統領に宛てた手紙を紹介します。
市丸中将が、最後の突撃攻撃を行って散華されたのは、
1945年3月26日です。
その9日前の3月17日、中将は、地下20メートルの洞穴に、
動けるものを全員集めました。
そして副官である間瀬中佐が、一歩前に出て、「ルーズベルトニ与フル書」を読み上げました。
朗読が済むと、この書の和文のほうを通信将校の村上大尉が腹に巻きつけ、
英文のものは航戦参謀の赤田中佐が身に付けました。
そして市丸中将は、栗林中将とともに、軍服にある一切の肩章を外し、
ひとりの皇国臣民として、最後の突撃を行い、散華されています。
「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。
市丸中将は、自らの死を目前として、たとえ硫黄島が奪われ、
我が身が土に還ったとしても、人が人として生きることの大切さを
この「書」にしたためることで、死して尚、日本の描いた壮大な理想、
悠久の大義のために戦い続けようとしたのではないでしょうか。
★
★ルーズベルトニ与フル書 2016年10月03日
https://ameblo.jp/japanism2020/entry-12549882790.html
相変わらず、戦前の「軍人」だけを悪く言う人もいるが、戦前、戦中の事実(ファクト)を改めて知ると、祖先に「唾を吐いていた」ことが恥ずかしく思える。
以前に、戦後に評判の良くなった指導部の軍人が「何を考えていたか?」を知って驚嘆した次第だ。大東亜戦争での本土防衛の要となった「硫黄島の戦い」で、小笠原方面最高指揮官の栗林忠道陸軍中将と共に第二十七航空戦隊司令官として市丸利之助海軍少将が指揮にあたった。
★
★市丸利之介中将「ルーズベルトに与うる書」
159,766 回視聴 2015/05/29 https://youtu.be/kn7jx4qgsnQ
HiramekiTV
チャンネル登録者数 5.11万人
硫黄島で戦死された石丸利之介(りのすけ)中将がルーズベルト大統領に宛てた手紙を紹介します。
市丸中将が、最後の突撃攻撃を行って散華されたのは、3月26日です。
その9日前の3月17日、中将は、地下20メートルの洞穴に、動けるものを全員集めました。
そして副官である間瀬中佐が、一歩前に出て、「ルーズベルトニ与フル書」を読み上げました。
朗読が済むと、この書の和文のほうを通信将校の村上大尉が腹に巻きつけ、
英文のものは航戦参謀の赤田中佐が身に付けました。
そして市丸中将は、栗林中将とともに、軍服にある一切の肩章を外し、ひとりの皇国臣民として、最後の突撃を行い、散華されています。
「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。
市丸中将は、自らの死を目前として、たとえ硫黄島が奪われ、我が身が土に還ったとしても、人が人として生きることの大切さをこの「書」にしたためることで、死して尚、日本の描いた壮大な理想、悠久の大義のために戦い続けようとしたのではないでしょうか。
この「書」は、米国内の様々なメディアで紹介され、「書」に書かれた理想は、形を変えて米国の理想となり、いまや世界の人類の常識とまでなっているのです。
そして、この書は、アメリカ海軍兵学校内アナポリス博物館に今でも大切に保管されています。
「戦後70周年に向けて 正しい歴史に学ぶ すばらしい国 日本」ダイジェスト版
https://youtu.be/-usWnzcFUhw
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★市丸利之助 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/市丸利之助
市丸 利之助(いちまる りのすけ、1891年(明治24年)9月20日 - 1945年(昭和20年)3月26日)は、日本の海軍軍人である。最終階級は海軍中将(戦死による特進)。佐賀県東松浦郡久里村(現在の唐津市)出身。
経歴
ウィキソースにルーズベルトニ与フル書の原文があります。
日本海軍の航空草創期のパイロットである。
訓練飛行中に操縦索が切れ、搭乗機が墜落し右大腿骨、頭蓋骨、顔面を骨折した。
再手術を行うなどして、 療養生活は3年近くに及ぶ。
復帰後、予科練設立委員長となり、次いで初代部長として教育にあたる。
市丸の指導は教育学的にも評価され[1]、市丸は予科練育ての親といわれる。
太平洋戦争において第二十一航空戦隊司令官として南方戦線で指揮をとり、次いで第十三連合航空隊司令官として内地防空にあたる。
1944年(昭和19年)に第二十七航空戦隊司令官として硫黄島に赴任し、翌年の硫黄島の戦いで戦死した。
市丸の戦死の状況は明確ではないが、アメリカ大統領・フランクリン・ルーズベルトに宛てた手紙(「ルーズベルトニ与フル書」)を残し戦後有名となる。
手紙はアナポリス博物館に保管されている。
なお市丸は同期生で自決した草刈英治とは親友の間柄であった。
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★草刈 英治 https://ja.wikipedia.org/wiki/草刈 英治
草刈 英治(くさかり えいじ、1891年(明治24年)6月1日 - 1930年(昭和5年)5月20日)は、日本の海軍軍人。ロンドン海軍軍縮条約に反対し自決した海軍少佐である。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1891-1930 大正-昭和時代前期の軍人。
明治24年6月1日生まれ。昭和3年軍令部参謀。軍令部きってのフランス通とされた。フランス班主任在職中の5年5月20日東海道線寝台車内で自殺。40歳。ロンドン条約批准をめぐる政府の「統帥権干犯」をいきどおっての行動といわれる。海軍少佐。福島県出身。海軍大学校卒。
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★「ルーズベルトニ与フル書」市丸利之介海軍中将 |https://00m.in/OWHh0
http://hirameki.tv/「ルーズベルトニ与フル書」/
大東亜戦争で最大の激戦地、硫黄島で戦死された市丸利之介(りのすけ)中将
がルーズベルト大統領に宛てた手紙を紹介します。
市丸中将が、最後の突撃攻撃を行って散華されたのは、
1945年3月26日です。
その9日前の3月17日、中将は、地下20メートルの洞穴に、
動けるものを全員集めました。
そして副官である間瀬中佐が、一歩前に出て、「ルーズベルトニ与フル書」を読み上げました。
朗読が済むと、この書の和文のほうを通信将校の村上大尉が腹に巻きつけ、
英文のものは航戦参謀の赤田中佐が身に付けました。
そして市丸中将は、栗林中将とともに、軍服にある一切の肩章を外し、
ひとりの皇国臣民として、最後の突撃を行い、散華されています。
「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。
市丸中将は、自らの死を目前として、たとえ硫黄島が奪われ、
我が身が土に還ったとしても、人が人として生きることの大切さを
この「書」にしたためることで、死して尚、日本の描いた壮大な理想、
悠久の大義のために戦い続けようとしたのではないでしょうか。
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★ルーズベルトニ与フル書 2016年10月03日
https://ameblo.jp/japanism2020/entry-12549882790.html
相変わらず、戦前の「軍人」だけを悪く言う人もいるが、戦前、戦中の事実(ファクト)を改めて知ると、祖先に「唾を吐いていた」ことが恥ずかしく思える。
以前に、戦後に評判の良くなった指導部の軍人が「何を考えていたか?」を知って驚嘆した次第だ。大東亜戦争での本土防衛の要となった「硫黄島の戦い」で、小笠原方面最高指揮官の栗林忠道陸軍中将と共に第二十七航空戦隊司令官として市丸利之助海軍少将が指揮にあたった。
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★市丸利之介中将「ルーズベルトに与うる書」
159,766 回視聴 2015/05/29 https://youtu.be/kn7jx4qgsnQ
HiramekiTV
チャンネル登録者数 5.11万人
硫黄島で戦死された石丸利之介(りのすけ)中将がルーズベルト大統領に宛てた手紙を紹介します。
市丸中将が、最後の突撃攻撃を行って散華されたのは、3月26日です。
その9日前の3月17日、中将は、地下20メートルの洞穴に、動けるものを全員集めました。
そして副官である間瀬中佐が、一歩前に出て、「ルーズベルトニ与フル書」を読み上げました。
朗読が済むと、この書の和文のほうを通信将校の村上大尉が腹に巻きつけ、
英文のものは航戦参謀の赤田中佐が身に付けました。
そして市丸中将は、栗林中将とともに、軍服にある一切の肩章を外し、ひとりの皇国臣民として、最後の突撃を行い、散華されています。
「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。
市丸中将は、自らの死を目前として、たとえ硫黄島が奪われ、我が身が土に還ったとしても、人が人として生きることの大切さをこの「書」にしたためることで、死して尚、日本の描いた壮大な理想、悠久の大義のために戦い続けようとしたのではないでしょうか。
この「書」は、米国内の様々なメディアで紹介され、「書」に書かれた理想は、形を変えて米国の理想となり、いまや世界の人類の常識とまでなっているのです。
そして、この書は、アメリカ海軍兵学校内アナポリス博物館に今でも大切に保管されています。
「戦後70周年に向けて 正しい歴史に学ぶ すばらしい国 日本」ダイジェスト版
https://youtu.be/-usWnzcFUhw
「奇跡の将軍・樋口季一郎」
https://youtu.be/4caq5e_toz8
https://youtu.be/4caq5e_toz8
「ユダヤ人の記憶に生きる日本人 杉原千畝」
https://youtu.be/m5_q1i5ntTY
もご覧ください。
★
★全米で絶賛された市丸中将の米国大統領宛の手紙 | 心温まる感動ストーリー 2015/04/13
https://ameblo.jp/kandoukotoba/entry-12012599161.html
「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。 従軍記者エメット・クロージャーは、発見の経緯と手紙の本文を4月4日、本国に向けて打電しました。
★
★【硫黄島】忘れがたき壮絶な戦地/英霊に感謝と鎮魂【HD版】
115,942 回視聴 2010/04/25 https://youtu.be/2wK8fxMNh_E
まつしたまさよ
チャンネル登録者数 743人
【祝 動画復活!】大東亜戦争の激戦地、硫黄島についての動画です。
先日突然youtubeに削除されてしまったこの動画ですが、HD版で復活です。それまでに随分アクセスを頂いておりましたが、またどうかご覧頂けたら有り難いです。
「私はこの戦いを語り継ぐ事は日本にとって大切な事だと思う。 何故ならば彼らは、祖国の為に究極の犠牲的精神を体現した人々であるからだ。」
これは、映画「硫黄島からの手紙」の監督クリント・イーストウッドの言葉です。戦後の日本人の多くは、この映画が出来るまで、硫黄島という名前すら知らなかったのではないでしょうか。
忘れがたき硫黄島。またもや英霊に感謝です。
★https://www.pinterest.jp/pin/302304193716608919/
★
★映画「硫黄島からの手紙」
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/personal5.htm
むしろこの映画で取り上げてほしかったのは、市丸少将の「ルーズベルトに与ふる書」であります。交戦中の極限状態で無念の想いで訴え、書かれている戦争の目的、日本側将兵の想いがあふれ、感動させ ...
https://youtu.be/m5_q1i5ntTY
もご覧ください。
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★全米で絶賛された市丸中将の米国大統領宛の手紙 | 心温まる感動ストーリー 2015/04/13
https://ameblo.jp/kandoukotoba/entry-12012599161.html
「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。 従軍記者エメット・クロージャーは、発見の経緯と手紙の本文を4月4日、本国に向けて打電しました。
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★【硫黄島】忘れがたき壮絶な戦地/英霊に感謝と鎮魂【HD版】
115,942 回視聴 2010/04/25 https://youtu.be/2wK8fxMNh_E
まつしたまさよ
チャンネル登録者数 743人
【祝 動画復活!】大東亜戦争の激戦地、硫黄島についての動画です。
先日突然youtubeに削除されてしまったこの動画ですが、HD版で復活です。それまでに随分アクセスを頂いておりましたが、またどうかご覧頂けたら有り難いです。
「私はこの戦いを語り継ぐ事は日本にとって大切な事だと思う。 何故ならば彼らは、祖国の為に究極の犠牲的精神を体現した人々であるからだ。」
これは、映画「硫黄島からの手紙」の監督クリント・イーストウッドの言葉です。戦後の日本人の多くは、この映画が出来るまで、硫黄島という名前すら知らなかったのではないでしょうか。
忘れがたき硫黄島。またもや英霊に感謝です。
★https://www.pinterest.jp/pin/302304193716608919/
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★映画「硫黄島からの手紙」
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/personal5.htm
むしろこの映画で取り上げてほしかったのは、市丸少将の「ルーズベルトに与ふる書」であります。交戦中の極限状態で無念の想いで訴え、書かれている戦争の目的、日本側将兵の想いがあふれ、感動させ ...
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