縄文人の志葉楽さんのブログ

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●日本の歴史の縦糸と横糸

2020年10月18日 09時11分45秒 | 日本人の気質
日本は遺伝子学的に古い時代から受け継がれ面面(めんめん)(代々)(歴代)と
繋がっているのが証明されて結構それに色んな遺伝子が入っている。
世界でもまれに一つの土地で暮らしている。
 
・面面の意味 - 古語辞典 > 学研全訳古語辞典 - Weblio古語辞典
めん-めん 【面面】
[一]名詞
めいめい。各自。おのおの。
出典平家物語 七・維盛都落
「『我も参らん、我も行かん』とめんめんに慕ひ泣き給(たま)ふにぞ」
[訳] 「私も参ります、私も行きます」と、めいめいが慕い泣きなさるので。
[二]代名詞
みなみな。お前たち。▽対称の人称代名詞。対等以下の複数の相手に対していう。
出典太平記 三
「めんめん如何(いかん)計らひ給(たま)ふ」
[訳] みなみなどのように取り計らいなさるのか。
 
・だいだい【代代】,よよ【代代/世世】,だいだい【代代】
・だい‐だい【代代】
何代も続いていること。よよ。また、歴代。副詞的にも用いる。
「代代酒屋を営む」
・よ‐よ【代代/世世】
1 これまで経過してきたそれぞれの時期・時代。だいだい。
「―の為政者」「―に伝える」
2 仏語。 過去・現在・未来の三世。
3 別れ別れの世界。それぞれ別の生活。男女についていう。
「白河のしらずともいはじ底きよみ流れて―にすまむと思へば」〈古今・恋三〉
・ れき‐だい【歴代】 の解説
何代も経てきていること。また、それぞれの代。歴世。「歴代の首相」
 
名前に引かれて調べていると家紋などにも気が行く。
  
・ 家紋(かもん)  https://ja.wikipedia.org/wiki/家紋
日本固有の紋章である。
概要
1.家紋は今日まで息づいている日本固有の文化であると言っていい。
2.古くより出自といった自らの家系、血統、家柄・地位を表すために用いられてきた。
3.日本だけで241種、5116紋以上の家紋がある。
4.単に紋所(もんどころ)や紋とも呼ばれる。
5.2018年現在、採取されているだけで 2万近くの家紋が確認されている。
6.武具(刀や甲冑など)に好んで使用された。
7.家紋は人々の暮らしに息づいていた。
特に日本において古くより出自といった
自らの家系、血統、家柄・地位を表すために用いられてきた紋章である。
日本の家紋は「兜飾り」の意味から
Family crest、Crest といった英語で表現されている。
英語圏で用いられる象徴(Symbol)は抽象的な図案を指し、
紋章(Coat of arms)は視覚的な図案を指すが、
これは西洋の個人紋章(Coat of arms)の構成要素である
クレスト(Crest)は一族・家族で共有することがあり、
日本の家紋と同様の機能を有するからである。
日本名を音訳して mon、kamon とする場合もある。
家紋は今日まで息づいている日本固有の文化であると言っていい。
・家紋のおこり
「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼ばれる
源氏、平氏、藤原氏、橘氏といった強力な氏族が最も名を馳せていた時代、
地方に移り住んだ氏族の一部が他の同じ氏族の人間と区別を図るため
土地の名前などを自分の家名(屋号)とし、それが後の名字となった。
家紋は家の独自性を示す固有の目印的な紋章として生まれ、
名字を表す紋章としての要素が強い。
・家紋の発展
その後、武家や公家が家紋を使用するようになり、血統や元々の帰属勢力としていくつかのグループに大きく分けることができ、それぞれが代表的な家紋とそのバリエーションで構成される。その他、各地の豪族がそれぞれ新たに創作した家紋が現代まで伝わっているものもある。
  
・実は女性が着物に家紋を入れるのはおかしい | リーダーシップ
https://toyokeizai.net/articles/-/101964
関東には伝わらなかった「女紋」とは何か  安積 明子 : ジャーナリスト
1983年に映画化された谷崎潤一郎原作の「細雪」は、大阪・船場の大店・蒔岡家に生まれた4姉妹が、近代から現代にうつろう時代に生きぬく様子を描いている。
オープニングは京都・嵐山での花見のシーンだ。その息をのむような映像の美しさに、ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」の調べがゆったりとした時の流れを感じさせる。
・関西では女性の権利意識が強かった
主に畿内(関西地方)を中心とした西国において普及している風習の1つである。女紋とは実家の家紋とは異なり女系から女系へと伝える紋章のことであり、実家の家紋とは意匠も由緒も異なる。関西の商家では外部から頻繁に有能な入婿を迎えて家を継がせる女系相続が行われたため、自然発生的に女系に伝わる紋が生まれたといわれる。特に近畿地方の商家においては「家紋が一つしかない家は、旧家とは言わない」ともいい、代々の女紋を持つ家は相当な旧家として敬意を持って遇されることが多い。関東をはじめ関西以外ではこの風習は希であり、女紋という文化のないところでは婚姻に際し、習慣の違いからしばしば難色を示される場合もあるという(嫁いだのであるから当家の家紋を用いるべきという理由)。現在でもこの風習は根強く残っている。
家同士の婚姻が主だった時代、女性が嫁ぐ場合に婚家に女紋を持って行く例も見られる。女紋の意匠は主に家紋を基にしているが、輪郭をかたどった「陰・中陰」、「細輪」、「覗き」などやや女性らしいものが多い。女性が留袖に実家の家紋を用いる例が多く見られるが、女紋を継承している場合は女紋で留袖を作る。
明治新政府になると皇室の十六八重菊の皇室以外の使用は全面的に禁じられる。
現在、天皇と皇室の御紋である「十六八重菊」が慣習法上の国章の扱いを受けている。十六八重菊に意匠的には似ている十六菊は、日本国の発行するパスポートや議員バッジなどのデザインとして取り入れられている。今のところ日本では特定の菊紋を国章とする法令はない。商標法第4条第1項第1号には「国旗、菊花紋章、勲章、褒章又は外国の国旗と同一又は類似の商標」について、商標登録要件を満たさないと定められている。
桐紋が皇室御用達の紋になったのは元寇襲来の少し前の鎌倉時代中期と言われる。家紋としてよく見られる五三桐やそれに丸で囲ったものは、『太閤記』や伝承などで農民出身とされている豊臣秀吉が用いたことから「家紋のないほどの一般庶民がなんらかの事情で家紋を必要とする場合(紋付袴の着用等)に用いる家紋」としても使用され、上流階級とは逆の理由で庶民の間で一般的に流布した。また、現在では貸衣装の紋としてよく使われる。
Wikipediaより
  
  
我が家は家紋が剣片喰で資料では日本で十大紋の一つになる。
信長の四天王の一人の金森長近が越前大野に城主として赴任したときに
一緒について来た三大庄やのただ一軒の分家の家柄だと伝えられている。
戦前は大分財産もあり山や田んぼを沢山持っていたそうだ。
総て戦争のドサクサで騙し取られたと聞く。
持っていてもマッカーサーの大地主解体で残っては居なかっただろうけど。
デモ人別帳というモノが日本には有る。
これが余り残っていない。
火事で消失しているモノが多い。
完全に証明するモノは現存していない。
  
各家に家系図なるモノが残っていればそれはある程度信用できるのではないかな。
   
★金森長近 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/金森長近
金森 長近(かなもり ながちか)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
名ははじめ可近(ありちか)、後に織田信長から一字を賜り、長近を名乗った。
通称は五郎八。法印素玄。飛騨高山藩初代藩主。正四位下、兵部卿、飛騨守。
・生涯   https://ja.wikipedia.org/wiki/金森長近#生涯
大永4年(1524年)、金森定近の次男として、美濃国土岐郡多治見郷大畑村(現在の岐阜県多治見市大畑町)に生まれる。落語の祖と呼ばれ『醒睡笑』を編した安楽庵策伝は弟とされる。
長近は18歳になると近江を離れ、尾張国の織田信秀に仕官し、跡を継いだ信長にもそのまま仕えた。美濃攻略に従って功があり、赤母衣衆として抜擢された。
時代: 戦国時代 - 江戸時代前期‎
藩: 飛騨高山藩主、美濃上有知藩主
妻: 正室:お福の方; 継室:久昌院
子: 長則、長光、伊東治明、
娘(肥田忠政室)
養子:金森可重
   
・人別帳(読み)にんべつちょう  精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙
① 江戸時代、人別改の帳簿。初期の人別改は家族の外、家畜類、家屋の大小まで書き上げたが、享保一一年(一七二六)以後は、人口だけに限られた。→人別改。
※御触書寛保集成‐二四・正徳六年(1716)四月「人別帳并宗門改にもれ候ものを所に差置候事」
② 歌舞伎で役人替名を記した表の異称。口上言いが、これを三方にのせて舞台に現われ、読みあげた。
※雑俳・柳多留‐一〇七(1829)「木を入て人別帳をよみ上」
   
・宗門人別改帳 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/宗門人別改帳
宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)
江戸時代の中期に宗門人別改で宗門改帳と人別改帳が統合された
民衆調査のための台帳。現在で言う戸籍原簿や租税台帳である。
宗旨人別改帳とも呼ばれる。名義変更が遅れないかぎり、
宗門人別改帳の筆頭者は検地帳の土地所有者と記述が一致する。
江戸時代、幕府はキリスト教禁止令を発布し、やがて寺請制度を確立させ、
民衆がどのような宗教宗派を信仰しているかを定期的に調査するようになる。
これを宗門改と呼び、これによって作成された台帳を宗門改帳と呼ぶ。
一方、安土桃山時代に豊臣秀吉によって兵農分離が行われると、
領主は城下町に置かれることとなり、そのため所領を詳しく調査する
必要が出てくる。
特に夫役に関して、負担可能な者を調査する名目の人別改が行われるように
なり、これによって作成された台帳を人別改帳と呼ぶ。
これには年齢や家族構成が記述された(宗門改帳にはこれらの記載は無い)。
他にも家畜の所有数を調べる人畜改などがあり、これら人別改は必要に
応じて不定期に行われていた。
   
・人畜改帳(読み)じんちくあらためちょう
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
江戸時代の戸口調査に際し、人別(にんべつ)のみでなく、各戸で飼っている牛馬数もともに書き上げた帳簿。家数人馬(いえかずじんば)改帳ともいう。おもに江戸前期に、農村で実際に働きうる労働力と畜力を把握し、幕藩領主権力の経済的基盤を確立するために作成された。たとえば細川氏は、小倉(こくら)藩時代の1611年(慶長16)豊後(ぶんご)国(大分県)速見(はやみ)郡で、また22年(元和8)豊前(ぶぜん)・豊後(福岡・大分県)両国で各村ごとに人別・棟数(むねかず)・牛馬数などを書き上げさせた。ついで熊本藩に移封されてからも、1633年(寛永10)肥後国(熊本県)各郡より人畜改帳を提出させた。[長谷川伸三]
『東京大学史料編纂所編『肥後藩人畜改帳』全5巻(1955・東京大学出版会) ▽東京大学史料編纂所編『小倉藩人畜改帳』全5巻(1956~58・東京大学出版会)』
   
   
コメント
・桐紋が女紋として多いのは、着物を着なくなった時期、紋屋さんが途絶えてしまうことを恐れ、また、政府がキリスト教の真似をし…お葬式などには女性に黒紋付を着るようにして…それまで、紋のないような家の人も紋が必要になり…呉服屋さんが、昭和の皇后様と親戚になりましょうと誰にでも、五三の桐紋をすすめたことによりみなに広まったそうです。
        昭和の皇后様はちなみに五七の桐紋です。

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