●姓(カバネ)
★姓(カバネ) https://ja.wikipedia.org/wiki/カバネ
カバネ(姓、可婆根、尸)は、古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。
以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。
・起源
その発祥の経緯は明確ではない。ヤマト王権が成熟し、大王家を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与されたと考えられている。
語源には以下のように諸説があるが、はっきりとは分かっていない。
株根(かぶね)、株名(かぶな)などで血筋や家系を意味する語より。
崇名(あがめな)より変化したもの。
新羅の類似した制度「骨品制」より家系を表す骨を「かばね」と読んだもの。
・原始的カバネ
「原始的カバネ」とはヤマト王権が成立する以前から在地の首長や団体名に使われたと思われる名称である。
代表的な原始的カバネとしては「ヒコ(彦、比古、日子)、「ヒメ(比売、日女、媛)」、「ネ(根、禰)」、「ミミ及びミ(耳、見、美)」、「タマ(玉、多模)」、「ヌシ(主)」、「モリ(守)」、「トベ(戸部、戸畔)などがある。これらの原始的カバネは名称の語尾に付くもので、今日でも「ヒコ」や「ミ」など人名の語尾によく使われているものもある。
・カバネの制度化
ヤマト王権が確立するとカバネが制度化され、王権との関係・地位を示す称号となる。最初にカバネを制度化したのは成務天皇と伝えられ、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、ワケ(和気、別)、稲置(いなぎ)などが定められた。允恭天皇の時代には臣連制が導入され、公・君(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などが定められた。この改革により以前のワケ(和気、別)はキミ(君、公)姓に、国造・県主はアタイ(直)姓に改められた。臣連制の中で最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓が与えられた。その他のカバネとしては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた王(こにきし)などがある。
・カバネの変化
姓の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置付けられ、その地位は低下した。代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそみ、後に「あそん」。更に後世には「あっそん」とも)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)などの姓が与えられた。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの有力氏族の姓が朝臣になってしまい、八色の姓も形式的なものに変質してしまう。
ヤマト王権から明治維新までかろうじて命脈を保った姓は、藤原朝臣永敏(大村益次郎)・藤原朝臣利通(大久保利通)・菅原朝臣重信(大隈重信)・源朝臣有朋(山縣有朋)などに代表される朝臣、「越智宿禰博文」(伊藤博文)などに代表される宿禰である。これらの真偽はともかくとして、天皇及び朝廷に仕えるために必要不可欠とされた氏・姓が復古的に用意されただけ、という意味合いが強い。
明治政府は、1870年の平民苗字許容令、1872年(明治5年)の壬申戸籍編纂の二段階によって「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」の一元化を成し遂げ、旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止したため、事実上、「藤原」などの旧来の氏・「朝臣」などの姓は、その役割を完全に終えた。この壬申戸籍以後、旧来の姓は、それと一体化していた旧来の氏と共に、法的根拠をもって一本化された「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に完全に取って代わられることとなる。この新たな氏姓制度が日本国民全員に確立したのは、1875年(明治8年)の平民苗字必称令によってである。
★姓(カバネ) https://ja.wikipedia.org/wiki/カバネ
カバネ(姓、可婆根、尸)は、古代日本のヤマト王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。
以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。
・起源
その発祥の経緯は明確ではない。ヤマト王権が成熟し、大王家を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与されたと考えられている。
語源には以下のように諸説があるが、はっきりとは分かっていない。
株根(かぶね)、株名(かぶな)などで血筋や家系を意味する語より。
崇名(あがめな)より変化したもの。
新羅の類似した制度「骨品制」より家系を表す骨を「かばね」と読んだもの。
・原始的カバネ
「原始的カバネ」とはヤマト王権が成立する以前から在地の首長や団体名に使われたと思われる名称である。
代表的な原始的カバネとしては「ヒコ(彦、比古、日子)、「ヒメ(比売、日女、媛)」、「ネ(根、禰)」、「ミミ及びミ(耳、見、美)」、「タマ(玉、多模)」、「ヌシ(主)」、「モリ(守)」、「トベ(戸部、戸畔)などがある。これらの原始的カバネは名称の語尾に付くもので、今日でも「ヒコ」や「ミ」など人名の語尾によく使われているものもある。
・カバネの制度化
ヤマト王権が確立するとカバネが制度化され、王権との関係・地位を示す称号となる。最初にカバネを制度化したのは成務天皇と伝えられ、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、ワケ(和気、別)、稲置(いなぎ)などが定められた。允恭天皇の時代には臣連制が導入され、公・君(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などが定められた。この改革により以前のワケ(和気、別)はキミ(君、公)姓に、国造・県主はアタイ(直)姓に改められた。臣連制の中で最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓が与えられた。その他のカバネとしては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた王(こにきし)などがある。
・カバネの変化
姓の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置付けられ、その地位は低下した。代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそみ、後に「あそん」。更に後世には「あっそん」とも)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)などの姓が与えられた。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの有力氏族の姓が朝臣になってしまい、八色の姓も形式的なものに変質してしまう。
ヤマト王権から明治維新までかろうじて命脈を保った姓は、藤原朝臣永敏(大村益次郎)・藤原朝臣利通(大久保利通)・菅原朝臣重信(大隈重信)・源朝臣有朋(山縣有朋)などに代表される朝臣、「越智宿禰博文」(伊藤博文)などに代表される宿禰である。これらの真偽はともかくとして、天皇及び朝廷に仕えるために必要不可欠とされた氏・姓が復古的に用意されただけ、という意味合いが強い。
明治政府は、1870年の平民苗字許容令、1872年(明治5年)の壬申戸籍編纂の二段階によって「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」の一元化を成し遂げ、旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止したため、事実上、「藤原」などの旧来の氏・「朝臣」などの姓は、その役割を完全に終えた。この壬申戸籍以後、旧来の姓は、それと一体化していた旧来の氏と共に、法的根拠をもって一本化された「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に完全に取って代わられることとなる。この新たな氏姓制度が日本国民全員に確立したのは、1875年(明治8年)の平民苗字必称令によってである。
Wikipediaより
★
★「姓(せい)」について
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai8/8siryou4.pdf
1.7世紀末頃(律令制の導入)~明治まで
1 姓の意義せい
①姓は天皇から賜与されるもので、天皇・皇族は有しないものせい
・わが国においては、姓は、臣民たることの表象として、その奉仕や忠誠の度合いに応じて天皇から賜与されるものであった。
・従って、天皇・皇族は姓を有しない。
・姓は、公式の呼称とされ、戸籍への登録、公文書における表記等に用いられた。
【中国における姓】
・中国においては、姓は、その宗族にもともと備わっているものとされ、唐朝が李姓であるなど、皇帝も姓を有していた。
②姓とウジ名とカバネの関係せい・支配層(貴族等)では、ウジ名とカバネをあわせたものが姓とされた。
【実 例】
・藤 原朝臣不比等(ふじわらのあそん) ... 姓は「藤原朝臣」(藤原=ウジ名、朝臣=カバネ、不比等=実名)
・ 源 朝臣 融(みなもとのあそんとおる) ... 姓は「源朝臣」(源=ウジ名、朝臣=カバネ、融=実名)
★
★カバネの制度に関する新研究序説 (上) - HUSCAP - 北海道大学
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34274/1/3_PR90-137.pdf 北村文治 著 · 1964
第二議記絡におけるいわゆるカバネの年代考証. 第一節記紀におけるカパ、不の怒裁とその年代. 第二節役紀一敗裁百済史籍におけるカパネの記載(. 幾三締金石文におけるカパネの記載について. 然一一⋮滋絵ハかばね)の桝制度の成立過程.
★
★氏姓制度における二元性
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/11/000479.html
★
★古代の苗字 氏(うじ)と姓(かばね)の歴史 表札屋の苗字(名字)字典
http://www.myouji.info/ujitokabane.html
・古代に発生した苗字 氏姓制度
氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、朝廷(ヤマト王権)から中央の貴族や地方の有力豪族が、その貢献度や
朝廷における地位に応じて、朝廷より氏(ウジ)と姓(カバネ)を授与され、その特権的地位を世襲した制度のことです。
この古代に発生した苗字の一種とも言うことができる氏(ウジ)と姓(カバネ)の歴史を掘り下げて見ていきます。
★
★夫婦別姓はいつから?メリットデメリット・世論調査の結果を紹介
https://ricon-pro.com/magazine/63/ 離婚マガジン 2019/04/19
最近、若い世代で夫婦別姓を求める声が大きくなってきました。
夫婦別姓とは、その名の通り「夫婦で別々の姓(苗字)を名乗ること」です。
人によって希望は様々で、『結婚前の苗字を使いたい』という人もいれば、『結婚前と後のも両方を使いたい』なんていう人もいます。
世界では夫婦別姓を認める国がとても多いのですが、日本ではどうなのでしょうか。
この記事では『夫婦別姓が求められる理由』、『反対の声』、『メリット・デメリット』、『世論調査の結果』などを紹介します。
目次
・日本でいつ夫婦別姓が認められるかは未定
・夫婦別姓が求められる理由とは?
①女性ばかり他人の姓を名乗らなければならないのは不平等だから
②女性の社会進出が進んでいるから
③結婚の障害になることがあるから
④旧姓と新姓があるのはわかりにくいから
⑤そもそも姓名を変えなければいけないのかわからないから
⑥夫婦同姓なのは日本だけだから
・夫婦別姓を反対する人の声
・世論調査の結果
・夫婦別姓だとどんなメリットがある?
・夫婦別姓だとどんなデメリットがある?
・夫婦別姓でいるにはどうしたらいい?
・まとめ
★
★吾郷さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索 2020/09/04
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%90%BE%E9%83%B7
【名字】吾郷
【読み】あごう,あさと,あずま,ごきょう,ごごう,われさと,われご,わがさと
【全国順位】 4,349位
【全国人数】 およそ2,600人
★
★吾郷 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/吾郷
・吾郷(あごう)
地名のひとつ
・島根県邑智郡美郷町吾郷
・日本人の姓のひとつ。島根県に多い. 吾郷清彦.
★
★吾郷清彦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/吾郷清彦
吾郷 清彦(あごう きよひこ、1909年1月2日 - 2003年6月5日)は、超古代文献研究家、古神道研究家。島根県大田市出身。
概説
本名は吾郷哲夫(あごう てつお)。旧姓は三谷。吾郷家には養子として入った。
本職は電気技師であったが、定年退職後、在職中より取り組んでいた「日本の超古代史」「日本の神代文字」「古神道」の研究に専念。その研究歴は70年におよぶ。
1972年の著書 『古事記以前の書』 (大陸書房) で古史古伝という言い方を提唱した(これはやや不正確である。詳細は古史古伝の項を参照)
★
★名称由来 https://ja.wikipedia.org/wiki/古史古伝#名称由来
第2次世界大戦前には「神代史」「太古史」など言われ、戦後(1970年代頃まで)には吾郷清彦が「超古代文書」と呼んでいた。また同じ頃、武田崇元(武内裕)は「偽書」「偽史」「偽典」などといっていたが、「偽書」「偽典」は用語としてすでに確立した別の定義が存在しており紛らわしいので、やがて「偽史」という言い方に統一されていった。
「古史古伝」という言い方は、吾郷清彦が著書『古事記以前の書』(大陸書房、1972年)で最初に提唱したもので、この段階では「古典四書」「古伝三書」「古史三書」とされていたが、著書『日本超古代秘史資料』(新人物往来社、1976年)では、「古典四書」「古伝四書」「古史四書」「異録四書」に発展した。 初期の頃の吾郷清彦は「超古代文書」という言い方を好み、「古史古伝」とは言わなかった。あくまで分類上の用語として「古伝四書」とか「古史四書」といっていたにすぎない。1980年代以降、佐治芳彦がこれをくっつけて「古史古伝」と言い出したのが始まりである。
下記の分類は前述の『日本超古代秘史資料』を基本としているが、その後、他の文献写本が発見されるに従って吾郷清彦自身によって徐々に改訂が繰り返され増殖していった。その分として若干の補足を加えてある。
・吾郷清彦による分類
古典四書
・『古事記』
・『日本書紀』
・『先代旧事本紀』(旧事紀)
・『古語拾遺』
『古語拾遺』を除いて「古典三書」ともいう。この「古典四書」(または古典三書)という分類は、異端としての超古代文書に対して正統な神典としての比較対象のための便宜的な分類であり、「古典四書」はいわゆる超古代文書(古史古伝)ではなく、通常の「神典」から代表的・基本的な四書を出したもので、実質は「神典」の言い替えにすぎない。(神典の範囲をどう定めるかは古来諸説があるがこの四書に加えて『万葉集』『古風土記』『新撰姓氏録』などをも含むことが多い)。
・古伝四書
・『ウエツフミ』(大友文書、大友文献ともいう[7])
・『ホツマツタヱ』(※漢字ではなくカナ書きするのが吾郷の流儀)
・『ミカサフミ』
・『カタカムナのウタヒ』(いわゆる「カタカムナ」)
「カタカムナ」を除いて「古伝三書」ともいう。
この「古伝四書」は全文が神代文字で書かれているという外見上の体裁による分類であって、内容に基づく分類ではない。
★
★氏(うじ)と姓(かばね)
http://artharbour-ao.blogspot.com/2009/12/blog-post_3364.html
お家制度の根本なのかな?
姓とは日本の源平に相当し、氏とは日本の佐竹・千葉・伊達などに相当する。
氏 => 公家
姓 => 武家
なのかな?
今気づいた。氏名と、姓名があるな・・・
仮に佐竹義宣・千葉常胤・伊達政宗を姓で呼べば
それぞれ源義宣・平常胤・藤原政宗となる。
朝鮮では源平藤原に相当する姓のみが有り、
佐竹・千葉・伊達などに相当する氏が無かったので、これを創らせた。
よって創氏と呼ぶ。
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★「日本の苗字7000傑」と「徳川諸家系図」に見る高岡市守山城の『神保氏張』系図!!
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/5984ce556070945a03db6673e32416a0
2020-10-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「越中神保氏」について詳細を調べて見ると、高岡市の守山城の「神保氏」は元々「畠山重忠」と同じ『桓武平氏良文流』の家系だった。
能登畠山氏は畠山重忠が誅殺された後に源氏の足利義純が畠山重忠未亡人(平姓北条氏)と再婚して「畠山家」の名跡を継いだ。
能登畠山家は、この源氏と平家の混血により存続され、「神保氏張」はその能登畠山氏から「平姓良文流神保氏」の養子となった。
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★【質問一覧】
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1330956758?__ysp=6IuX5a2XNzAwMOWCkQ%3D%3D
①古代日本では、「村」は「邑」と呼ばれていた?
②↑だとすれば、なぜ「邑」から「村」に変わってしまったのか?
③「村」と「邑」の違いは?
④「村」は「むら」。では、「邑」は何と読む?
他にも「村」や「邑」について何かご存じであれば教えてください!
2009/9/23 21:37
・ベストアンサー
①古代、まだ漢字が伝わっていなかった時代・・・「ムラ」(字なし)
古語の「ムラガル(群がる)」と関係ありそうな気がします。
③『日本書紀』の『神武紀』『景行紀』に、「村」と「邑」が区別して書かれています。
どうも、「邑」の方が「村」よりも大きな単位であるようです。
④「邑」は「ムラ」、「村」は「フレ」または「アレ」と読むこともあったようです。
・
・質問者からのお礼コメント
「群がる」ですか!
実は「ムラ」について辞書を引いたとき、「むら【群・叢・簇】」という項目が出てきて、そこに〈ムレの古形〉って書いてあったんです。やっぱり人がいっぱい(群がって)いるからなんでしょうね。
euph_schibaさんも回答有難う御座いました!
お礼日時:2009/9/24 17:12
・
・2009/9/23 22:06
邑は中国の古代史に出てきます。邑は、「ゆう」と読みます。 堀 敏一 『中国通史』講談社学術文庫,2000年の邑制国家の説明によれば、「邑という語はあらゆる集落をさす語で、都市であろうが農村であろうが、みな邑といいます。」と(p.62)に書かれています。また、尾形勇・平勢 隆郎 『中華文明の誕生』(世界の歴史2)、中央公論社,1998年には、『壕や牆壁を廻らしたムラやマチがあった。これを「邑」という。邑は、おおむね小さな河川に沿った小高い丘の上で、湧き水も利用できるような場所にある。』(p.208)という説明がなされています。質問の③,④については先ほど回答した通りですが、①や②に関しては、私は日本の古代史よりも近世史に関心があるので、わからないです。
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★名字の履歴書
http://www7b.biglobe.ne.jp/~musashi-shinmen/link-myouji-22.html
【苗字一口メモ】[15] 漢字の表音と表意
伝来当初は表音文字として使われた漢字も次第に意味(表意)を持つようになり、現代に至っています。
従って、意味を見出せない苗字が一般的に古く(例:あべ)、意味が類推できるような苗字(例:新免…新しい免田)は比較的最近という見方もできます。
・人気サイト
日本の苗字7000傑
全国の苗字(名字)
名字見聞録
苗字の百貨店
名字資料館
日本人の名字
名字博士
表札屋の苗字(名字)字典
日本名字分布図鑑
苗字の履歴書
・おもしろ苗字
名字資料館
実在する珍しい名字の数々
・苗字の種類
苗字の履歴書 (181000種)
・苗字ランキング
苗字舘
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★「姓(せい)」について
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai8/8siryou4.pdf
1.7世紀末頃(律令制の導入)~明治まで
1 姓の意義せい
①姓は天皇から賜与されるもので、天皇・皇族は有しないものせい
・わが国においては、姓は、臣民たることの表象として、その奉仕や忠誠の度合いに応じて天皇から賜与されるものであった。
・従って、天皇・皇族は姓を有しない。
・姓は、公式の呼称とされ、戸籍への登録、公文書における表記等に用いられた。
【中国における姓】
・中国においては、姓は、その宗族にもともと備わっているものとされ、唐朝が李姓であるなど、皇帝も姓を有していた。
②姓とウジ名とカバネの関係せい・支配層(貴族等)では、ウジ名とカバネをあわせたものが姓とされた。
【実 例】
・藤 原朝臣不比等(ふじわらのあそん) ... 姓は「藤原朝臣」(藤原=ウジ名、朝臣=カバネ、不比等=実名)
・ 源 朝臣 融(みなもとのあそんとおる) ... 姓は「源朝臣」(源=ウジ名、朝臣=カバネ、融=実名)
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★カバネの制度に関する新研究序説 (上) - HUSCAP - 北海道大学
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34274/1/3_PR90-137.pdf 北村文治 著 · 1964
第二議記絡におけるいわゆるカバネの年代考証. 第一節記紀におけるカパ、不の怒裁とその年代. 第二節役紀一敗裁百済史籍におけるカパネの記載(. 幾三締金石文におけるカパネの記載について. 然一一⋮滋絵ハかばね)の桝制度の成立過程.
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★氏姓制度における二元性
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/11/000479.html
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★古代の苗字 氏(うじ)と姓(かばね)の歴史 表札屋の苗字(名字)字典
http://www.myouji.info/ujitokabane.html
・古代に発生した苗字 氏姓制度
氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、朝廷(ヤマト王権)から中央の貴族や地方の有力豪族が、その貢献度や
朝廷における地位に応じて、朝廷より氏(ウジ)と姓(カバネ)を授与され、その特権的地位を世襲した制度のことです。
この古代に発生した苗字の一種とも言うことができる氏(ウジ)と姓(カバネ)の歴史を掘り下げて見ていきます。
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★夫婦別姓はいつから?メリットデメリット・世論調査の結果を紹介
https://ricon-pro.com/magazine/63/ 離婚マガジン 2019/04/19
最近、若い世代で夫婦別姓を求める声が大きくなってきました。
夫婦別姓とは、その名の通り「夫婦で別々の姓(苗字)を名乗ること」です。
人によって希望は様々で、『結婚前の苗字を使いたい』という人もいれば、『結婚前と後のも両方を使いたい』なんていう人もいます。
世界では夫婦別姓を認める国がとても多いのですが、日本ではどうなのでしょうか。
この記事では『夫婦別姓が求められる理由』、『反対の声』、『メリット・デメリット』、『世論調査の結果』などを紹介します。
目次
・日本でいつ夫婦別姓が認められるかは未定
・夫婦別姓が求められる理由とは?
①女性ばかり他人の姓を名乗らなければならないのは不平等だから
②女性の社会進出が進んでいるから
③結婚の障害になることがあるから
④旧姓と新姓があるのはわかりにくいから
⑤そもそも姓名を変えなければいけないのかわからないから
⑥夫婦同姓なのは日本だけだから
・夫婦別姓を反対する人の声
・世論調査の結果
・夫婦別姓だとどんなメリットがある?
・夫婦別姓だとどんなデメリットがある?
・夫婦別姓でいるにはどうしたらいい?
・まとめ
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★吾郷さんの名字の由来や読み方、全国人数・順位|名字検索 2020/09/04
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%90%BE%E9%83%B7
【名字】吾郷
【読み】あごう,あさと,あずま,ごきょう,ごごう,われさと,われご,わがさと
【全国順位】 4,349位
【全国人数】 およそ2,600人
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★吾郷 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/吾郷
・吾郷(あごう)
地名のひとつ
・島根県邑智郡美郷町吾郷
・日本人の姓のひとつ。島根県に多い. 吾郷清彦.
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★吾郷清彦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/吾郷清彦
吾郷 清彦(あごう きよひこ、1909年1月2日 - 2003年6月5日)は、超古代文献研究家、古神道研究家。島根県大田市出身。
概説
本名は吾郷哲夫(あごう てつお)。旧姓は三谷。吾郷家には養子として入った。
本職は電気技師であったが、定年退職後、在職中より取り組んでいた「日本の超古代史」「日本の神代文字」「古神道」の研究に専念。その研究歴は70年におよぶ。
1972年の著書 『古事記以前の書』 (大陸書房) で古史古伝という言い方を提唱した(これはやや不正確である。詳細は古史古伝の項を参照)
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★名称由来 https://ja.wikipedia.org/wiki/古史古伝#名称由来
第2次世界大戦前には「神代史」「太古史」など言われ、戦後(1970年代頃まで)には吾郷清彦が「超古代文書」と呼んでいた。また同じ頃、武田崇元(武内裕)は「偽書」「偽史」「偽典」などといっていたが、「偽書」「偽典」は用語としてすでに確立した別の定義が存在しており紛らわしいので、やがて「偽史」という言い方に統一されていった。
「古史古伝」という言い方は、吾郷清彦が著書『古事記以前の書』(大陸書房、1972年)で最初に提唱したもので、この段階では「古典四書」「古伝三書」「古史三書」とされていたが、著書『日本超古代秘史資料』(新人物往来社、1976年)では、「古典四書」「古伝四書」「古史四書」「異録四書」に発展した。 初期の頃の吾郷清彦は「超古代文書」という言い方を好み、「古史古伝」とは言わなかった。あくまで分類上の用語として「古伝四書」とか「古史四書」といっていたにすぎない。1980年代以降、佐治芳彦がこれをくっつけて「古史古伝」と言い出したのが始まりである。
下記の分類は前述の『日本超古代秘史資料』を基本としているが、その後、他の文献写本が発見されるに従って吾郷清彦自身によって徐々に改訂が繰り返され増殖していった。その分として若干の補足を加えてある。
・吾郷清彦による分類
古典四書
・『古事記』
・『日本書紀』
・『先代旧事本紀』(旧事紀)
・『古語拾遺』
『古語拾遺』を除いて「古典三書」ともいう。この「古典四書」(または古典三書)という分類は、異端としての超古代文書に対して正統な神典としての比較対象のための便宜的な分類であり、「古典四書」はいわゆる超古代文書(古史古伝)ではなく、通常の「神典」から代表的・基本的な四書を出したもので、実質は「神典」の言い替えにすぎない。(神典の範囲をどう定めるかは古来諸説があるがこの四書に加えて『万葉集』『古風土記』『新撰姓氏録』などをも含むことが多い)。
・古伝四書
・『ウエツフミ』(大友文書、大友文献ともいう[7])
・『ホツマツタヱ』(※漢字ではなくカナ書きするのが吾郷の流儀)
・『ミカサフミ』
・『カタカムナのウタヒ』(いわゆる「カタカムナ」)
「カタカムナ」を除いて「古伝三書」ともいう。
この「古伝四書」は全文が神代文字で書かれているという外見上の体裁による分類であって、内容に基づく分類ではない。
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★氏(うじ)と姓(かばね)
http://artharbour-ao.blogspot.com/2009/12/blog-post_3364.html
お家制度の根本なのかな?
姓とは日本の源平に相当し、氏とは日本の佐竹・千葉・伊達などに相当する。
氏 => 公家
姓 => 武家
なのかな?
今気づいた。氏名と、姓名があるな・・・
仮に佐竹義宣・千葉常胤・伊達政宗を姓で呼べば
それぞれ源義宣・平常胤・藤原政宗となる。
朝鮮では源平藤原に相当する姓のみが有り、
佐竹・千葉・伊達などに相当する氏が無かったので、これを創らせた。
よって創氏と呼ぶ。
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★「日本の苗字7000傑」と「徳川諸家系図」に見る高岡市守山城の『神保氏張』系図!!
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/5984ce556070945a03db6673e32416a0
2020-10-16 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
「越中神保氏」について詳細を調べて見ると、高岡市の守山城の「神保氏」は元々「畠山重忠」と同じ『桓武平氏良文流』の家系だった。
能登畠山氏は畠山重忠が誅殺された後に源氏の足利義純が畠山重忠未亡人(平姓北条氏)と再婚して「畠山家」の名跡を継いだ。
能登畠山家は、この源氏と平家の混血により存続され、「神保氏張」はその能登畠山氏から「平姓良文流神保氏」の養子となった。
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★【質問一覧】
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1330956758?__ysp=6IuX5a2XNzAwMOWCkQ%3D%3D
①古代日本では、「村」は「邑」と呼ばれていた?
②↑だとすれば、なぜ「邑」から「村」に変わってしまったのか?
③「村」と「邑」の違いは?
④「村」は「むら」。では、「邑」は何と読む?
他にも「村」や「邑」について何かご存じであれば教えてください!
2009/9/23 21:37
・ベストアンサー
①古代、まだ漢字が伝わっていなかった時代・・・「ムラ」(字なし)
古語の「ムラガル(群がる)」と関係ありそうな気がします。
③『日本書紀』の『神武紀』『景行紀』に、「村」と「邑」が区別して書かれています。
どうも、「邑」の方が「村」よりも大きな単位であるようです。
④「邑」は「ムラ」、「村」は「フレ」または「アレ」と読むこともあったようです。
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・質問者からのお礼コメント
「群がる」ですか!
実は「ムラ」について辞書を引いたとき、「むら【群・叢・簇】」という項目が出てきて、そこに〈ムレの古形〉って書いてあったんです。やっぱり人がいっぱい(群がって)いるからなんでしょうね。
euph_schibaさんも回答有難う御座いました!
お礼日時:2009/9/24 17:12
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・2009/9/23 22:06
邑は中国の古代史に出てきます。邑は、「ゆう」と読みます。 堀 敏一 『中国通史』講談社学術文庫,2000年の邑制国家の説明によれば、「邑という語はあらゆる集落をさす語で、都市であろうが農村であろうが、みな邑といいます。」と(p.62)に書かれています。また、尾形勇・平勢 隆郎 『中華文明の誕生』(世界の歴史2)、中央公論社,1998年には、『壕や牆壁を廻らしたムラやマチがあった。これを「邑」という。邑は、おおむね小さな河川に沿った小高い丘の上で、湧き水も利用できるような場所にある。』(p.208)という説明がなされています。質問の③,④については先ほど回答した通りですが、①や②に関しては、私は日本の古代史よりも近世史に関心があるので、わからないです。
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★名字の履歴書
http://www7b.biglobe.ne.jp/~musashi-shinmen/link-myouji-22.html
【苗字一口メモ】[15] 漢字の表音と表意
伝来当初は表音文字として使われた漢字も次第に意味(表意)を持つようになり、現代に至っています。
従って、意味を見出せない苗字が一般的に古く(例:あべ)、意味が類推できるような苗字(例:新免…新しい免田)は比較的最近という見方もできます。
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日本の苗字7000傑
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