やさしさ
というものは
相手をおもう心と
自分を責めさばかない心から
出てくるものです
いくら相手の立場に
立ったって
自分自身を
駄目だ駄目だ
と思ってたんじゃあ
ちっとも
ひろやかにはなってかない
ね、
こころ晴ればれと
しないじゃありませんか
心は
晴ばれと
大空のように
澄み切って
そして
朗らかに生きる
ということが
何よりも
大事なことなのです
そりゃあ
苦しいことも
悲しいことも
何でこうなるんだろう
ということだって
いっぱいある
その悲しみは
苦しみは
みんな
私が
うけとってあげるから
とにかく
世界平和の祈りのなかで
神様
私を明るくして下さい
朗らかにして下さい
と祈ってごらんなさい
いつの間にか
自分を責める時間が
少なく
なって
そして
自分を苦しめる
そういう自分も
いつの間にか
すっかり
消えていますから
自分は自分
他人は他人
それはそのとおりなんだけど
この言葉は本来
自分には自分の生命の流れ(みち)があり
人には人の命の流れ(みち)がある
ということなんですね
決して
お前なんかしらない
自分は自分で精一杯っていう
言葉じゃ
ないんですけどね
それが
肉体人間だと
つい
そういう風に思っちゃう
そして
自分と他人との間に
垣根を
つくっちゃうんですね
私がいいたいのは
今はもう
そんな時代じゃない
ということなんです
一人一人が
世界人類のことを思い
祈らないと
間に合わない時代なんですよ
世界平和の祈りを祈りながら
この祈りのなかで
一人一人が自分自身の
いのちを宣り出して
そして
光をつよめ
やさしさをつよめて
生きていかなければ
とてもこの
地球は光明化できるもんじゃ
ないんです
もう
自分だ
他人だ
と言ってる場合じゃなくて
世界人類共同体の時代なんですよ
光ファイバーというものが
光というものが
どんどん
世界を結んでいっているけれど
この地球に
寄り合って生きている
私達自身の
光明化を
祈りによって
今していかなければなりません
私達が
肉体人間の枠を超えた
本来の大元のいのちの一筋としての
自分を自覚していくことで
私達自身も
この地球も
ともに光の世界になっていくのであります
どうぞ
たゆまず
世界平和の祈りを唱えながら
歩む一人であって下さい
それではどうもありがとうございました
というものは
相手をおもう心と
自分を責めさばかない心から
出てくるものです
いくら相手の立場に
立ったって
自分自身を
駄目だ駄目だ
と思ってたんじゃあ
ちっとも
ひろやかにはなってかない
ね、
こころ晴ればれと
しないじゃありませんか
心は
晴ばれと
大空のように
澄み切って
そして
朗らかに生きる
ということが
何よりも
大事なことなのです
そりゃあ
苦しいことも
悲しいことも
何でこうなるんだろう
ということだって
いっぱいある
その悲しみは
苦しみは
みんな
私が
うけとってあげるから
とにかく
世界平和の祈りのなかで
神様
私を明るくして下さい
朗らかにして下さい
と祈ってごらんなさい
いつの間にか
自分を責める時間が
少なく
なって
そして
自分を苦しめる
そういう自分も
いつの間にか
すっかり
消えていますから
自分は自分
他人は他人
それはそのとおりなんだけど
この言葉は本来
自分には自分の生命の流れ(みち)があり
人には人の命の流れ(みち)がある
ということなんですね
決して
お前なんかしらない
自分は自分で精一杯っていう
言葉じゃ
ないんですけどね
それが
肉体人間だと
つい
そういう風に思っちゃう
そして
自分と他人との間に
垣根を
つくっちゃうんですね
私がいいたいのは
今はもう
そんな時代じゃない
ということなんです
一人一人が
世界人類のことを思い
祈らないと
間に合わない時代なんですよ
世界平和の祈りを祈りながら
この祈りのなかで
一人一人が自分自身の
いのちを宣り出して
そして
光をつよめ
やさしさをつよめて
生きていかなければ
とてもこの
地球は光明化できるもんじゃ
ないんです
もう
自分だ
他人だ
と言ってる場合じゃなくて
世界人類共同体の時代なんですよ
光ファイバーというものが
光というものが
どんどん
世界を結んでいっているけれど
この地球に
寄り合って生きている
私達自身の
光明化を
祈りによって
今していかなければなりません
私達が
肉体人間の枠を超えた
本来の大元のいのちの一筋としての
自分を自覚していくことで
私達自身も
この地球も
ともに光の世界になっていくのであります
どうぞ
たゆまず
世界平和の祈りを唱えながら
歩む一人であって下さい
それではどうもありがとうございました
これも何度も話をしたことですけれどもね。心というものと本心
というものは、これは違うんですね。
元々から言ってしまうと、本心というものがあなた方の本来の姿。
光り輝く姿なんです。どうもね、言葉というものは不自由でねえ、
本心というとその本心というイメージが湧いてくるでしょう。自分の
イメージに訴えてその像をつくっちゃうからねえ。それで、どうにも
しょうがなくなっちゃって把われちゃうんだけれども、なるだけ
それをくだいて言おうと思うとね。
つまり、光明があるところですね。神様の光が渦巻いているところ
ですよ。それが本心ですね。それは、あなた方の肉体のもっと奥の
奥の自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、どこともなく
スポッとおさまってる、それが本心ですね。
その本心というものは、いつも私が申しますように、
全く迷いのない姿。言葉をかえて言えば、本心というのは、迷いも
疑いも悲しみも悩みも何にもないところで、ただ神様だけを仰いで、
神様と一体になってね、神様といるということも忘れて、ただその
生命を輝かしている。そういう場所、そこが本心の座なんですね。
我々は、本当は色々な座にいるんです。それは、特に統一しなく
てもね。日常の世界の中でもね。例えば、遊びに行ったり食事を
したりとか、そういう信仰のことを離れても、その時その時色んな
座にいるんですね。
それはどういうことかというと、やっぱり気持ちのいい人と会えば
自然に心が和んでね、言葉もやわらかになって、色んな話も弾みます
でしょ。そういう時には心が喜んでくるんですねえ。そうして、
色々な煩いを一時忘れて、子供のように素直になって、その時には、
私達は素直という座にいますね。
そういう自覚をもたなくても、そういうところへ導いて下さるのが
守護霊さんであり守護神さんですね。
我々の生命とか生き方とかいうものは、もちろんこの世の中に
おいても向こうに行っても努力が必要ですが、しかし、知らず知らずの
間に守護霊さんとか守護神さんが、きっちりと我々を行くべき
ところへ導いて下すってる。自分も気がつかない内に、いつの間にか、
悩みとか悲しみとかいうものを少なくして下すってる。
その座というものは、あなた方のあるいは我々の気持ちによって、
上がったり下がったりするんですよ。
向こうへ霊界移行するでしょう。霊界移行したばかりの人達と
いうのはね、やっぱりこっちの世の中の想いとかありますよね。早く
死んじゃって、(残してきた)子供が小さいのにとか、ありますでしょ。
そうすると、向こうは素直というのを貫いて修行するんですよ。
さっき申しましたね。神様の愛念というものは、生き死にを貫いて、
そういうものをとっ払っちゃってあなた方を愛してるんだということを
申しましたね。だから、そこのところを深く信じる。難しいけれども
深く信じる。任せてしまう。それを向こうへ行ってもやるんです。
座禅したりね、色々ありますよ。色んな修行の仕方があるけれども、
あなた方にもさせたけれどもね。だけど、それは何の為か。すっきり
自分の生命が神様の方に抱きとられているということを喜ぶ為の修行
なんですね。そうでなきゃあ、苦しむ為の修行だったら何もならない。
けれども、向こうへ移行したばかりの霊(こっちへ来たての霊)たち
というのは、残してきた人のことがやっぱり気になるでしょ。
それはやっぱり、肉体の我といいますかね、肉体の想いの座に転落
しちゃうのね。で又、一からやり直す。そりゃあ厳しいですよ。
この世の中で、子供の為にとか孫の為にとかね、あるいは、この人の
為にとかやってる方がよっぽどやりやすい。その位厳しい。よく、
ひとおもいに向こうへ行ったらと想うけれども、そうもいかないんですね。
やはり、人間のこういう日々の営みの中で、色々なおもいを経験して、
そうしてそれを乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、そういう色んな
ところを通り過ぎて、祈りというところへ行くんでしょ。
ですから、その祈りというのはただ祈ればいいというもんじゃない。
神様へ呼びかける。こんな私ですけれどもといって呼びかける。その
時に、神様というのは、ああいいよといってあなた方に答えて下さる。
前も申し上げたかもしれないけれども、神様というのは人間を裏切ら
ないんです。人間はしょっちゅう神様を裏切るけれどもね。
何故、こんなことがあるんなら、神様なんて信じるものかとかね。
たいてい、自分にとって辛いこと苦しいこと受け入れ難いことが
起ってくると、人間というものはやっぱり神様を否定したくなる。
そうでしょう。でもそれは、自分の都合の悪いことが起ってきた時
には苦しくなるからそう思うんですね。
ところが、神様というのはものすごい大愛でね。それで、あなた方に
ずっと愛の光を送ってるから、そういう叫びだとか恨みごとだとか
色んなものが来てもね、そういう涙顔を見ても、可哀想になあと
思いながら、本当のところはずっと光を与え続けているんですね。
そういう絶え間のない光、それが本心ですよね。
そして、いつも申しますように、あなた方が神様からの分霊であり
分生命なんだから、その本心の光というものは神様から流れてくる
だけじゃない。見えないけれども、あなた方の奥の体の中にどことも
なく入っている。光そのもの、本心。
あなた方の中にある訳だから、その本心と神様の宇宙神の大御心
とが交流し合って、この世の中というものは息づいているんです。
あるいは、植物でも鉱物でも動物たちでもね。そういう交流が
なかったら生命というものはすぐに枯れてしまいますよ。そういう
素晴らしい宝を我々は神様からいただいているんだねえ。
ところが、心というものがあってね、あるいは、感情と言った方が
いいかもわからない。恨みごとだとか、もう勘弁してほしいとか、
いやだとか、そういうものというのはここから出るんですね。肉体に
まとわりついてくる我というものもここなんですよね。ここにからみ
ついてるんです。だから、これを自分自身だ、私の心だと思って
しまうと、思い間違いする訳ですね。
もう何十回も言ったことだけども、我々の心の奥底ずっと降りて
いくと、やっぱり本心というものがある。そして、先程申しました
けどね、毎日毎日の生活の中で色々な座がある。その座に座らせて
いただいている。喜びごとがある時には喜びの座に座ってるんです。
悲しみのときには悲しみの座に座ってるんです。あるいは、
孤独の座にも座るんです。
そうして、そういうところへ座らせていただきながら、私たちは、
神様の大きな愛の座、本心の座、光の座、神様の座に招かれて、
そこへ進んでゆく訳ですね。
それは何も向こうへ行って修行しなくったって、毎日毎日がそう
なんですよ。この世と向こうは続いているんだからね。
この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が意識しようとしまいとね、
その座が進んでゆくかどうか、転落するかしないか、毎日毎日の
想いが修行の場なんです。
霊界だって想いでみんなつくられているでしょ。だから、物欲の
強い人が向こうへ行ったら、そりゃあもう物欲かたまりの世界が
できますよね。無欲の人が行ったら、何だか小鳥が啼いてという
ような清浄な空気のところを歩くと。
みんなイメージなんです。イメージだけれども、じゃあ霊界が
ないかというとそうじゃない。真実の生命につらなっていく。
そういうものというのは確固としてある。だから、その本心と
いうものをたずねて祈ってね、できる限りの消えてゆく姿をやって、
その座が進んでいくように、そうして、進むも進まないも、もう
ひとついけば、神様に任せます、いいようになすって下さいと
いう風に言えるようにもっていくのが信仰ですねえ。
そして、それを助けるのが五井先生ですね。世界平和の祈り
ですね。決してあなた方だけの力で絶対そんなことはできませんよ。
だけど、あなた方の祈り心が一人になり二人になり十人になり
三十人にとやっていけば、それはもう光明波動なんですからね、
人間というのは光なんですから、そりゃあすごい力を発揮するんです。
目には見えないけれども、その光がサァーッと全世界にうずまいて、
全宇宙に広がってね、そうして、光明があたりを浄めていくんですね。
そのことを忘れたらいけません。そのことを忘れて祈りをしたら、
これはただ単なるご利益の祈りになっちゃう。そうじゃないんですよ。
南無阿弥陀仏にしても南無妙法蓮華経にしても、世界平和の祈りに
しても主の祈りにしたって、本当の真実の祈りの奥底にあるものは、
何か、こうして下さい、ああして下さい、運がよくなりますように、
そりゃあ大事ですよ、みんな生き生きといかなきゃいけないんだから、
やっぱりそういうものはなきゃ困る。
でも本当に目指すものは何かというと、神様と一体になる我々は
生命なんだという、その喜びに至る。
そこが大事なんです。それを忘れた祈りはないんです。
神様というものが我々の為にいて下すってね、神様というものから
我々は分かれてきた分生命、分霊で、そうして、我々が我々の分に
応じて、あるいはそれ以上の働きを、神様の力によって愛念によって
させていただくんだということね。
本心と心というものは分かれてるものじゃないんですよ。本心から
ずっと光明が出ましてね、我々の肉体も想いも、想いを出してる心も
浄めていくんです。祈りがそれを浄めていくんですよ。
だから、世界平和の祈りの中に、あるいは、南無阿弥陀仏の中に、
色んな祈りの中に溶け込んで、そうして最後には、自分自身が役に
立つも立たないも、とに角神様の光になって無になって動いていく
時に、この世の中というのは光明波動になっていく訳ですね。
だから、役に立たない生命なんていうのはこの世の中に一つも
ないんです。無駄というものも一つもないんです。
生きるということにしたって死ぬということにしたって時があってね。
我々のこの肉体人間の情から言えばとてもやりきれない色んな出来事
だって、それはやはり選びの時なんですね。向こう側からすれば選びの
時なんです。
そうして皆のことを考えてる。そういう時が与えられる時はね。
だから、ああこれは神様が与えて下すったものなんだなと考えること
ですねえ。それを目指して、世界平和の祈りというものがあり、皆さんの
統一というものがあり、印というものがある。皆離れてるもんじゃ
ないんですよ。
あなた方の祈り心が深くなって、自分を深く省みて、自分の中に、
そうだ神様からの宝物を私たちはいただいているんだなと、そう思える
心になった時に、そう思える心が一瞬間きたら、これはもう大変なこと
ですね。で、それをずっと続けていって下されば、それはもう大変なこと
ですよ。それを出来ないと思っているのが人間ですよ。出来ると思って
いるのが神様です。
宗教というのは、その出来ると思ってる神様の大きな愛念に、我々
全部を預けてしまうことですね。生命もすべてね。投げ出すというのは
大変なことだけど、やってしまえば簡単なんですよ。なかなか情としては
大変だけどね。
やってしまえばと言ったって、出来ないですよ先生とくるかも
わからないけれども、あなた方、祈ってる時は投げ出してるんだよ。
自分たちは分からないけれどね。世界平和の祈りを祈ってる時は、
色んな雑念があろうと何していようと、やっぱり投げ出してるんです。
だから、あなた方は毎日毎日投げ出して、自分をカラッポにする修行を
やっぱりやってるんですよ。気がつかない内にさせていただいてるんです。
だから、任せるということは朗らかになることですよ。神様と一つ
生命になるということですよ。あるいは、神様の愛が私達の中に流れ
ているということを知ることです。
その為に祈りがある。その為に生きる。その為に悩むんです。
すべて無駄な事はないんです。皆必要なんですね。決ってる事
なんです。必定なんです。
だけども、神様というのは宿命じゃない。宿命論者じゃないし
運命論者じゃない。だから、運命修正というものが出来るでしょ。
皆さんの祈りによって出来るでしょう。あるいは、皆さんの愛念に
よって動いていくんですよ。そこに世の中の人々が言う奇跡という
ものも生まれて来るんです。
だから、もうこれは神様事だから神様に任せなければ仕方がないと
いって投げ出してね。投げ出してというのは、放り投げて努力も
しない、ねえ、もうとても私達の力では及びませんといって投げて
しまっちゃあ、こりゃあ駄目なんです。やっぱり祈る。祈って祈って
祈って祈りきったところに光が出てくる。
その時に、例えば生き死にの問題で言えばね、つまり、一人の人に、
生命を向こうにもっていかれるか、まだこっちにいて皆さんの役に
立つか、どちらになるか分からないけれど、祈って光がパァーと来て、
そうして、そうかそれじゃあといって向こうで変更になるかも
わからない。その辺わからないんです。
ただ分かってる事は、どんな風な現われ方をしても、神様と
いうものは絶対に私達一人一人を愛しているということ。憎んだりは
絶対しない。恨んだりも絶対しない。
何故なら、みんな神様の子供なんだから。ね、子供を愛さない親は
いないでしょう。そうでしょう。絶対みんな子供は可愛いいですよ。
その何十倍何千倍、神様というものは一人一人を愛している。今の
あなた方のありのままを愛しているし、あなた方の中に貫いて流れて
いる深い生命というものも愛してるし、あなた方全体の、もう全部を
愛してる。それを引き出して用いようとなすってらっしゃる。だから、
遠慮しちゃあいけないんです。
今、白光真宏会が、あなた方は神の子ですと言ってるけど、それは、
あなた方の中にある神様の深い生命というもの、それを用いていただく
時には遠慮しちゃあいけないということです。それをどう用いて
下さるかは向こうが決めることであって、我々はそこへ導いて下さる
ままに、祈って進んでゆけばいいんです。ただだまって座っていても
構わないんです。任せてしまえば、向こうがきっちりして
下さるんだから。
ただ、我々の中に、性格というものがあるでしょ、気持ちという
ものがありますよ。だから、そんな私なんかとか思うけれども、
そうじゃない。毎日毎日投げ出して祈ってるんだから、カラッポに
なる修行をしているんだから、ある時に、ものすごい大役がくるかも
しれない。ある時に、ものすごい辛いことがくるかもしれない。
いいことも悪いことも来ますよ。その時に、いざという時に、
そうだ神様!と投げ出してね。
今まで投げ出してくる練習をして来ました、だから、どうか用いて
下さい、器にして下さいって祈ってごらんなさい。本当に祈りの光で
いっぱいになるから。
で、呼んで下さる時には、私はどこでも行くんですからね。だから、
呼んで呼んで祈って祈ってね、やって行かなきゃあこの世の中と
いうのは、辛くて辛くてしょうがないんです。
その為に本心も心もあるんですよ。あなた方の中に神の宮があるん
ですよ。神様とつらなってるんですよ。そのことを忘れないでね、
祈ってやって下さい。
というものは、これは違うんですね。
元々から言ってしまうと、本心というものがあなた方の本来の姿。
光り輝く姿なんです。どうもね、言葉というものは不自由でねえ、
本心というとその本心というイメージが湧いてくるでしょう。自分の
イメージに訴えてその像をつくっちゃうからねえ。それで、どうにも
しょうがなくなっちゃって把われちゃうんだけれども、なるだけ
それをくだいて言おうと思うとね。
つまり、光明があるところですね。神様の光が渦巻いているところ
ですよ。それが本心ですね。それは、あなた方の肉体のもっと奥の
奥の自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、どこともなく
スポッとおさまってる、それが本心ですね。
その本心というものは、いつも私が申しますように、
全く迷いのない姿。言葉をかえて言えば、本心というのは、迷いも
疑いも悲しみも悩みも何にもないところで、ただ神様だけを仰いで、
神様と一体になってね、神様といるということも忘れて、ただその
生命を輝かしている。そういう場所、そこが本心の座なんですね。
我々は、本当は色々な座にいるんです。それは、特に統一しなく
てもね。日常の世界の中でもね。例えば、遊びに行ったり食事を
したりとか、そういう信仰のことを離れても、その時その時色んな
座にいるんですね。
それはどういうことかというと、やっぱり気持ちのいい人と会えば
自然に心が和んでね、言葉もやわらかになって、色んな話も弾みます
でしょ。そういう時には心が喜んでくるんですねえ。そうして、
色々な煩いを一時忘れて、子供のように素直になって、その時には、
私達は素直という座にいますね。
そういう自覚をもたなくても、そういうところへ導いて下さるのが
守護霊さんであり守護神さんですね。
我々の生命とか生き方とかいうものは、もちろんこの世の中に
おいても向こうに行っても努力が必要ですが、しかし、知らず知らずの
間に守護霊さんとか守護神さんが、きっちりと我々を行くべき
ところへ導いて下すってる。自分も気がつかない内に、いつの間にか、
悩みとか悲しみとかいうものを少なくして下すってる。
その座というものは、あなた方のあるいは我々の気持ちによって、
上がったり下がったりするんですよ。
向こうへ霊界移行するでしょう。霊界移行したばかりの人達と
いうのはね、やっぱりこっちの世の中の想いとかありますよね。早く
死んじゃって、(残してきた)子供が小さいのにとか、ありますでしょ。
そうすると、向こうは素直というのを貫いて修行するんですよ。
さっき申しましたね。神様の愛念というものは、生き死にを貫いて、
そういうものをとっ払っちゃってあなた方を愛してるんだということを
申しましたね。だから、そこのところを深く信じる。難しいけれども
深く信じる。任せてしまう。それを向こうへ行ってもやるんです。
座禅したりね、色々ありますよ。色んな修行の仕方があるけれども、
あなた方にもさせたけれどもね。だけど、それは何の為か。すっきり
自分の生命が神様の方に抱きとられているということを喜ぶ為の修行
なんですね。そうでなきゃあ、苦しむ為の修行だったら何もならない。
けれども、向こうへ移行したばかりの霊(こっちへ来たての霊)たち
というのは、残してきた人のことがやっぱり気になるでしょ。
それはやっぱり、肉体の我といいますかね、肉体の想いの座に転落
しちゃうのね。で又、一からやり直す。そりゃあ厳しいですよ。
この世の中で、子供の為にとか孫の為にとかね、あるいは、この人の
為にとかやってる方がよっぽどやりやすい。その位厳しい。よく、
ひとおもいに向こうへ行ったらと想うけれども、そうもいかないんですね。
やはり、人間のこういう日々の営みの中で、色々なおもいを経験して、
そうしてそれを乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、そういう色んな
ところを通り過ぎて、祈りというところへ行くんでしょ。
ですから、その祈りというのはただ祈ればいいというもんじゃない。
神様へ呼びかける。こんな私ですけれどもといって呼びかける。その
時に、神様というのは、ああいいよといってあなた方に答えて下さる。
前も申し上げたかもしれないけれども、神様というのは人間を裏切ら
ないんです。人間はしょっちゅう神様を裏切るけれどもね。
何故、こんなことがあるんなら、神様なんて信じるものかとかね。
たいてい、自分にとって辛いこと苦しいこと受け入れ難いことが
起ってくると、人間というものはやっぱり神様を否定したくなる。
そうでしょう。でもそれは、自分の都合の悪いことが起ってきた時
には苦しくなるからそう思うんですね。
ところが、神様というのはものすごい大愛でね。それで、あなた方に
ずっと愛の光を送ってるから、そういう叫びだとか恨みごとだとか
色んなものが来てもね、そういう涙顔を見ても、可哀想になあと
思いながら、本当のところはずっと光を与え続けているんですね。
そういう絶え間のない光、それが本心ですよね。
そして、いつも申しますように、あなた方が神様からの分霊であり
分生命なんだから、その本心の光というものは神様から流れてくる
だけじゃない。見えないけれども、あなた方の奥の体の中にどことも
なく入っている。光そのもの、本心。
あなた方の中にある訳だから、その本心と神様の宇宙神の大御心
とが交流し合って、この世の中というものは息づいているんです。
あるいは、植物でも鉱物でも動物たちでもね。そういう交流が
なかったら生命というものはすぐに枯れてしまいますよ。そういう
素晴らしい宝を我々は神様からいただいているんだねえ。
ところが、心というものがあってね、あるいは、感情と言った方が
いいかもわからない。恨みごとだとか、もう勘弁してほしいとか、
いやだとか、そういうものというのはここから出るんですね。肉体に
まとわりついてくる我というものもここなんですよね。ここにからみ
ついてるんです。だから、これを自分自身だ、私の心だと思って
しまうと、思い間違いする訳ですね。
もう何十回も言ったことだけども、我々の心の奥底ずっと降りて
いくと、やっぱり本心というものがある。そして、先程申しました
けどね、毎日毎日の生活の中で色々な座がある。その座に座らせて
いただいている。喜びごとがある時には喜びの座に座ってるんです。
悲しみのときには悲しみの座に座ってるんです。あるいは、
孤独の座にも座るんです。
そうして、そういうところへ座らせていただきながら、私たちは、
神様の大きな愛の座、本心の座、光の座、神様の座に招かれて、
そこへ進んでゆく訳ですね。
それは何も向こうへ行って修行しなくったって、毎日毎日がそう
なんですよ。この世と向こうは続いているんだからね。
この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が意識しようとしまいとね、
その座が進んでゆくかどうか、転落するかしないか、毎日毎日の
想いが修行の場なんです。
霊界だって想いでみんなつくられているでしょ。だから、物欲の
強い人が向こうへ行ったら、そりゃあもう物欲かたまりの世界が
できますよね。無欲の人が行ったら、何だか小鳥が啼いてという
ような清浄な空気のところを歩くと。
みんなイメージなんです。イメージだけれども、じゃあ霊界が
ないかというとそうじゃない。真実の生命につらなっていく。
そういうものというのは確固としてある。だから、その本心と
いうものをたずねて祈ってね、できる限りの消えてゆく姿をやって、
その座が進んでいくように、そうして、進むも進まないも、もう
ひとついけば、神様に任せます、いいようになすって下さいと
いう風に言えるようにもっていくのが信仰ですねえ。
そして、それを助けるのが五井先生ですね。世界平和の祈り
ですね。決してあなた方だけの力で絶対そんなことはできませんよ。
だけど、あなた方の祈り心が一人になり二人になり十人になり
三十人にとやっていけば、それはもう光明波動なんですからね、
人間というのは光なんですから、そりゃあすごい力を発揮するんです。
目には見えないけれども、その光がサァーッと全世界にうずまいて、
全宇宙に広がってね、そうして、光明があたりを浄めていくんですね。
そのことを忘れたらいけません。そのことを忘れて祈りをしたら、
これはただ単なるご利益の祈りになっちゃう。そうじゃないんですよ。
南無阿弥陀仏にしても南無妙法蓮華経にしても、世界平和の祈りに
しても主の祈りにしたって、本当の真実の祈りの奥底にあるものは、
何か、こうして下さい、ああして下さい、運がよくなりますように、
そりゃあ大事ですよ、みんな生き生きといかなきゃいけないんだから、
やっぱりそういうものはなきゃ困る。
でも本当に目指すものは何かというと、神様と一体になる我々は
生命なんだという、その喜びに至る。
そこが大事なんです。それを忘れた祈りはないんです。
神様というものが我々の為にいて下すってね、神様というものから
我々は分かれてきた分生命、分霊で、そうして、我々が我々の分に
応じて、あるいはそれ以上の働きを、神様の力によって愛念によって
させていただくんだということね。
本心と心というものは分かれてるものじゃないんですよ。本心から
ずっと光明が出ましてね、我々の肉体も想いも、想いを出してる心も
浄めていくんです。祈りがそれを浄めていくんですよ。
だから、世界平和の祈りの中に、あるいは、南無阿弥陀仏の中に、
色んな祈りの中に溶け込んで、そうして最後には、自分自身が役に
立つも立たないも、とに角神様の光になって無になって動いていく
時に、この世の中というのは光明波動になっていく訳ですね。
だから、役に立たない生命なんていうのはこの世の中に一つも
ないんです。無駄というものも一つもないんです。
生きるということにしたって死ぬということにしたって時があってね。
我々のこの肉体人間の情から言えばとてもやりきれない色んな出来事
だって、それはやはり選びの時なんですね。向こう側からすれば選びの
時なんです。
そうして皆のことを考えてる。そういう時が与えられる時はね。
だから、ああこれは神様が与えて下すったものなんだなと考えること
ですねえ。それを目指して、世界平和の祈りというものがあり、皆さんの
統一というものがあり、印というものがある。皆離れてるもんじゃ
ないんですよ。
あなた方の祈り心が深くなって、自分を深く省みて、自分の中に、
そうだ神様からの宝物を私たちはいただいているんだなと、そう思える
心になった時に、そう思える心が一瞬間きたら、これはもう大変なこと
ですね。で、それをずっと続けていって下されば、それはもう大変なこと
ですよ。それを出来ないと思っているのが人間ですよ。出来ると思って
いるのが神様です。
宗教というのは、その出来ると思ってる神様の大きな愛念に、我々
全部を預けてしまうことですね。生命もすべてね。投げ出すというのは
大変なことだけど、やってしまえば簡単なんですよ。なかなか情としては
大変だけどね。
やってしまえばと言ったって、出来ないですよ先生とくるかも
わからないけれども、あなた方、祈ってる時は投げ出してるんだよ。
自分たちは分からないけれどね。世界平和の祈りを祈ってる時は、
色んな雑念があろうと何していようと、やっぱり投げ出してるんです。
だから、あなた方は毎日毎日投げ出して、自分をカラッポにする修行を
やっぱりやってるんですよ。気がつかない内にさせていただいてるんです。
だから、任せるということは朗らかになることですよ。神様と一つ
生命になるということですよ。あるいは、神様の愛が私達の中に流れ
ているということを知ることです。
その為に祈りがある。その為に生きる。その為に悩むんです。
すべて無駄な事はないんです。皆必要なんですね。決ってる事
なんです。必定なんです。
だけども、神様というのは宿命じゃない。宿命論者じゃないし
運命論者じゃない。だから、運命修正というものが出来るでしょ。
皆さんの祈りによって出来るでしょう。あるいは、皆さんの愛念に
よって動いていくんですよ。そこに世の中の人々が言う奇跡という
ものも生まれて来るんです。
だから、もうこれは神様事だから神様に任せなければ仕方がないと
いって投げ出してね。投げ出してというのは、放り投げて努力も
しない、ねえ、もうとても私達の力では及びませんといって投げて
しまっちゃあ、こりゃあ駄目なんです。やっぱり祈る。祈って祈って
祈って祈りきったところに光が出てくる。
その時に、例えば生き死にの問題で言えばね、つまり、一人の人に、
生命を向こうにもっていかれるか、まだこっちにいて皆さんの役に
立つか、どちらになるか分からないけれど、祈って光がパァーと来て、
そうして、そうかそれじゃあといって向こうで変更になるかも
わからない。その辺わからないんです。
ただ分かってる事は、どんな風な現われ方をしても、神様と
いうものは絶対に私達一人一人を愛しているということ。憎んだりは
絶対しない。恨んだりも絶対しない。
何故なら、みんな神様の子供なんだから。ね、子供を愛さない親は
いないでしょう。そうでしょう。絶対みんな子供は可愛いいですよ。
その何十倍何千倍、神様というものは一人一人を愛している。今の
あなた方のありのままを愛しているし、あなた方の中に貫いて流れて
いる深い生命というものも愛してるし、あなた方全体の、もう全部を
愛してる。それを引き出して用いようとなすってらっしゃる。だから、
遠慮しちゃあいけないんです。
今、白光真宏会が、あなた方は神の子ですと言ってるけど、それは、
あなた方の中にある神様の深い生命というもの、それを用いていただく
時には遠慮しちゃあいけないということです。それをどう用いて
下さるかは向こうが決めることであって、我々はそこへ導いて下さる
ままに、祈って進んでゆけばいいんです。ただだまって座っていても
構わないんです。任せてしまえば、向こうがきっちりして
下さるんだから。
ただ、我々の中に、性格というものがあるでしょ、気持ちという
ものがありますよ。だから、そんな私なんかとか思うけれども、
そうじゃない。毎日毎日投げ出して祈ってるんだから、カラッポに
なる修行をしているんだから、ある時に、ものすごい大役がくるかも
しれない。ある時に、ものすごい辛いことがくるかもしれない。
いいことも悪いことも来ますよ。その時に、いざという時に、
そうだ神様!と投げ出してね。
今まで投げ出してくる練習をして来ました、だから、どうか用いて
下さい、器にして下さいって祈ってごらんなさい。本当に祈りの光で
いっぱいになるから。
で、呼んで下さる時には、私はどこでも行くんですからね。だから、
呼んで呼んで祈って祈ってね、やって行かなきゃあこの世の中と
いうのは、辛くて辛くてしょうがないんです。
その為に本心も心もあるんですよ。あなた方の中に神の宮があるん
ですよ。神様とつらなってるんですよ。そのことを忘れないでね、
祈ってやって下さい。