自分を役立たせたい、お役に立ちたいという気持ちは、
実に尊いものであります。ありがたいことでありますが、
あまりに、この気持ちに熱をおびさせますと、やはり
我(が)の世界へと引き入れられるのであります。
私達は、余程ここのところをしっかりと見極めねば
なりません。
私達が、お役に立ちたいとおもう時、それは具体的には、
私達の知っている誰かに対してーーということが多い
のであります。たとえば、友達が病気で苦しんでいる、
どこかいい先生はいないかと言う時に、一生懸命世話を
する、また、自分の知っているお医者さんに連れてゆく、
それでようやく治ってみると、自分が思った程には友達が
感謝してくれない。こういうことはよくある話であります。
これはなぜこうなるのかと申しますと、苦しんでいる
友達をみて一生懸命に動いたその時には、お役に立ちたい
という気持ちが、純粋に働いていたわけであります。
むしろ、この気持ちによって、心がもえたということが
いえるかも知れません。
お役に立ちたいという心、愛念が、その人を
突き動かしたわけであります。この時には、ただもう
友達の苦しみが取れればという気持ちだけでありまして、
そのほかには何ものぞんでいないのです。
それで、色々動いて、その結果、元気になってきますと、
本当によかったと思う。ところが、すっかり元気になって、
その友達にお礼はいったのでしょうが、そのお礼の
言い方が、動いた方としては、何かあっさりしていて、
物足りない。そして、物足りなさを感じているうちに、
今度は、自分があれだけ動いてやったのに、友達は
わかっているのかしらという気持ちになってくる。
こうなると、もう「お役に立ちたい」はどこかへ
行ってしまっている。
お役に立ちたいという気持ちは、汚されない、純な
ものであります。この人も、そのはじめには、純な
気持ちから出発したのであります。それがおかしく
なったのは、自分が目の前の友達のために一生懸命
動いたという気持ちにとらわれたからなのであります。
人間というものは、神様の光なのだ、光の一筋なのだ
ということは、つねづね申し上げていることでありますが、
お役に立ちたいという気持ちをじっとみていますと、
それはただ、光が光にむかって働きかけているということ
なのであります。つまり、私達は、具体的には、自分の
知っている誰かを通して、光として動く、光明を発揮
しているということになるのであります。
ですから、お役に立ちたいというのは、本来、誰かの
ために動くとか何とかというようなものではない
のでありまして、それでいいますなら、神様のために、
このいのちを、幾分かでも働かせていただいたという
ことなのであります。
要は、あまり、お役に立ちたいと思いつめず、
ふんわりと、神様にその気持ちを伝えていらっしゃれば、
一番いい方法で、神様が、あなたを使って下さる
ということなのであります。
のんびりと、ふんわりと参りましょう。
世界人類が平和でありますように
合 掌
昌 久
実に尊いものであります。ありがたいことでありますが、
あまりに、この気持ちに熱をおびさせますと、やはり
我(が)の世界へと引き入れられるのであります。
私達は、余程ここのところをしっかりと見極めねば
なりません。
私達が、お役に立ちたいとおもう時、それは具体的には、
私達の知っている誰かに対してーーということが多い
のであります。たとえば、友達が病気で苦しんでいる、
どこかいい先生はいないかと言う時に、一生懸命世話を
する、また、自分の知っているお医者さんに連れてゆく、
それでようやく治ってみると、自分が思った程には友達が
感謝してくれない。こういうことはよくある話であります。
これはなぜこうなるのかと申しますと、苦しんでいる
友達をみて一生懸命に動いたその時には、お役に立ちたい
という気持ちが、純粋に働いていたわけであります。
むしろ、この気持ちによって、心がもえたということが
いえるかも知れません。
お役に立ちたいという心、愛念が、その人を
突き動かしたわけであります。この時には、ただもう
友達の苦しみが取れればという気持ちだけでありまして、
そのほかには何ものぞんでいないのです。
それで、色々動いて、その結果、元気になってきますと、
本当によかったと思う。ところが、すっかり元気になって、
その友達にお礼はいったのでしょうが、そのお礼の
言い方が、動いた方としては、何かあっさりしていて、
物足りない。そして、物足りなさを感じているうちに、
今度は、自分があれだけ動いてやったのに、友達は
わかっているのかしらという気持ちになってくる。
こうなると、もう「お役に立ちたい」はどこかへ
行ってしまっている。
お役に立ちたいという気持ちは、汚されない、純な
ものであります。この人も、そのはじめには、純な
気持ちから出発したのであります。それがおかしく
なったのは、自分が目の前の友達のために一生懸命
動いたという気持ちにとらわれたからなのであります。
人間というものは、神様の光なのだ、光の一筋なのだ
ということは、つねづね申し上げていることでありますが、
お役に立ちたいという気持ちをじっとみていますと、
それはただ、光が光にむかって働きかけているということ
なのであります。つまり、私達は、具体的には、自分の
知っている誰かを通して、光として動く、光明を発揮
しているということになるのであります。
ですから、お役に立ちたいというのは、本来、誰かの
ために動くとか何とかというようなものではない
のでありまして、それでいいますなら、神様のために、
このいのちを、幾分かでも働かせていただいたという
ことなのであります。
要は、あまり、お役に立ちたいと思いつめず、
ふんわりと、神様にその気持ちを伝えていらっしゃれば、
一番いい方法で、神様が、あなたを使って下さる
ということなのであります。
のんびりと、ふんわりと参りましょう。
世界人類が平和でありますように
合 掌
昌 久