わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

短 信(29)

2013-07-26 09:56:58 | 癒し
 〇祈ること
 〇自分を愛し人を愛すること
 〇謙虚であること
 この三つがつねに出来れば、
その人は、光のなかにいます。

 人は、光の世界の住者でありますが、
ますますその光がつよまって参る
ことでしょう。
 このなかで、謙虚であること
というのが、一番むずかしい
のでありますが、とにかく、人間の
いのちもすべて、何一つ自分のものは
ないとおもえば、自分は今、神様から、
いのちを預けていただいているのだ
という気になって参ります。

 人は無一物なのです。そこに、
神様の愛が、光が、いっぱいに
入り込んでいるのであります。

 肉のいのちを養うことは大事
であります。人の心も大事で
ありますが、それ以上に、私どもは
無一物で、この世に生をうけ、光を
受けて、生かしていただいているのだ
という感謝に生きることが、何より
大事なことなのであります。

 この尊い事実に支えられて私どもは
生きているのだということを、心に
つよく刻んで、ともに、世界平和の
祈りをなしつづけて、参りましょう。
           合 掌
             昌 久

短 信(28)

2013-07-25 08:19:48 | 癒し
 御手紙拝見致しました。祈りの同志にとって、
祈りの他に、大切なことがあれば教えて欲しい
という内容の御手紙かと思います。

 世界平和の祈りをする、その次に大事な
ことは、聴くということであります。

 祈りと、聴くことは、実は一体でありまして、
どちらが第一、第二と、順番をつけられる
ものではありません。

 聴くということは、どういうことかというと、
まごころを込めて相手のなかに入る、その
気持ち、その心、そして、その人を生かしめ
ている本心の光と一体となるということ
であります。単に、相手の話している言葉を
聞くのではありません。

 たとえば、私が「あ」といえば、みなさん、
五井先生が「あ」といったということは
わかります。けれども、私がどういう
気持ちで、あるいは、どういう言葉を次に
つなげて、何を話そうとしているかを知ろう
とおもえば、自然、心を集中して、私の出した
言葉のひびきをききとろうとなさるでしょう。

 聴くということは、この言葉のひびきを
感じとることなのであります。

 出された言葉の奥にある、その人自身の
心のひびきをたずねることなのであります。
 そうして、その心のひびきと、きき手
であるあなた自身の心のひびきとが、同化し、
一体となる、つまりは、あなたのいのちと、
その人のいのちとが抱き合うということに
他ならないのであります。

 すべての祈り、ことに、私どもの
世界平和の祈りは、神様が、私ども
一人一人の祈りをとおして、個々のひびきを
感じ取って下さり、無限の愛の光を
流し込んで下さる……そしてまた、光の
シャワーを神様の愛によってそそがれた私達が、
私達自身のなかにみちている神様の光を
放射して、いわば、光と光が交流し合う、
愛と愛、やさしさとやさしさとが交流
し合うのが、世界平和の祈りであり、統一
であるのであります。

 いいかえますと、この祈りをとおして、
神様は、つねに私どもの声を心を聴いて
下さっているということが、ここでいえます。
 私どもは、つねに、神様の愛に抱かれ、
心に抱かれ、聴いていただける幸せのなかに
生きているのであります。

 そこで、私どももまた、心を込めて、聴く
ということが大事なのであります。相手の
表情、表面的な言葉にとらわれず、相手を
そのままに抱くということが大切に
なって参ります。

 祈りというものは、自己をそのままに
投げ出し、光となって、神の心を聴く
ということであります。この祈りによって、
聴くことのよろこびを、十分に知らされて
いる私どもの心は、さらに寛やかになる
ために、(相手を抱くために)やさしさと、
素直さとを、自分自身にたくわえてゆくことが
是非とも必要となってくるのであります。

 神は無限の愛だと申し上げました。その
無限の愛を成り立たせているものは、
神のみこころの朗らかさと私どもに対する
無限のやさしさであります。

 新約聖書のなかに伝道者パウロの
かきましたいくつかの手紙が入って
おりますが、そのなかの一つ「コリント人
への第一の手紙」第十三章は、一般に愛の章
とよばれております。つづめて申しますと、
もし愛がなければ、どんな言葉も行為も、
無に等しいということを、彼はここで
述べているのであります。
 
 この愛とは、やさしさであり、朗らかさ
でありましょう。

 先程、私が述べました素直さへと、これは
まっすぐにつながってゆくものであります。

 いかに社会的な地位があり、また、富が
あり、名声があったと致しましても、神を
求める心において、謙虚さを失った時、
その人の光はにぶるのであります。

 そうして、神を求める心とは、教義に
述べた自分を赦し人を赦し、自分を愛し
人を愛す、ということにほかならない
のであります。

 神は特別な世界、存在ではない。神様を
はなれて、私どものいのちの活きづきは
ゆるされないのであります。この神様は、
かつて、一度も、私どもを離れられたことが
ないのであります。

 ですから、自分に人に、そうして神に素直
ということは、すなわち、人を容れる心、
聴く心と一つであるということが
いえるのであります。

 どうぞやさしい心、素直な心を持って、
自分自身をやわらげ、またつよくし、
そのやさしさと素直さをもって心から
色々の人の話を聴いて下さいますように。

 神様はどこまでもやさしい方でありますから、
あなたも、生き得るかぎりやさしく、言葉に
光をながすように、言葉を粗末に出さず、
言葉の奥にあるひびきをたずねて下さるように
と祈るものであります。

 どうぞ、どこまでもやさしくあって下さい。

 世界人類が平和でありますように
                合 掌
                  昌 久

短 信(27)

2013-07-24 09:50:51 | 癒し
 お手紙拝見致しました。息子さんのこと、
さぞ、ご心配だろうと思います。親であれば、
誰しも、子どもの幸せを願わない親は
ありません。

 特に、自分のいのちにかえても、と
おもうのが、母の愛で、お手紙を拝見
しながら、私は、私の修行時代に、心配
そうにやせ切った私の姿をみつめ、
何とかして、私を、幸せに、平安にして
やりたいという願いにみちた母の面ざしを
おもいだしました。
 わからないながら、私の苦しみを
かわれるならとおもっていてくれた母の愛が、
私をここまで導いてくれたのだと思って
おります。私はあなたの御手紙を拝見
しながら、母の愛と、その愛のはるかなる
光源に思いを馳せたのであります。

 母の愛、また、すべての愛の源は、神の
愛であります。神様は、一人一人を愛しみ、
いつくしんで、決してこれを捨てるという
ことがありません。あなたの息子さんも、
神様の大切な子どもなのであります。

 そこで申し上げますが、決して、言葉を
出しすぎないように、あたたかく、
息子さんを見守り、息子さんの天命を祈る
ということが、まず第一であります。

 子どもというものは、どんなにまごころが
出ているとわかっていても、自分の心を
どうしようもない時、はたから色々
いわれますと、つい反発してしまいがちに
なるものであります。御心配でしょうが、
どうぞ息子さんを生かしているいのちの
すこやかなることを信じ、また、息子さんを
信頼されて、ただ黙ってしずかに見守る
ようになさってごらんなさい。しずかな
こころから、生まれるものは多いと
思われます。

 そうして、すべての心の疲れを、
世界平和の祈りのなかに入れて、日々、
私をよんで下さい。かならず参りましょう。

 祈りは光、そしていのちであります。
 あなたもまた息子さんも、ともに永遠の
祈りであるこの世界平和の祈りのなかに
とけこまれる光でありいのちであります。

 どうかかたく立って、愛深く、御自分に、
息子さんに対して下さいますように。
            合 掌
              昌 久

短 信(26)

2013-07-23 08:21:47 | 癒し
 神様はどこにもいらっしゃるのです。
 かみさま
 大自然のなかにも、あなたの心のなかにも。
 だいしぜん
 あなたのいのちを考えてみて下さい。
            かんが
  この いのちはどこから来たのかと・・・
                
  いのちは神様から来ています。
 あなたが嬉しいと感じる、悲しいと
       うれ
感じる、寂しいと感じる、親切にして
                しんせつ
あげたいと思う。そういう気持ちを
       おも
おつくりになったのは、神様です。
 そうして、神様 という方は、いつも
あなたのなかにいて、 あなたという人を
                       ひと
見守っているとてもやさしい 方なのです。
み まも
 まだ、あなたは、ちいさいから、
よくわからないかもしれないけれど、
神様は、ずっとずっと、あなたの
なかにいて、もういろいろな 所にいて、
                  ところ
あなたのことも、みんなのことも、ニコニコ
しながらみているということだけを
おぼえていて下さい。
 元気でいらっしゃいね。
 げんき
 世界人類が平和でありますように
 せかいじんるい    へいわ
                昌 久
                まさ  ひさ

短 信(25)

2013-07-22 08:52:07 | 癒し
 私は今筆を走らせながら、今度のことを
どうあなたに謝まればいいのかと言葉を
失っています。

 あなたが、今回、受けた傷の深さは、
どういやしても、いやし切れるものではないと、
あなたの心の苦しみを、ひびきのなかで
受けとめて、涙がとまらずにいるのです。 

 あなたが受けた拒絶と、孤独は、私にしか
わからないだろう。
 なぜなら、それは、素直な霊能、霊覚を持ち、
赤児のように神に素直な人が受けた孤独であり、
拒絶だからだ。あなたが、否定されたことは、
私が否定されたことに他ならない。

 けれども、私は、原稿をはじめとして、一連の
この私の声を受け留め、正しく判断し、かつ、
会が、本当の意味で発展してゆくためには、
是非とも、あなたという人を必要としたし、
今も、そして将来にわたって必要としている
ことにかわりはない。それは、ただ単に、現世
での私との、又、会でのつながりというばかり
ではなく、神界を含めた真実の人間世界、
人智から神智へと移りゆく、本当の大調和を
目ざし、また実成を大目標としておられる
神の愛があなたという人を選んだのです。

 世界平和の祈りによって、大分、地球世界の
波がかわったとはいえ、心霊一如、肉の身のまま、
霊人であることを自覚する朗らかな空気へと移行
させるためには、思い切った神界の英断が必要
であったわけなのです。実際、神界の一瞬の
すぎゆきは、地上での二、三年にあたっています。
 だから、あなたの家で錬成会を向こう三年間
開くといっても、こちらでは、それらはすでに
おわって、いくつもの成果が出ているといった
具合なのです。このことは、霊界に自由な
霊身をはこぶことのできるあなたなら、容易に
納得されることでしょう。

 けれども、はがゆいことに、現在は、あの世を
うつしたものでありながら、波動があらいために、
いくつ何十もの業生の波を受けねばなりません。
 およそ、あらわれというものは、それがよい
ことであれ、悪いことであれ、現世で、一つの
かたち、あらわれとなる時には、それにみあう
抵抗を受けるものなのです。
 まして、私が、はっきりしたあらわれ方をした
などということについては、会自体の幾つもの
おもいの枠があり、あなた自身にとっても、私の
ひびきを感受しながら、会と会の方達との間に
たって、どれ程苦しみ、また孤独におちいった
ことかと、真実申しわけなくおもうのです。
 しかし、それでも、人間の真性の目覚めの
ために、人類のかぎりない霊的進化(なぜなら
人間は霊そのものなのですから)のために、私は、
もう一度、地上に呼びかけねばならなかったし、
それを、何のうたがいも迷いもなく、感受
出来るのは、あなたしかいなかったのです。
 いや、今もいないのですよ。でも、つくづく
霊的ということについての孤独の深さを考えると
ため息がでますね。

 それは勿論、どんな賜物も、神様からきている
もので、上下なんかあるはずはないんだけれど、
宗教という、神のみこころを伝え、また体現
してゆく世界では、その教祖や、指導者、
神に仏に、従っていった先覚者は、みんな
すぐれた霊覚を持っていた。現代でも、宗教の
本当の生命ーつまり、人間のいのちが、大神様、
宇宙神のみこころに溶け入って、遂に愛の光の
一筋となる生命を語るためには、こうした
すぐれた霊覚を得た指導者を持っていなければ、
その宗教は、日ならずしてほろんでしまうんだ。

 けれど、こういう霊覚を得ながら、肉の身を
まとい、肉体人間の言葉(不自由な)を
語ることが、どれほど辛く、大変なことかは、
これは、経験した者でなければわからない。

 神のひびきそのままを伝えたい気持ちに
幾度となくかられ、しかし、それはまだ
許されてはいないことなのだ。

 神様は、生命を投げ出した私に、私の悟る
以前の個性を残して下さった。だからこそ、
私はどんな人とも、肉体の私として、気軽に
話ができたし、地球全体、広く宇宙人類のために、
わかりやすく、真理の言葉をその人に合わせて
語ることができた。

 現代という時代には、一時代前の聖者的な
おもかげを色濃くした教祖よりも、およそ、
人間らしい、教祖らしくない教祖が、そして
宗教のくさみのない宗教が求められたわけだ。
 そんななかで神我一体以後の私は、実に
さまざまな人に出会い、神の愛を説きながら、
その一方で真理を直裁に語り切ってしまいたい
気持ちにかられ、孤独になり、そして、その
孤独をいやして下さったものは、ただ神の愛
であったのです。

 だから、あなたがある人を介して、私を訪ね、
大法山の歌の不思議をたずねてきた時、
あなたのなかに、本当にすぐれた霊能を感じ、
同時に、あなたのためにやり切れない思いに
おそわれたことを告白しましょう。この人も私も
おなじような孤独に、苦しめられ、或る意味で、
自分を神に預けながら、ひとりになり切って
ゆかねば、道がひらいてゆかないのかというのが、
その時、私のおもったことであり、私の
およぶ限り、あなたの孤独は、私がいやそうと
瞬間に感じ切ったのでした。

 霊能霊覚を持つ者の孤独は、他人よりもはやく
真理をしらされることであり、そういった事実、
状況を、他人が、徹底的に理解しないという
ところに生まれるのです。

 おなじ肉体身でありながら、そして、おなじ
言葉を交わしながら、霊能を得た人は、神の
言葉を預かる預言者としての役割を、肉の身
と同時に与えられていて、そのことが、その人の
人生を狂わせもし、またかなしみを味わうこと
にもなってゆくのです。これは、本当に不自由な、
理不尽きわまりないことです。しかも、心ある
宗教者は、これを耐え、これをよしとしなければ
なりません。なぜなら、それが、神のみ旨であり、
おおみこころを、地上にあらわすためだからです。

 私は、さっきから霊能霊覚といっていますが、
もとよりこれは、あなたの霊能霊覚を指すのです。
そして、こうしたすぐれた霊能霊覚は、何よりも、
神様に素直な霊覚ということなのです。
 宇宙万法の源である神の愛、千古よりの真理に
つながる霊覚は、神に素直という、ただこの一点
からのみ与えられるものであります。千の知識も、
万の富も、それだけでは、永遠のいのちの流れ、
真実の人間の姿につながるものではありません。
 たとえ、これらのものをすべて失っても神に
つながるまっすぐな道は、素直に神をしたう心、
神を求め、そのみこころが、完全に地上に
あらわれることを祈り求める心なのです。

 神にすなおということは、ただやさしさばかり
では成り立ちません。やさしさの中に、本当の
つよさがつちかわれなければ、そのすなおさは、
みがかれず、又、永続しないのです。神にすなお
ということをつらぬこうとするのは、
この世的には、だから大変至難なこと
なのであります。

 現世に生きる以上、霊要素だけで、人が生きて
ゆける筈はありません。肉体を養うために、
人間は喰べもし、又飲みもしなければ
なりません。
 そしてこの必要最小限の条件を満たすためには、
人は社会の中で、職を得、立場を得なければ
なりません。宇宙神から分かれた神の
分生命(わけいのち)である、本来の人間の
本心本体のかがやきが、こうした日々の必要に
迫られるなかで、いつしか霊波動、精神波動
よりも、物質波動優先となり、業想念が渦まいて、
光の子である真性を失っていったのです。
 こうしたことは、あなたには今更という気も
なくはないのですが、あなたが今、おちいって
いる世界、孤独の世界は、業想念におおわれた
肉体人間の性質、思いグセに他ならないからです。

 あなた方の会といえども、神様の世界、
完全調和の世界からみれば、まだまだ人間の業
というものが、幅をきかせています。在世中、
会員のみならず、会員の家族その他、私の
ところに訴えられる業の波を、私は瞬間瞬間に
世界人類が平和でありますようにという、
祈り言のなかで光にかえ、或いは人類の持つ
想念の波を浄めながら、それでもなお、業の波は、
情ようしゃなく、私に押しよせてくるという
歎きを、詩にうたったことがありました。
 あなたは覚えているでしょうか、勿論、私は、
人間の真性が光であることを識っていますから、
この歎きにとらわれることはありませんでしたが、
それでも、一瞬、深く、その歎きは私をとらえ、
うたわずにはおかない気持ちへと私の心を
駆り立てたのです。

 この人間世界が、人智から神智へとむかう
ためには、肉体を脱いで自在身となった
神界の私と、救世の大光明団に支えられている、
会の二つながらの働きが会長を助け、三位一体の
愛の光として、働かなければならない時期に
さしかかったのです。
 あなたが両者から受けた、いやしようのない
苦しみは、実は私がもし肉体の個我、宗教者、
教えをひらいた者の宿命として、多くの人の
なかで、霊覚のままに語ることを神から許され
なかった私が、人間としての孤独に押し流され、
その禁を破ったとすれば、容易に受けたであろう
苦しみです。

 人は宗教に救いを求めながら、自らの理解を
超えた世界には、実に冷淡なものです。そして、
このうらやましさのなかには、真の霊覚を得た者
に対するうらやましさと、及びがたしと敬して
遠ざける思いと、平凡な肉体人としての感情が
入りまじっています。奇跡がおこる、ありうる
ということを頭のなかでは理解しても、事実
目の前に提出されると、これを拒む頑迷さから、
まだ、人類世界はいくらも脱皮していません。
 そんななかで、世界平和の祈りの大光明に
守られて、宇宙神のみこころ深くまで、祈りの
階段を上ることのできるうちの会の人達は、
まだしも、久遠の神の光をあびているのです。

 祈りが、真理が絶対であればある程、その
真理の相(すがた)に反した姿をみせつけ
られること─これほどのかなしみはありません。
 いくら消えてゆく姿といっても、中々にその
傷がいつまでにいえますよという現世での、軽い
人間同志の口約束のようにはゆかないでしょう。
 なぜなら、その傷を負ったのは、あなたの心
だからです。心というものが、かなしみに
みたされた時、どれほど人に対して、又、社会に
対して、その傷をいやすまで、固く己れを
守り切るかは、私はこれをよくよく知って
いるのです。

 けれどね、あなたの間違っているところが
唯一つだけある、なるほど、接しられた二人に
代表されるやり切れない人間の業というものに、
あなたは沈んで、心を閉ざしているけれども、
あなたの閉ざせる範囲は、人間と、人間が
つくった、社会までではないか、神に対して、
神の永遠の愛とゆるしに対して、あなたは心を
閉ざしたのでしょうか、閉ざすことはできない。
 そうではありませんか。赤児のように純な
神に素直なあなたのたましいを、私は切なく
おもうと同時に、限りなく愛して抱いて
きたのです。今もなお抱いています。
 私のというより、神への赤誠をまれな賜物
として与えられたあなたの天命と、その天命に
対する信頼とは、今度のようなことで、
いささかもゆらぐことはありません。

 会が味わうべき生みの苦しみを、あなたは、
両者からの、もうれつの反発拒絶というかたちで
受けて、消して下さったのです。人を
追いこんでおいてと思うかも知れないけれど。
 会が果たしてゆくべき役割は、まだまだ
大きく深いものがあります。しかし、それも、
神様にすなお、神智にすなおという心があって
はじめて成し遂げられるものであって、
その資格を失えば、会は、この深く大きな働き手
としてのかがやきを失うでしょう。二人の大きな
個人の業生を、あの時消して下さったと同時に、
菩薩業としてのあなたの祈りの使徒としての
天命があらわれたのだと思って下さい。

 私の流れ、働きは、7月にあなたが彼女に
会った時に、自ら断じたように、こういう
具体的な流れは、他にあらわれてはゆきません。
 あなたの天命、彼女たち二人の天命は、
それぞれにちがったものです。
 ちがったものでありながら、この三者は一つの
働きー神のみこころを地上にあらわすということ
において一つなのです。

 統一の中でどうか、私によびかけて下さい。
 神の智恵がつねにあなたを守られますように、
あせる必要はありません。
                  昌 久