WILD THINK

ラテン楽団「Orquesta de WILD THINK」のバンマスが、日々思うことをダブワイズ

震災後の心境

2011年04月23日 | 福島原発事故
中央線から東京を見下ろすと、こうも大都会がひっそりするものかと、落ち着いたり 哀しくなったり 不安になったりする

静かに怯えながら、祈りを捧げているような東京

自分がなにをするべきなのか、
あるいはだったのか、分からなくなる。

東京は、日本は、世界は、かように無駄なものを生産し、消費し、生きていたのか、そして行くのか、と改めて、とても感じる。 中央線の車窓からは。

何をもってして、がんばるのか、ひとつになるのか、分かち合うのか、日本。僕にはよくわからん。
市井の大半は、別に特段がんばるわけでもなく、ただの日常があるのだけど、なんか不安で落ち着かない、けれど、別になにするわけでもない、、そんな状態だと思う。
それは東北と東京の間に福島があるから。

原発も戦争も差別も貧困もなくならならないのは、それでとっても得する人たちがいるから。
相当イカレてないかぎり、大量に人を殺したり、恐怖に落とし入れたりすることが好きな人はいない。
しかし、人の欲望には限りがない。
現代人の欲望は暴走している。福島原発と同様に。

得する人たちは主義主張ではなく損得勘定で結束できて、素早くコンセンサスがとれる。
巨大な投資ができるので、マスメディアを使って都合のいいことが言える。カネで庶民を懐柔することができる

一方、主義主張で動く人達は、意思決定に長い議論が必要で、小事の議論に時間がかかってる間に、裏で大事なことが進み手遅れになる。
しかも、結果まとまらない。
些細な考えの差異で、自らの意思で結束を拒否し、各々勝手な行動をとるので、少数派にしかなりえず、民主主義の原理上、皮肉にも共通の意思が通らない。

仮に統一した意思をまとめるためには、強烈なリーダーシップを持った人が必要だけど、公正な民主主義はそれを拒否する。
また、民主主義は責任の所存をあいまいにする。みんなが主役だから、みんなで決めたことだから、みんなで責任とりましょう、的な。
民主党も自民党も東電も東芝も官僚も社民党も共産党も反原発団体も組織たるものすべからく責任はとらない。
外から中から責任の所存や、責任の範囲や、責任の取り方の議論を繰り返すうちに、責任は拡散され、あいまいになり、時が流れる。そして水に流される。
けど、はたして、今回はほんとに水に流れるのか、いろいろ、と思う。

敗戦以来の敗北。
太平洋戦争では、日本帝国主義が帝国主義に負けた。でも、その後、日本資本主義は勝ち続けた。
しかし、福島原発事故では、日本資本主義が資本主義に負けた。
と思う。

原発を手っ取り早く廃止する方法は、デモでも民主主義でもなく、
天皇が原発をやめたい思いを国民へ伝えることだと思う。ツィート気味に。
戦争をやめたように。
1945以来の玉音放送。
僕はそれがないと日本は原発と手は切れないと思うし、それを願う。無為にただ願う。


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