「魂が自分の生死を決めるという。
しかし魂が本当の自分だなんてとても思えない。
だから魂を恐ろしく感じる。それは当然なことだ。
自分の生死を 誰か知らないものが決めているなんて
恐ろしいじゃないか。」
「とても自分が完全完璧全能だとは思えない。
大自然などに比べれば自分はちっぽけで取るに足らない生き物だと思っている。
自分は不完全で未熟な生き物なので 善意も悪意も両方持った生き物だと思っている。」
今この地球に人間として生きたらこのように感じるのがむしろ当たり前かと思います。死んだら本当の自分が確認ができると知っている人は大変少ないようです。
こういう状態で地球で幸せに生きて行くには荷が重すぎます。
まずもっともっと真実を知りましょう。ほんとうはもっともっと楽に幸せに生きることが出来ることを知ろうではありませんか。
今は魂が本当の自分だとわかっている人はこの地球上で大変に少ないと思われます。それを理解することがこの人生ゲームのゴールですからそう簡単にはいかないかもしれません。ですから今は魂が本当の自分だとわかってなくてもまったく大丈夫です。
なにが大事かと申しますと 「魂はひょっとして自分の友達かもしれない。本当は自分が幸せになるようサポートしてくれているのではないだろうか」と思って自分なりに「試してみる」ことだと思います。試してみるといってもそんなに難しいことではないのです。
魂は私たち人間をもっとも愛していて私たちを生かせてくれている生き物です(意識を持ったエネルギー。この世のものはすべてエネルギーでできています)。それは当然なのです。魂は私たち人間と密接につながっているお蔭で ここで不完全さを体験し そこから再び成長して自分に戻ることをしているのです。その成長していく喜び 自分を知る喜びを味わおうとしているのです。
そのために人間といういわば人工の生き物を創ったのです。
そしてそれに生命を与えたのです。いわばピノキオのストーリーと同じです。
しかし魂自身は自分が直接活動して成長していくのではなく 成長していくプロセスは私たち人間の自由意思に任せているのです。魂の役目は人間の成長を促すような出来事づくりや成長に役立つ情報を受け取らせようとすることくらいです。
ですから人間をもっとも成長させたがっているのは魂といえるのです。魂にはその責任があるのです。それは魂こそがこのシステムを創った張本人だからです。そして直接人間の中に入って活動してもらっている天使たちに対する責任もあります。
私は親鸞が阿弥陀如来が責任を持つのだから任せなさい。ただ念仏を唱えていなさいと言っているのはそのことだと理解しています。
この物質世界は実に不思議な巧妙な仕組みと言えます。
この世に生きている当人が 本当の自分だと自覚している生き物が実は自分ではなくて 本当の自分は別に居て直接触ることもできないなんて・・・。 しかもその本当の自分のことを他人だと思って怖がっている・・・。いわばそんな仕組みを造ってあるのですから。だから人生はゲームであり かくれんぼゲームとも呼ばれる所以(ゆえん)なのだと私は理解しています。
ですので出来るだけ早く魂と友達になって いろいろ力になってもらうべきであると思います。魂もそれを強く望んでいるはずです。それには私たち人間が出来るだけ魂の望む方向に行動し 魂からは生き方のガイダンスを得るという いわば互恵関係を創ることだと思われます。この意味でも「人間というものは一人で生きているのじゃない」のです。いわば魂とのペアであり また天使も含めると3人一体のチームです。よく人間は三位一体(さんみいったい)といわれるのは そのことです。
さらに言えば私たちの身体には直接魂は入っていませんが その魂のエネルギーの一部が 「心」とか「良心」とかいう意識として身体に入っています。松果体という脳内にある部分が魂へのポータル(ゲート)のようです。
これが魂からのガイドとして利用できるようになっています。良心的に行動しようと決めるとき 心に聞いてみようと決意するときなどに知らずに利用しているのです。そのときの情報は魂からのものです。
またなにかに感動するとき涙が自然に出ます。「心」が動かされて魂とつながっている証拠です。感動の涙は心も魂も喜んでいるときのしるしです。人に喜んでもらったときも 良い気持ちになれます。意識が大きくなって肉体の制限から抜け出たような気持ちになるのも あるいはわくわくして気分が晴れやかになるときも心のエネルギーのおかげです。
心を通して ふだん思ったよりも魂とのつながりを持っていることがおわかり頂けると思います。
(続く)
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