人間は愛を体験的に学んで成長しようとしているようです。
それが人生の目的です。そのためには魂に協力するのが一番手っ取り早いと私は考えます。その理由は魂がそれを望んでいるからです。
魂は直接私たちの行動をコントロールはできないので そこんところに気が付いてもらえるように いろんな場面というかシチュエーションをセットするだけです。
ところがこちら側といいますか 自分というものには 自我とかエゴとかいうものがあるため そのときの気分によって協力どころか無視したり反対の態度をとってしまうことが 大変多いようです。
そして結果として痛い目に会っています。
自分の期待通りに生きることがなかなかむつかしく むしろ期待とは逆の展開になる傾向があるからです。私もそこのところが理解できなくて嫌というほど人生を難しくしながら生きていました。
魂に「協力」などというといかにも抵抗したくなります。
魂の姿も見たことがないしピンと来ないからです。でも他人を助けるのなら進んでするという人はけっこう多いのではないでしょうか。あるいは自分を助けるでもいいと思います。
こんな人世なら私はもう結構だ。同じ生きるなら少しでも楽に楽しく生きたい。同じ学ぶなら楽しく学べないのか という人もいるはずです。どう頑張っても人生は魂のガイドなしには スムーズには生きられない仕組みになっているようです。生きづらいのです。だったら魂(あるいは他人でも自分でもいい)を助けるべきだと考えます。
しかも私たち一人一人には魂が付いているのです。こんなすごい贅沢?なことはないのです。利用しない手はないのです。
ほんとうのところはなぜ愛を学ばなければならないのか 理解するまでに相当の数の人生を過ごして学んでいくようです。
私は家内を亡くしたとき 自分が愛というものをほとんど知らなかったことを思い知らされました。
人に親切にしたり 助けたりして喜びを感じたり生きがいを感じる体験 また何よりも最も身近にいる家族や友人に対して感謝し助け合う体験 そういった体験を積み重ねて その輪が次第に広がっていくことが大きな生きる喜びに繋がっていくようです。
でも別の時は基本的に孤独で 自分が愛されない満たされない報われない感じに支配されているようにも感じます。底流にはうつ的な引きこもり的な気分があり もしこの世が適者生存の社会だとしたら 自分にはこの世で生きて行く基本的な能力に欠けるのではないかという不安を感じています。ある程度以上に成長していくと今度はそういう壁に突き当たる運命にあるようです。
なかんずく自分の存在価値がわからない。 自分がなぜ生きているのか 何のためにいきているのか本当のところはよくわからない。不安と心配と疑問を感じながら 生きるための「雑事」に忙しく深く考える暇もなく なんとなく生きているように感じます。
とにかくいつかきっと いいことがあるに違いない 生きていてよかったと感ずるに違いない と明日への希望を捨てないように自分を鼓舞しながら・・・。
しかしそれらすべての原動力ともいうべき 「なぜ生きるか」が確信がないのです。
なぜ生きるか それが確信が持てないから 「どう生きるか」がわからないのが実情です。
私たち人間にはじっさい救いが必要です。 生きるための指針が必要です。それには宇宙の真理を少しでも知ることは必ず助けになると思われます。
それには魂からの助けが必要です。それは魂の仕事でもあるようです。協力するとは助けを求めるということです。
なにごとをするときでも 私はこうすることによって魂への協力をするのだ(あるいは自分が成長するのだ でもよいと思います)と自分に言い聞かせて行動します。それは試行錯誤的に体験してみるということです。
協力する あるいは助けるとコミットする(腹を決める)ことによって人生の展開が変わり始めます。
新しい自分がスタートします。宇宙があなたの名前を呼び始めるからシンクロニシティ―が起き始めるのです。いろいろなことが始動し始めるのを感じることが出来るようになります。
なにごとも試行錯誤です。
(続く)
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