建築・環境計画研究室
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8月23~25日は,2011年度の日本建築学会大会(関東)がありました.
山田あすか研究室の今回の大会での成果は,
昨年度の卒論生(M1生含む)の論文発表とM1生の設計競技「時を編む建築」のプレゼンでした.
論文発表ではみなさん,初めて大学外の各研究内容を専門とされている先生方のご意見やご質問を頂けて大変貴重な経験となったと思います.
自分が行ってきた研究を社会に向けて発表することの意義を実感していただけたのではないかと思います.質疑応答の際にうまく答えられた方も答えられなかった方もいましたが今後に繋がる発表でした.
また,M1生は設計競技会で,佐藤先生と河本先生とともに練り上げてきた作品「復興小学校の再生」のプレゼンの機会を頂き,見事優秀賞を受賞しました.
M1生は設計競技にあたり,初めて6人というグループで1つの作品を作り上げていきました.
そこでグループワークの大変さや各自の役割に責任を持つことの大切さを身を持って学んでいったのではないかと思います.
そして大変ありがたいことにも今回はその作品を高く評価して頂けましたが,グループで1つのものを作り上げていく経験をできたことが一番の成果と感じます.
こうした経験(グループでの共同設計や学会コンペでの受賞)は学生の間に誰しもができることではないことを認識しながら,
これからも,研究と設計に励んでいってほしいと思います.
最後に,古賀はと申しますと,オーガナイズドセッションで「場所の居心地を捉える」というテーマで発表の機会を頂きました.
そこで,障碍児にとっての場所の居心地について発表させて頂きましたが,様々なご意見やご質問をいただくことができ大変勉強になりました.
ありがとうございました.
本年度の学会大会を終え,M1生は忙しく手付かずだった研究にもようやく着手でき始めましたし,4年生はみなさん内容の濃い研究が着実に進んでおります.
来年度の学会大会でのみなさんの活躍に期待を膨らませながら,総括とさせていただきます.
(古賀政好)
06:58 from Keitai Web
今日明日、はじめてのゼミ合宿。楽しみ!!
13:52 from Keitai Web
子育ての駅 千秋 見学待ち。まさかの鬼ごっこ&ダルコロ発動。男性陣は座り込み
by yamadaasukalab on Twitter
芝生は良いよね!! いきなり鬼ごっこをはじめるM1たち
芝生は良いですね!! 続いてなぜかだるまさんがコロンだが始まる
工藤さんMVP.
建築学会の 建築計画部門研究懇談会「建築計画研究の表現にみる今日の主題」で
ご発表とコメントを伺いながら考えたこと..
申し上げる機会はなかったので このへんでこっそりつぶやいてみようかと.
まずは,立ち止まり,自分の研究を振り返る機会をいただいたことに御礼申し上げます.
どうしたものか考えましたが,大変よい機会であったと思います.
こういうことでもない限り,思考の断片も怒濤のような日常に流されていってしまうので..
1.「論文は“作品”か?」という森先生の投げかけについて
論文を作品と思ったことはなかった..
そういう風に思う方もあるんですね(ご発表では,社会学の分野でそのようにおっしゃる方もみえるということでした).
ではなんで“作品”とは思わないのかと考えると,なんでだろう.
“作品”は 主体的な「つくる」が大きいようなイメージがあるからかな?
対する“論文”は,対象をどう切り取り,見せるかは主体的な関わりだけれど,
恣意的操作(つくる)を排除するという大前提はあるはずなので.
主体的操作はOKだけど,恣意的操作はNG.
その違いかな..でも主体性と恣意性の間には,白か黒かの壁ではなくて,
グレーのグラデーションがあるようにも思いますね.
おっと.
そういう意味では作品なのか・・?
うーんと.よく考えると,語弊があるかもしれませんが,「図」や「表」「グラフ」などには
「うおっ,これはもう作品でしょう!!」といっていいものもあるかもしれません.
「このデータを・・このデータを良くまとめたな,この一枚に.これはもう奇跡だ.
もう一度やれと言われても無理だ(再現可能性の低さ:インスピレーションが下りてきて
ピタッと分類できたよ!!とかいう瞬間はやっぱりあったりする)」という
心の叫びとともに完成する図は,意外と“作品”な気もしてしまいますね.言われてみると.
しかし,論文自体はやはり,作品と感じることはありません.
個々のパーツはともあれ,全体を透徹するロジックは,・・うまく言えないですが,
創造的につくったものではなく,あるべきものをあるようにあらしめた結果のような気がします.
さらに言うと,たくさんの論文をもとに,大著を編もうというときには,“作品”と
呼ぶにやぶさかではありません.それはあるべきものを超えた,相当個人が入らないと,
できないモノだと思うからです.
2.控えめな計画者..
計画研究者は,計画する人である必要が,あるのでしょうか.
実践の場をもたない計画研究者はダメだ,結局わかってない! とか
実践しながら計画を研究してきた,計画学創生期の研究者との違いはそこだ,とか
建築計画学と建築計画研究の呼びわけの根本には,建築計画「研究」が「研究」それ自体を
目的になってしまっている部分があるから,イカンのだとか
いろいろ聞くわけですが,
逆に問いかけてみたいのです. 計画研究者は計画者なのですか?
故・宮脇檀先生はご著書で,設計がややこしくなったのは,そして設計者が必要になったのは,
一律の価値観ではなく多様な選択肢が生じたからだとおっしゃっていました.
戦前は,家といえばこういうもの,という概念が,地域や敷地や予算などでもうほぼ
決まってしまうもので,世間的に共有されていて,キッチンはアイランド型でリビングと
スキップフロアでつながるダイニングがあって,とか言い出すお施主さんはいなかった.
お施主さんと棟梁のやりとりは,「いっちょ頼むよ」「ようがす旦那」で済んだ.
という記述がありました.
ちょっとずれて,設計者について考えます.2つの立場で考えてみます.
Aは,「渡辺篤志の建もの探訪」タイプです.
Bは,「大改造!!劇的ビフォーアフター」タイプです.
「建もの探訪」では,お宅の説明は,お施主サンがされます.設計者は顔を見せません.
お施主さんが「ここはこうしたくて~ 設計の人につくっていただきました」とか
説明します.
ホントかい,お施主さんがそんな知識やセンスあるのかな,相当設計者の力量でしょ?
とか思ったりしますが,お施主さんはちゃんと説明できてる.
設計の意図とその意図を実現するための実際的な苦労や工夫を,
まぁもちろん,テレビ番組の枠内くらいの詳しさですが,お話しされてる.
お施主さんが「こう暮らしたい」というヴィジョンをもっていて,それを設計者が
お手伝いして実現したというストーリーです.
「ビフォーアフター」では,自分(たち)のおうちをリフォームするのに,
ご本人たちがどうして欲しいどうしたいという要求を具体的にいろいろ説明したり,
このプランとこのプラン,それぞれこういうメリットデメリットありますが
どちらがいいですかとか聞かれているシーンはありません.
(自分がお金を出す 自分の家なのに)
ご家族が,お風呂が寒いよとか,階段がキツイよとか,動線がめちゃくちゃとか
困っていると,“なんとかの匠”様が出てきて,頼むよ,ヨゴザンス,で
問題を解決する家はこれです,とお披露目会がある.
どうなったか知らないお施主さんは,完成して初めてどうなったかを見知って,
驚いてみせる(演出なのかは知りませんが).「なんということでしょう~」
そこには設計者しかいない.お施主さんはいないわけです.
お施主さんでは説明できない.だって設計に参加してないから.
A「建もの探訪」では,計画者はお施主さんとも言えそう.
設計者は伴走者で,支援者で,ホントのところは計画者.
B「ビフォーアフター」では,計画者は設計者です.
お施主さんは丸投げ一任です.
お施主さんの知識や意欲が,計画者の位置づけを変えるのかなと思います.
お施主さんに「こうしたい」が明確にあれば,その実現のお手伝いをする.
A「建もの探訪」タイプです.
でもお施主さんが,「こうしたい」をわかっていないことや,お施主さんが
本当のお施主さん「利用者」ではないことがあります.施設系の多くはそうです.
そうすると,お施主さんや本当のお施主さんの気持ちや行動をニーズとして
言語化したり,その場にいないお施主さん(未来の利用者を含めて)のニーズを
代弁する人が必要になります.その役割を計画者はできると思います.
選択や実現や言語化のお手伝いや代弁をする.B「ビフォーアフター」タイプです.
気をつけよう,と思うのは,「ビフォーアフター」の匠な位置づけでも,
テレビに出るときには,お施主さんが説明できたら,最高なのになと思うことです.
施設見学に行ったときに,「ここはこうしたかったから.こうしてもらって,
こう使っているの」と,施設長さんとかが明確にお話しされていると,理念と
プログラムと建物がキレイに一致しているなと思います.それが環境づくりだと
思うから嬉しくなります.
逆に,「ここってこうですね,どうしてですか」と聞いたときに,「よくわかんない」と
答えられると..ちょっとさみしい.かみ合ってないんだなって思います.
計画者が全面に出て行って,「うりゃうりゃ!!」とやってしまうと,そういう危険性が
あるんではないかなとも思うのです.
計画研究者が,「経験上,研究上こうこうです」と話す中で,お施主さん自身が計画者として,
「じゃあこうしたら」って設計していけたら,お施主さんが建物を使いながら,完成させたり
改善を続けていけるように思います.
計画研究者です,という立場は,「ビフォーアフター」な匠として全面に登場しながらも,
計画の主体をちょっとゆずって「建もの探訪」スタンスに立つ,
それなりに意味あるポジションとも言えるのではないかと思いますが,いかがでしょうか.
(筆者は両方の番組面白く見てます.それぞれに学ぶところとツッコミどこr ・・面白いです.)
3.建築計画学..建築計画研究..
「いっちょ頼むよ」「ようがす旦那」.
このときは計画学も計画研究もややこしいことはない.
下って,こうしよう!こうするべきだ!!の時代には,「こうするべきだ」を強力に擁護する,
明らかに正しい価値観だと思わせるための,疑うことを許さない骨組が(信仰のように)必要だったでしょう.
それを学問としての建築計画学と,呼んでいるように,聞こえてしまうのですがそうですか?
食寝分離,就寝分離,清汚分離...疑ってません,信じてます.
建築計画研究・は,わたしには,「こういう価値観もあるよ」「こういう実際例もあるよ」といった
部材のように思えます.柱や梁や,壁材です.
研究を寄せ集めても「学」にはならないと思う,と森先生が書かれていますが,
そう思います,部材を選んで,組み立てる必要があると思います.
しかし,いまのところ自分は,建築計画研究を,建築計画学の枠組みの内外をうろつきながら,
していると思っているので,建築計画学を逸脱しているつもりもなかったのですが..
建築計画「学」のパーツを建築計画「研究」と呼ぶ,そのくらいのつもりでいたので
「建築計画研究だけではダメだ,建築計画学を再興しよう」という向きがあるということは,
わたしの認識では甘いということなのでしょうね,
建築計画学の・自分はどこにいて・骨組「学」に対してどう使える部位「研究」をしておるのかと,
明確にせねば「研究」への視野の矮小化が,「学」をつぶすのだということですか.
...勉強になります.学.学ですね.よーし考えてみよう.ガクガク.
大局を見る目は必要ですよね.うん.
4.コメントについて
個人的には,倉方先生のコメント「表現には何らかの主体性が表れるのであって,その着眼点はやはり面白いと思った」
というご発言に,なるほど確かにと思いました.
図も表も文章も自動的には出てこないわけで,主体的な介在は確かに必要だ.
その主体性を認識する必要もある,という投げかけとも思いました.
それは恣意的ではないのか,と.
論文を書いていればどなたでもある程度そうなのではないかと思いますが,何らかの仮説を,つまり論文の狙いを,定めて調査や集計や分析をしますよね.
問題発見型の研究といっても,この対象をこの見方で見れば,なにか出るだろう? という仮説はあるわけで.
論文やなにか政策提言でも,研究成果をまとめる際には,現場で見聞きしてきたとかデータを見ながら「これだ」という狙いがあって,その成果/主張がわかりやすいように,ロジックを組み立てて,「表現」をしますよね?(うちだけでしょうか・・?)
その行為はやはり主体的なのであって,結果が客観的に(ほかの人が)見て合理的であり納得できるものであれば,客観性を有するとして世に出て行けるのだと思いますが,主体の介在を改めてきちんと意識することは重要に思いました.
・研究からわかった,確実に言えることを事実として報告する
・事実をもとにした考察(個人的見解/主張)は,事実とは分けて書く
論文執筆の際にはそういう指導を自分が学生にするわけですが,自分がなにか書いて査読論文として投稿すると,事実と考察の境目がわかりにくいです,と査読者からご指摘受けることもあります.自分ではわかっている(つもりな)ので,自分でわかっていることと,他から見ても確実にわかることが,ないまぜにモヤッとしてしまうという.
自省.
2011年度日本建築学会設計競技 課題「時を編む建築」(2011)
全国優秀賞受賞
(小林陽,前畑薫,堀光瑠,アマングリ・トウリソン,井上美咲,山田飛鳥
指導:河本光正,佐藤裕)
大正12 年9 月1 日 11 時58 分32 秒 大地震発生
死者・行方不明者 105,385 人
全壊109,713 棟,焼失家屋212,353 棟
東京市は甚大な被害を受けた...
その関東大震災の復興事業として「復興小学校」は建設された. 校舎建築のRC 化,公園と一体となった配置計画,特徴ある外観デザインなどは今日も高く評価されている.近年まで中央区には当時の校舎が7 校残っていたが,老朽化や社会ニーズの変化により,そのうち2 校の解体,建替えが進んでいる.現在,残る校舎の今後が注目されている.
未来を担うこどもたちのため,高い理想のもと建設された復興小学校は,経済発展による高層,高密度化の裏で静かに都市の時間から取り残され,また,地域との関係を薄れさせてきた.
本提案では,将来,建替えが検討されている復興小学校「阪本小学校」を題材に,地域の歴史とともに歩んできた建築を継承しながら,現代の学校としてふさわしく再生させる.旧校舎は,公園と一体となり,こどもたちだけでなく多世代の人々が活動する『まちのにわ』となる.周辺環境や人々の暮らしがつながり,新しい時間を紡ぎだす.
復興のシンボル(=“オブジェクト”)として建設された復興小学校は反転し,高密度化した都心の立体的なオープンスペースとして新たなシンボル(=“ヴォイド”)となる.
日常を過ごす「ひと」 静かにたたずむ「建築」 高密度化する「都市」—— 3 つの異なる時間を編み,それぞれの記憶たちをつなぐ.
22:10 from web
研究室M1が取り組んだ,建築学会の設計競技「時を編む建築」 優秀賞いただきました~.おめでとう!!
中央区の,大正の関東大震災からの復興小学校を,リモデルする提案です.
新校舎と旧校舎をつなぐあおぞらテラス.
旧校舎の内観パース.減床で,一体的な空間と,耐震性を獲得した明るくのびやかな空間.
22:11 from web
賞金で祝賀会 乾杯!
22:51 from web (Re: @yamaemi54it)
@yamaemi54it めでたいですね~.最優秀賞でなかったのは,くやしかったようですよ おこがましいとは思いつつもやはり.
22:53 from web
でわたしは 明日の9時に迫った 建築計画研究懇談会「建築計画研究の表現にみる今日の主題」の発表準備・・と・・.コドモたちよ 寝ておくれ(泣)
by yamadaasukalab on Twitter