山田の案山子

日々是吉日

感謝こそが高貴な人間の最後に残されたたった一つの任務である?

2013年08月18日 | 報道・ニュース
曽野綾子「悪人をも赦す、心穏やかな生き方」
   プレジデント社(8月18日)
 1983年10月末から約1カ月をかけ、曽野綾子さんはサハラを縦断。パリを出発して象牙海岸まで走行距離8000kmの旅だ。

 ■不必要な人間は、此の世にひとりも居ない。
 あの人は間違っているから自分が変えてやろう等とは考えない事です。例え其の人の態度や行動が気に入らなくても、其の人にはそうする理由があるのでしょうから。

 若し其の人が如何しても好きになれなければ、嫌いなままでかまいませんから、好きな人にするのと同じように接して下さい。
 聖書にある「あなたの敵を愛しなさい」と云うのは、そう云うふうに解釈すれば好いのです。

 いわゆる草食系と呼ばれる最近の若者の扱いには苦労すると云う話も好く聞きます。確かに20代より、経験を積んだ30代や40代の方が、色々な知識やスキルも備わっている分、会社の中で出来る事は沢山あるでしょう。
 でも、流行のファッションや音楽、パソコンの扱い方等は、おそらく若者の方が好く知っているんですね。

 私自身、若い人と一緒に何かをすると、しばしば何でこんな事も出来ないの」と云う気持ちにさせられる事はあります。
 でも、其れで腹を立てたりはしません。彼等に出来て私には出来無い事は、実は同じくらいある筈だからです。一歩引いて見れば、人間の能力なんてみんな似たり寄ったりです。

 だから、部下を持ったら出来無いところには目をつぶり、彼は何が出来るかを探すのです。「ないものを数えず、あるものを数えよ」、私達信仰者はこう言います。そして、出来る事をやってもらうのです。
 「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(コリントの信徒への手紙(1)12章21節)

 一見何の取り柄もない様な人であっても、必ず何かしら役に立つ部分はあります。聖パウロが、人間の体の各部分に喩えて説明したように、此の世に不必要な人間等ひとりもいないのです。

 好く修道院では、真の聖人は洗濯に居ると言われます。神学をきちんと学んだわけでもなく、ラテン語やギリシャ語なんて頭が悪くて覚えられない。
 修道院の中でいつの間にか洗濯係になって居る。そう云う人のお祈りが得てして一番効くのだと云うから、面白いものです。

 其れから、部下に何か命じる時は、ただ「これをやれ」と云うだけではなく、其の能力や才能を褒め、感謝しながら使うと云う気持ちを忘れない事。
 特に感謝と云うのは人間関係の基本だと私は思っています。これが失われると其処かしこから不満が噴出して、物事は絶対に好い方向には進みません。


 ■中近東を知る為に、教養書として読む。
 「受けるより与える方が幸いである」
 「使徒言行録」にある此の言葉はキリスト教の大原則です。と云っても「人権とは要求するものである」と云う戦後の日教組教育を受けた人には、なかなか理解が難しいのかも知れません。

 でも、私はやはり此の言葉は正しいと思います。受ける事や貰う事を仕事や人生の目的にしてしまうと、何処迄行ってもこれで満足と云う事にならず、常にまだ足りないとい云う気持ちから逃れられない。つまり、こう云う人は、永遠に心の平穏を保てないのです。

 其れに、誰かから1000円貰っても、そんなもの直ぐに忘れてしまいますが、あげた場合は例え1000円でも、ずっと覚えて居るものです。ですから、やはり受けるより与える方が幸いと云うのは本当なのです。

 また、お金を沢山持って居れば其れだけ幸せになれると云う考え方は間違いでしょうね。お金で安心や安全を買う事は出来ても、其れが人生の総てではないのです。

 私がたびたび途上国を訪れると云う話をすると、色々な人から「危なくないですか?」と声をかけられます。

 10年ほど前に、カメルーンの首都ヤウンデから更に600キロ奥地に入った処にあるピグミーの村で、子供の教育に携わっている日本人のシスターを訪ねた時は、現地で兵士を5人雇いました。自動小銃と手榴弾を装備して、2日間かけて目的地に入ったのです。

 こう云う旅が危なくないと言ったら嘘になります。でも、兵士と武器と頑丈な車があればいきなり撃たれっ放しと云う事はないでしょうし、実際に無事帰って来られたのですから、まあ、其の程度の危険だったと云う事です。

 そして、そう云う経験を何度となくして来たからこそ、実に多くの事を私は学ぶ事が出来たのだと思っています。

 安心する為ひたすらお金を増やす事しか頭にないような生き方では、人生は不自由になるばかりです。

 其れに、いくらお金を貯めたところで、生きているうちに「生」を満喫しないとつまらない。聖書にもあるように、富は天に積むのです。

 「其処は、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のある処に、あなたがたの心もあるのだ」(ルカによる福音書 12章33~34節)

 地上に在るものはいつか破壊される。地震と津波ですべてを失うなんて云う事は、もう2000年以上前から考えられていたのです。永遠に残るのは、天に積んだ目に見えない宝だけなのです。

 其れにしても2000年以上も前に書かれたものが、何故この時代でも通用するのでしょう。其れは、愚かで、時には悪を為すと云う人間の本質が変わっていないからです。

 決して正しくないし、直ぐに間違いを犯す。しかしまた、本当に崇高な行為を出来るのも人間なのです。だからこそ聖書を読む資格がある。特に信仰を持たなくてもかまいません。

 もうひとつ、聖書は教養書としても役に立ちます。情報量が少なく、文化や宗教等自分達と隔たりが大きい事もあって、日本人にとって中近東は、理解するのになかなか骨が折れる地域です。

 日本人が中近東の事を正確に知ろうと思うなら、当時ユダヤの民がどういう自然環境の中でどのように暮らして居たかが克明に書かれている『創世記』や『出エジプト記』に勝るテキストはないと思っています。
 こう云うものを読まずに、中近東問題を論ずる事は出来無いんですけどね。



 著者の作品の中には聖書から引用した言葉が多く出て来る。
 平成18年に逮捕され佐世保刑務所内の拘置監に居た時に「失敗と云う人生はない」と云う本を読んだ。

 官本と云って週3冊を選ぶ事が出来た。看守が付添い服役中の図書係が運ぶ箱の中から選ぶので数は少なかったが・・・若い頃はテレビドラマ化された本を好く読んだが、フィクションは何時の頃からか読まなくなった。

 著者の作品をノートに書き取り、今でも手元に在る。
 人間は悲しみの中で真実に出会うものだと思う。人間が神と出会うのも、多くの場合、そう云う時なのである。其れは悲しみの中でこそ、人は本来の人間の心に立ち帰るからなのである。若しかすると悲しさと、寂しさの極みまで落ちなければならないのかも知れない。其の時初めて、私達は傍らに立つ神と会う。其れが成就なのであろう。

 釈放され佐世保から博多迄最終列車で着いたが、翌朝の東京行き新幹線の始発切符を買い博多駅近辺のホテルを探して居る時に、ホテルの宿泊券が在る・・・と男性が声を掛けて来た。

 男性はキリスト教徒で、末日聖徒イエス・キリスト教会の信徒?
 モルモン書と云う聖書を手渡された。断る事も出来ず取り敢えず受け取り2~3度読んだ。

 此の部屋に来て間もない頃にはエホバの塔? だったか? 教会に通う様にと何度も聖書を持って読みに来て居たが、キリスト教徒になる心算は無いと断った。
 聖書は右大腿骨頚部骨折で入院する時に持って出て病院の書棚に置いて来た。其の辺に捨てる事も出来ず、入院中の誰かが興味を持てば其れで好し・・・
 何処かで神に見守られて居るのかも知れない。