なれ合い、妥協無しの本音ブログ

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織田信長は本願寺と比叡山を潰しにかかったが、今の仏教界はどうか

2022-06-10 11:50:24 | 考え方

織田信長が石山本願寺と戦いを始めるのは元亀元年9月12日(1570年10月11日)のこと。約10年戦い続ける。

比叡山焼き討ちは、元亀2年9月12日(1571年9月30日)のこと。どちらも有名な話である。

特に比叡山焼き討ちは女子供の首も撥ねた残酷な戦い方であったとされ、後世からも極悪非道の烙印を押されることになる。仏教側からすれば憎き仏敵ということだが、これは後世の見方であり、そのまま信じると本質を見誤ってしまう。

なぜここまでやったのか。それは仏教界がダメだったからである。

僧兵という言葉があるが、僧侶が武器を所持し戦う準備をしている、しかし実態はその多くが乱暴狼藉を働く、芸者と乱痴気騒ぎをするということが度々行われていた当時。現代の仏教のイメージはまったく違うのだ。

日本を統一しようとしていた織田信長からすれば、腐りきった仏教界にしか見えなかったであろう。

ちなみに比叡山の焼き討ちの提案者は明智光秀ともいわれている。京都「本能寺」で織田信長を討ったとされる明智光秀だが、比叡山焼き討ちでは一番の功労者という評価がある。心優しく、追い込まれて信長を討ったイメージの人が多いと思うが、実態は違うであろう。そのような軟な人物であるはずがない。

出自も幼少期も不透明な人は、様々な手法を使ってのし上がるしかない。厳しい時代にも関わらず、名が残るとはそういう意味である。

比叡山焼き討ち後、領土は信長のものとなるが、居城の安土城から琵琶湖を挟んで対岸に、明智光秀が坂本城にて管理することになる。これは織田信長がさらに仏教勢力に釘をさしたということだ。

ここから見えてくるのは、後の処理はお前に任せるという信長の姿勢であり、光秀を信用していたとしか見えない。

つまり、比叡山焼き討ちで一番働いたのが明智光秀であり、その後光秀が管理することになったと読むのが普通の解釈であろう。光秀領内となったことから今度は一転して鎮静化に入り、保護を大々的に行った光秀というのが事実ではないのだろうか。

そこに政治的駆け引きがあり、それを一方的に光秀美談にしてしまうのは時系列の展開をあまりにも見ておらず、点で評価しているように思えて仕方がない。

なお、比叡山焼き討ちも全土ではなく、一部だけだったという指摘もあることは知っておいてもよいであろう。

さて、信長は当時の絶対的タブーである仏教界に戦をしかけた。どんなに巨大勢力になり、横暴な僧兵がいようとも、一部の僧が酒池肉林を展開しようとも我慢しかない時代に、討ってでた。この勇気は認めるべきである。仏教本来の姿であれば起きなかったことであろうから。

インドで釈迦牟尼によりはじめられた仏教だが、大きく二つに分かれる。いわゆる小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教である。日本には基本的に古代シナ、今の中国で編纂され体系化されていく大乗仏教という流れが入ってくるわけだ。そこには数多くの如来、菩薩、羅漢というような仏が出てくることになる。

対して小乗仏教には仏である仏陀しか存在しない。考えてみれば、誰が保証できるわけでもない数々の如来や菩薩というのと、存在が明確な釈迦牟尼では、小乗仏教の方が本質をついていると考える。

日本で大きな勢力を持っている宗教団体に「創価学会」がある。日蓮正宗であるが歴史を見てみると、そもそも創価学会という信者団体が宗教法人を取得して行ったことそのものがおかしい。また、ご本尊模刻その他、数々の問題を起こして寺側から破門されたのが創価学会。その後は醜い訴訟合戦である。

日蓮とは鎌倉時代の有名な日蓮上人であるが、日蓮は法華経の地涌の菩薩を自認しており、あくまでも仏陀の弟子の1人。法華経が弘通(広める)されるときに湧いて出てくる地涌の菩薩であると自らを認めていた。

つまり彼自らが自分を根本仏や根本神ではないとしていることで、巷の日蓮正宗に対する全ての答えが出てくるだろう。

さらに触れておけば、法華経がまとまりだすのは釈迦没後であり、紀元後に成立した創作経典ということが明らかになっている。釈迦は約2600年前の人物であり、紀元後とは6百年も後のこと。この辺りもキリスト教の聖書と似ている。もちろん仏典、聖書ともに釈迦やイエスが編纂させたものではない。

ついでに触れればキリスト教では、日本人が知っているのは西方キリスト教で、イタリアやフランスで見られるなじみ深いキリスト教。ある意味大乗仏教の姿に似ている。

しかし本質に触れているのは東方キリスト教で、ルーマニアやブルガリアなどの正教でありこちらは小乗仏教に流れが似ていると見ても良い。華美なことをさけ、本来の姿でいようとしているからだ。

日本人の多く、いや西方キリスト教徒の多くがイメージするイエスは金髪で白人だが、その印象そのものが決定的に間違っていることに多くの人は疑問すら持たない。

イエス誕生の地ベツレヘムであり、聖地エルサレムの南10キロとなっているが2000年前のこの辺りに白人が多数いたはずがない。大事なイエスやマリアのイメージさえ全く変えられていることで、それではその教えがどうなのかと、疑問を持たないのであろうか。

釈迦は生まれてすぐに天地を指差し「天上天下唯我独尊」と言ったという話があるが、これを信じている日本人は皆無であろう。では、イエスの生誕は?

法華経であるがシナ大陸において天台智顗が釈迦の最終的な教えで最も重要な経典としているが、これはまだまだ経典の歴史的解釈が無い時代の話。今では紀元後の創作経典ということが分かっているからだ。

つまり、鎌倉時代の日蓮がこれこそ本物と信じても無理はないのだ。時代を考えれば日蓮に罪は無い(激しい他宗排撃はやりすぎだったが)が、今の人が日蓮こそ根本仏である、あるいは天照大御神の上位神であるというような解釈は全て間違っている。

人は自分に都合のよい情報だけを集めてさらに凝り固まっていき、違う意見や情報は徹底的に排除することを繰り返すのでなかなか受け入れられない。だから前から書いているように、イデオロギー発想を含め、特定の立場でいれば視野が狭くなり、排他的になるのは当然。

イデオロギー発想から抜けられない人と、熱烈な一部の新興宗教信者は実にそっくりである。ついでに言えば、Qアノンを信じ込んだ陰謀論者もそっくりである。皆、対象が違うだけで聞く耳を持たない閉鎖的思考法は全部似ている。

小生は世の中、陰謀でしか成り立っていないと考えているが、それでもQアノン系統は異常としか考えていない。

どこかに属し熱烈に支持するとは必ず敵対する存在が生まれる。こういうことが日本国内はもちろんのこと、世界は絶対に一つになれず、戦争は今後も続く理由の一つである。

左翼側が軍備反対と言えば言うほど、逆に戦争は絶対に無くならない皮肉に気が付いて欲しいものである。その偏った考えこそが戦争を呼び込むことに気が付かない。

ではここから、特定の宗教や宗教団体ではなく日本の仏教全般に触れていく。

ミャンマーやタイ、ラオスなどの小乗仏教でも葬式は行われるが、法要は行いたい側がお寺に申し込むときのみ。日本の様に何回忌というのは存在しない。

今を生きる人間の結婚披露宴は通常1度だが、故人をとてつもなく長い間法要するのは仏教の根本からして間違っている。この世を離れたのだから何度も呼び戻し、執着させてはいけない。

お寺と遺族側に仲介業者は存在しない。〇〇葬儀社というものがない。直接お寺や遺体の運搬を業者に頼む。

戒名は無い。

少し触れただけでも決定的に違うことがわかる。

さらに触れていけば、例えば小乗仏教のタイでは、信仰の対象は釈迦牟尼(仏陀)のみであるが、僧侶は仏陀側に座り、参列者の方を仏陀と同じ視点で向いている。

仏教には三宝という考えがあり「仏法僧」は等しく尊いとされている。三宝は日本でも知られていることだ。それならば僧侶が仏陀側にあり参列者を向くのは正しいことになる。

日本の仏事で感じていたことだが、葬儀にしてもなぜ僧侶は本尊を向いて読経するのかまったく意味が分からない。

皆さんは宗派超越の経典「般若心経」の意味を調べたことがあるだろうか?

内容はあくまでも釈迦が生きている弟子に対し、どう生きるべきか、どう考えるべきかを教えたものである。

仏教は本来、死者のためのものではない。自らを振り返り、行いを正し、精進していく教えが仏教である。正しい思いと行いがあれば、やがて悟りを得られ平安になるということだ。

しかるに僧侶が本尊を向いているとは、まるで本尊に向かって読経という説法をしているようにしか見えない。誰のための読経なのだ。読経は故人と参列者に向けた教えでなければいけないのだ。だからタイのように僧侶が参列者に向かって読経することこそ正しいはずである。

任意でしかない法要では、故人を示すものとして写真が飾られることがあるが、それはあくまでも僧侶と参列者の間であり、仏の側ではない。写真が無ければ俗世の氏名であり、戒名は存在しない。

小乗仏教において戒名は存在しないと書いたが、こちらもそもそも日本の様に死ねば皆仏というのが本来の仏教ではない。生前の行いにおいてその後の道が決まるのであり、高額の布施をすればするほど良い戒名が与えられるとは、そこらの奇怪な新興宗教と本質はまったく変わっていない。伝統仏教こそすでに危ない集金方法を使っているのである。

また、仏教界で〇〇祈願のようなことをしているのは全て違う。なぜなら仏教は因果応報の宗教観だからだ。個人の状況は困った時に祈願する、欲望達成のために祈願する程度で変わるものではない。

その状況こそ自らが作りだしたのであり、まず原因は自分にあると考え、その結果が今展開していることだと考えるのだ。だからこそそこから、自らの間違いを正すという発想に繋がれる。

〇〇祈願はこの仏教の本質を全部破壊しているのである。繰り返すが仏教を名乗り、〇〇祈願というのは全部間違っている。

さらには宗派によっては、これがあれば救われるというものがあるが、ルターが批判した免罪符(贖宥符)と何ら変わらないことをしているのに気が付くべきである。つまり、全部偽物なのだ。

ちなみに神道の祈願は、古代シナの道教の流れを汲んでいることを重々認識しておいたほうが良い。神道といえば何でも古来の日本よりと思考停止する人が多すぎる。そのほとんどが道教の、表現は悪いがパクリである。

そういうお前はどうなのかとなれば、当方の考え方はまさに宮本武蔵と同じである。

「神仏は尊べどこれを頼らず」

だから占いの類も一切やらず、自分で道を開くことこそ、この世に生まれた意味であると考えている。そして最後は散骨してもらって終わりである。ミャンマー仏教のように墓は不要。現代人が墓じまいで苦労している姿は、なんとも異様に思えてならない。あるいは放置。

正直、占いをして何になるというのだろうか。ノストラダムスの予言のように、解釈でどうにでもなる抽象的なことを並べらえても無意味であるし、他人に頼って先を知りたいという状態そのものが自分の人生を生きていない。自分の人生を「当たるも八卦当たらぬも八卦」にゆだねることこそ、己を信じず、歪んだ方向に自らを導く行為でしかないのでは。

自分の人生、自分自身が生きなくて何のために生まれてきたのだろうか。

現代日本の仏教界。何もかも違うとみえて仕方がない。そこにいる人たちは今一度、襟を正し冠婚葬祭仏教から抜け出さねばならない。現代に織田信長は出ないだろうが、実はそれはよいことではなく結局自ら衰退していくのみである。

自分は職業僧侶に堕してしまっていないだろうかと振り返ることは重要であろう。

さらに広く言えば、政治屋や教育界に巣くう職業先生、患者よりも儲け優先の先生と呼ばれてふんぞり返っている医者や医療従事者も、自らの立ち位置を考えねばならないはずではないだろうか。

本来人を導くべき存在が宗教人である。宗教界が立ち上がり、日本の闇にメスを入れ、あるべき姿に変えていかねばウソであろう。

人を導かず、非課税に隠れて現世を満喫しているようでは、宗教の資格は無い。



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