なれ合い、妥協無しの本音ブログ

右、左、自称保守のどの立場にも属さないで自由に書く。時事、歴史をイデオロギー発想ではなく発信、コメント不要

なぜ、日本は成長できなくなったのか。それは失敗を恐れる人だらけだからである。

2022-06-17 10:44:10 | 考え方

アジアを旅していると、日本で失われた寛容さをあちらこちらで感じることがある。日本では想像すら難しい徹底した格差社会になっている様々なアジアの国。しかしそれでも寛容さを持ち合わせ、ゆったりとした時間で生きている人たちを多く見かける。

世界を知らずに日本はいい、日本は素晴らしいという人は、あまりに狭い視点でしかない。かつて日本にあった美しさ、良さを残している地域が世界には存在している。

今の日本は皆が三面記事、ゴシップ大好きに堕してしまい、ちょっとしたことも大騒ぎし、少しのミスや失敗も厳罰にでも処したいほどくるってしまっている。

コンプライアンスの意味を理解せずに乱用し、何も言えない、出来ない社会構造にまっしぐら。いくらこれが外国から仕掛けられたこととはいえ、まるで奴隷のように受け入れて、やがては自分たちのものにして喜んで自滅していく様子は、愚かという言葉では表現できないだけ腐っている。

寛容さが無くなった日本では、何もかも縛りたがる。同時に、まるで悪しき相互監視社会になってしまった。

色々なことは経験であると思えなくなった多くの大人たち。口では言うが行動は真逆である。「可愛い子には絶対に旅をさせない」社会は縮小しかない。

例えば、小さな子供は歩いていて転ぶもの。それが危ないからと先回りして保護ばかりしていれば、結局子供の成長は遅くなる。体で覚えることを数多く経験させなければ、人との距離感やいざという時にどうあるべきかという発想が生まれにくいのは当然である。

アジアの場所によっては、今でも裸足で外を歩く人を多く見かける。そこは林の中だというところでも、子供が裸足で平気で歩いている。昔の日本もそうだったわけだ。人はもともと、環境に適応していく強い存在なのだ。

昔、企業で働いていたことがあるが、更衣室でのできごと。自分のロッカーの前のスノコに何かの拍子に一時的に靴で上がったことがあった。それをたまたま見た年配者が即座に怒鳴ってきた。

「何をしているんだ、汚いじゃないか!」

そんなに大げさなことか?とあきれた記憶がある。アメリカ映画でも見ようものならベッドの上まで靴を履いたままの人がいるわけだが、そういう人は発狂するから見ないのだろう。

外を裸足で歩いても滅多に大事にはならない。ましてや靴でスノコの上を一時的に歩くくらい、何が問題なのかまったく分からない。玄関を出て鍵をかけてから忘れ物を思い出すことがある。鍵を開け靴のまま居間に入ることがあるが、その程度のことで大騒ぎになる理由が全く分からない。

昔、中国に仕事で赴任していたことがある。休日に外を散策していたとき、リアカーにたくさんのスイカを乗せた人が商売をしていた。周辺には客が食い散らかした皮が散乱していた。そこに一人の老婆がいることに気が付いた。その老婆は、誰かが捨てた皮を広い、水たまりで洗ってから食べだした。

多少のものを口にしても人は死なない。お腹が痛くなってもそれは経験の一つ。

安全に安全に、きれいにきれいに。そして免疫力の低い子供が成長を続け、弱い人として大人になるわけだ。

昭和の日本で当たり前だったことが、今やすべて不衛生になっている。その割に病気が増える一方なのはなぜか、よくよく考えてみたらいい。全て商売の為、理屈をつけているだけなのだ。全員がカモである。

日本は大東亜戦争で敗戦している。ちなみに日本側の立場は大東亜戦争であり、第二次世界大戦でも、ましてや太平洋戦争でもない。

歴史の次いでであるが、中華人民共和国は1949年からであり、そこに数千年の歴史など存在しない。国名を略して中国というのはまだ分かる。しかしそれ以前の特に歴史的な意味を込めてシナと言えばダメだというのはあまりに頭が悪い。

英語のChina、チャイナはつまりチナ、シナを意味している。英語が良くて日本語でシナと言えば差別用語になるのは発想が完全に崩壊していると言える。

そのチャイナは日本に戦争で勝った気になりたいのか、それとも負けた悔しさが忘れられないのかずっと捏造反日を続けている。そういうこともマスコミが報道したら知り、報道が無ければ無関心という人は、何のことは無いマスコミに操られているだけだとそろそろ自覚してはいかがだろうか。

ロシア、ウクライナは交戦状態にあるのは確かだ。しかしウイグル、チベットへの中国の侵略は解決したのか。香港での弾圧は無くなったのか。さらに広げればミャンマーでの国軍の暴力は解決したのか。報道があるか無いかではなく、世界の現実というのは常に争い、侵略、暴力の中にしか無い。

話を戻し、日本は大東亜戦争で敗戦した。そう敗戦である。これを終戦と言い換えるのは極めて悪しきことであろう。負けは負けだ。

なぜ今の日本がこんなにもばかげた状態になっているのかは、敗戦が大きな理由の一つなのだ。単に負けただけではなく、巨大な嘘をやったのが日本である。

戦時中、大本営は事実を公表せず、隠し続けた。マスコミは大本営に加担し、嘘の情勢を流し続け国民は騙され続けた。しかしそれでも気が付く可能性はあった。それが言葉を創作しだしたことにある。そこで何か変だぞと気が付く人はいたが、大勢は考えることをしないのでどんどんと悪化した。

負けて逃げたことを「転戦」といった。こうして言葉で誤魔化し、結局手を打たないこと現代に通じる姿勢は戦時中に確立していったのである。

今でも政治屋は、善処する、配慮する、前向きに検討する、不徳の致すところ、遺憾であると言葉を並べるが、全てその場限りの舌の動きで本質的な対応は一切せず、時間が流れて忘れられることだけを待つ。

最もらしい言葉を並べて取り繕い、実際は行動せず何も変えない連中は、ずばり悪魔の側であることを覚えておくべきであろう。

戦争で日本は負けた。なぜ、負けたのか。それを現代人はどれだけの人が本気で、正面から受け止め、学びに変えていったであろうか。ほぼやっていない。

犠牲だけを前面に出す左翼、負けにもかかわらず軍事美談を流し続ける保守から右側。だからいつまでたっても何も学んでおらず、議論にさえならない時間の浪費を繰り返しているのが日本である。

負けという失敗を正面からとらえ、その理由を様々に考えて学ぶことが大事のはずである。しかし戦後は目を背けることばかりであった。右も左も所詮、命令により命を散らした人たちのことを本気で考えていない。

左右という立場に自分はあまり深くは属さないと思っている人たちは、「見ざる聞かざる言わざる」を続ける人が多数いる。知らない振りをしても起きたことが消えることは無い。それなら正面から考えるべきではないのだろうか。しかしずっと知らない振り、気づいていない振りを続ける。

そしてイデオロギー発想の人たちも、別の意見から学んだらどうだ。確かにそれが出来ない全体主義者だからいつまでも歪んだ視点であろうが、戦争について話すなら、自分は本気だというのなら違う態度がある。

本気なら自らのくだらないこだわりを排除し、そこから様々な形で学ばなければいけないのに、批判か美談かの極端しかないのは、結局立場に終始して先人が犠牲となった命から学ぶ姿勢は無い。

日本人はとにかく極端にぶれる国民性がある。右側だった戦時中から極端な左の戦後へ。何でも極端にぶれてしまい、ほどほどが分からない。一か八か、ダメなら止めるだけで、中間というもの、ほどほどが分からない。グレーということが発揮できるのは責任逃れするときの不透明さだけである。

例えば事件の容疑者が検挙されたとしよう。裁判が終わり有罪となるまで犯人ではない。つまりグレーでしかない。しかし逮捕=犯人という気味の悪い発想から抜けられないマスコミと洗脳された国民は絶対に理解できない。後で冤罪だったとなっても、極めて小さい扱いでその頃には誰も興味さえ持っていない。衆愚の典型である。

敗戦という大失敗をしたのに学ばない日本人だが、その傾向は時間の流れで悪化していく。

どこもかしこも為さぬことの罪を考えず、踏襲主義、自己保身、責任転嫁、そしてちょっとしたことでも問題があれば、大合唱して責任の追及である。こんな国が良くなるはずは無い。

人は経験して大きくなり、その経験を生かして学んだ知識と結び付け、次につなげねばならない。しかし恐れてばかり、責任追及を逃れるために為さぬことだらけでは、どうやって大きくなれるというのだ。

言い逃れ名人が数多く出れば出るほど、悪化の証拠でしかない。

企業はどんどんと小さくなり、誰も責任を取らない。普段は縦社会を振りかざし偉そうにしている高給取りたちだが、いざとなると集団責任に隠れ、時間が過ぎるのを首を引っ込めて待つだけである。

海外で日本のニュースを見ているとき、周囲の外国人にいうことがある。

「この会社は不祥事を起こして記者会見するが、三人が出てきて謝罪するから見ていて」

その通り、三人が出てきて頭を下げる。人数が多ければいかにも謝っていると受け止めてもらえると思っているのか、一人が怖いのか、集団に隠れたいのか、なんなのだこの器の小さな経営陣たちは。

間違いは間違い、失敗は失敗、状況を説明する場なのに、どの企業もいつも三人。形式主義を続けているようでは本当の謝罪も反省もそこには無い。

政治は口だけ批判の野党と、何かあっても誤魔化しだらけの与党。大本営の転進よりも悪化し、統計データを調整してまで自己正当化できる今の様子は末期状態である。

失敗を恐れ、小さな失敗が見つかれば鬼の首を取ったように大騒ぎするマスコミとゴシップ大好き国民。自分の誤魔化しや嘘を棚に上げ、よくも他人のプライベートやどうでもいいことで大騒ぎできるものである。

そして今の日本人とは、問題があれば問題解決よりも、そのものを止めてしまう意気地のない多くの日本人。どこかの公園で子供が怪我をしたとなれば、その遊具は使用禁止。下手をすれば水平展開して存在そのものが消されている。

今の公園にジャングルジムはあるのだろうか?

そして、何事も考えた結果だととってつけた理由を並べ、やらねば分からないことでも挑戦することもしなくなった。責任問題になることの撤収は秒殺で素早く、次に繋げることからは逃げてしまう。

戦後、なぜ多くの日本企業が世界で戦えたのか。それは挑戦したからである。焦土からの復興で、これ以上失うものは無いからこそ、前に進むことに力を注いだ。失敗を繰り返しても前に進むことを選んだのだ。

GHQに始まり、その後も米国から圧力を受け続けようとも企業は独自の道を、自分たちを信じて、何度も失敗を繰り返しながらも進んだのである。そこから奇跡的な経済の成功を手にすることが出来た。そのブランド力は諸外国からは脅威か、憧れであった。それだけ存在感があったのだ。

しかし今の日本はもうその片鱗さえない。

学校からして、友達と仲良くすることだらけにしか見えない。そもそも友達が必要だとか、友達が多くいることが大事という気味の悪い価値観こそ狂っている。一人になれない奴はまずもって、弱い、それだけのことだがそれを極端に恐れさせることを生徒に教えているのではないだろうか。

自主性と言いながら、個性と言いながら、いざ本当に個性的で我が道を行く生徒が出てきたとしたら、よってたかって矯正と洗脳であろう。とにかく均一、昔風に言えば金太郎飴が大好きなのである。

その大きな理由の一つが、責任を取りたくない職業先生だらけだからだ。

教育委員会も同様で責任の回避しか感じられない。もはや文化財保護を除いて存在価値は無い。

大人が見せる偽善姿勢や誤魔化しを生徒の目の前でやっているのに、口では個性だとか友達という。だからそれを見抜く鋭い、つまり個性的な生徒が潰されていくのだ。多くの生徒は洗脳されて思考停止となっていく。

そして大人になっても就職が困難なこの時代で、学卒で挫折を味わう。レールに乗った上級国民には分からない世の中の多くの人の現実である。

組織に入っても、横社会の様に見えながら極端なまでの縦社会が会社というものである。公務員の世界も同様だ。そして上役は自分の責任にならないように部下を育て、手柄だけは出世のために欲しいという構造がどこにでも転がっている。

「実るほど頭が下がる稲穂かな」も死語の部類であろう。日本で偉くなるとは、金は上がるが徹底して責任逃れが出来る構造ということに近い。頭をたれず、謙虚さが無く、己の利権に酔いしれている連中だらけで国が良くなるはずはないではないか。

日本は望まないにも関わらず、戦争状態となり、そして敗戦。その後アメリカの属国に堕してしまった。それでも先人たちは失敗を繰り返し、努力を繰り返して日本を盛り返していった。

今の日本はその歴史を食い漁り、小分けをしておこぼれにあずかることしか考えない連中は、失敗を責任を恐れ、逃げ隠れをモットーとして生きてきた。

日本が再び立ち上がる日は来るか。無理である。

研究機関も予算が取れない。失敗からしか次は生まれない研究なのに、結果が出ないからと予算が出ない国は没落しかない。

そして、世界的な価値観は他国に完全に握られている。日本の得意分野だった細かな技術も、もはや外国資本に買われるのが当然となってしまっている。

長い年月をかけて築いたものが、あっという間に金で買い取られている。そこに手を打つどころか加速させる政府と止められない野党。中にはそれこそ善であると信じている政治屋も多数いることだろう。

企業は失敗を恐れ、経験を積ませず、身の安泰だけを考える老害の巣窟となり、それだけでなく外国資本に主要な株を持たれ、利益の多くの海外に吸い取られるシステムになってしまった。

少なくても個人として、失敗から学び次に繋げるという人とのみ、関りを持っていく。



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