TaizanのWhite Mountain

北部白山管理人&中宮温泉くろゆり館主がお届けする白山情報満載!

山の法話23 八大人覚(はちだいにんがく)

2023-03-06 | 山の法話

先日、夕日に紅く染まる白山の写真を撮りたいと思い立ち加越国境の山に出かけました。

夕日が西に沈みかけると最後の輝きを放つかのように、白山が紅く染まり、辺りは一気に冷え込み暗闇が訪れます。寒さに耐えきれず今夜の寝床となるテントに入り寝袋に包まります。

夜中にテントから這い出してみると、下界には明々とした街の光が綺麗に輝いています。嗚呼、この一つひとつの灯りの中に暖かな人々の暮らしが有るのだなあ。と思うと同時に今宵の私の寝床を暖めるのは私が吐く息のみである事を自覚し、身震いしてまたすごすごと寝袋に包まり朝を待ったのです。

仏遺教経には八大人覚と言って、禅の求める悟りに近づくため次の8つの目標が説かれています。1小欲(欲を少なく)、2知足(これで十分で有る事を知り)、3寂静(喧噪を離れて)、4精進(努力を続けて)、5不忘念(ブレない心で)、6禅定(心を落ち着けて)、7智慧(物事を正しく判断し)、8不戯論(無駄口を叩かない)

どの道を極めるのも並大抵の努力ではその境涯にはたどり着けないでしょう。ふと迷った時、道を見失いかけた時、山登りで過ごす時間は、八大人覚を体験できて次に踏み出す助けになるかも知れません。

 

 


山の法話22 山岳信仰と登拝

2022-12-09 | 山の法話

12月に入り北日本を中心に寒気が下りてきています。上志比と勝山の境である藤巻白山伏拝からも多くの積雪が有ったように遙拝できます。青空に雪をまとう白山は、威風堂々としてひときわ大きくその存在感が強調されています。12/9は山祭りの日です。この山に精霊が宿るという考え方は、自然発生的に生まれた原始宗教で、日本だけに限った事ではありません。以前ラップランド先住民サーメの友人も、木には木の精霊、石には石の精霊、何にでも神様がいて、いつも自分たちの事を見ている。と言っていました。

原生自然のままの姿を残す山岳地帯は信仰の対象で、日本では古来より「高嶺には神が宿る。」という考え方があります。これは中国の六朝時代に生まれた神仙思想に影響されていて、山岳信仰が仏教と融合し発展する際に、山を御神体と考えていた事から、主峰に「大日」「薬師」「釈迦」など、仏様の名が付けられた例が多く見受けられます。また、山頂への登拝道上に立ちはだかる幾つもの峰々にも信仰に関連する山名が残っています。山名に留まらず、美しい高山植物が咲き乱れる所を極楽に例えて「弥陀ヶ原」や「浄土ヶ原」。グツグツと温泉やガスの噴出している渓谷を「地獄谷」とか「餓鬼谷」などと呼んだりしています。登山口から、山頂のご本尊にたどり着くまでに地獄や極楽を垣間見て、遂には禅定を成すという登拝を通しての体験は、まさに人生そのものを演出していると考えられて来たのだろう思います。今も昔も山は自然のテーマパークとして人を引き付け続けていると言えるでしょう。山に畏敬の念を持つことは昔から自然であり、それに逆らう行為には代償が払われると言うことを肝に銘じておかなければ成りません。


山の法話21 夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡~芭蕉~

2022-09-18 | 山の法話

今年は梅雨明けが特定出来ないという気象庁の発表通り、高温多湿状態が続き、2,000mの高山帯の9月でさえ、まだブヨが発生して痒い思いをしている。そういえば未だ赤とんぼの集団も里に下りずに群れ飛んでおり、近年の気候の変化で高山帯の環境も大きく変化したと感じている。多種多様な花を咲かせている高山植物の玉手箱であるお花松原を例に取ると、最近目立つのがオンタデ、ベニバナイチゴ、イネ科(コメススキ?)である。

例えばイネ科の植物は登山道に繁茂し足下にまとわりつくばかりか、チングルマやアオノツガザクラの群落の下から葉を出して来ていて、やがて花畑を包み込んでゆくだろう。

ベニバナイチゴは勢力が強く上の写真のようにアオノツガザクラやチングルマに覆い被さり、下からはイネ科(コメススキ?)が伸びて来て、高山植物の群落を挟み打ちで駆逐している。

オンタデは9月上旬に葉が枯れ始めるので、この時期見つけやすい。かつてクロユリの群落も今はオンタデ畑に置き換わってる。

産業革命から僅か200年足らず、人類は急速に滅亡に向かっているのにも関わらず、国境のいざこざは次々と起こり、無駄なエネルギーの放出を止めようとするどころか、尚更勢いを増して火花を散らしている。

現代において、芭蕉が想いを馳せた兵(つはもの)を人類と読み替えると分かり易い。この植物たちは環境変化に対応し領分を譲り合っているが、人類はこの営みに学ぶ事が出来ないで居る。


山の法話20 閑古錐

2022-05-09 | 山の法話

本日、還暦を迎えました。過去は捨てて、新しく産まれ代わり、第二の人生の出発です。過去の栄光にしがみつくことなく、全てを新しい考え方で迎える準備は出来ていると覚悟しています。過去は捨てると申しましても、白山の登山道管理に費やしたノウハウは引き継いで行こうと思います。次に目指すはいよいよ「閑古錐」の境地です。これからは登山道整備での出来事など、微塵も感じられないような快適な登山道に仕上げて参りたいと思います。管理人はあくまでも黒子に徹する。登山道の主役は登山者です。白山の登山道情報は山アプリをご覧頂ければ情報が溢れています。よほど登山者の安全を脅かすような事があればまたこの場で情報提供をさせていただければ幸いです。登山者の皆様に於かれましても、白山各所をくまなく楽しんでいただければと存じます。


山の法話19 穏やかな地球環境と世界平和を祈る~人類は皆平等

2022-03-26 | 山の法話

加賀禅定道ハライ谷登山口から檜新宮に初詣を済ませ、百四丈氷の滝壺を遙拝す。穏やかな地球環境と世界の平和を祈る。この自然の前に人類は誰しも皆平等であります。人はこの大自然に抱かれて暮らして居るのです。それを侵す権利は誰にも有りません。

山行記録:加賀禅定道から百四丈滝展望台

 


山の法話18 山祭りに思う

2021-12-14 | 山の法話

2年前にも山祭りについて書きましたが、12月9日は山祭りです。この日は林業や木材に関係する人々は、山の神仏に感謝する日とされています。大抵、山祭りの日は天候が荒れるので、山仕事をしてはならんと言われてきましたが、近年はそう厳格に守られる事も無くなりつつ有るようです。今年の山祭りは見事に晴れ渡り、加賀の海岸からも真っ白に雪を被った白山を拝む事が出来ました。誠に有り難い、穏やかな日でした。山祭りは年2回、3月9日にも有りますが12月から3月までの厳冬期の雪山は、たやすく人を寄せ付けない大変厳しい気象状況となります。また冬場に限らずとも、高山帯では登山中様々な試練が待ち受けています。「火の車 作る大工は 有らねども 己が作りて 己が乗り行く」という短歌が有りますが、山は雄大にして寛容です。山の神仏は人に罰など与えません。山に試されているのではなく、自らが挑んでいるのです。年2回の山祭りにはぜひ登山者も初心に帰り、山への感謝と安全を祈願する日としてはいかがでしょうか?


山の法話17 照顧脚下 9月の白山

2021-09-11 | 山の法話

8月はお盆前からもう1ヶ月近く天候不順が続き、先日は室堂で朝の気温が4℃にまで下がったという。夏はどこへ行ったのか?秋は足早に忍び寄る。9月はお花も終わり紅葉にも未だ早いので山に行ってもしょうが無いという声を耳にする。振り返ること無く足下を見ず、先々の予定を急ぐのは悪い癖である。されば9月の白山高山帯の今をお伝えしたい。見よ見よ我が脚下を!顧みよ己の歩んで来た路を!! 合掌

くっきりと刻まれたハイマツの回廊、大汝峰北側のハイマツに覆われたの大斜面から七倉辻方面の眺め。

岩間道上部(七倉九十九折り下)からの地獄尾根先端の火の御子峰

大汝頂上から見下ろす翠ヶ池と砂礫地に刻まれた中宮道

お花松原を見下ろす高台からの中宮道

少し変色し始めた北弥陀ヶ原

室堂平の遊歩道周辺

三の峰から別山へササ原の中をゆく石徹白道。石徹白衆によって千年前と同じ状態で歩けるよう、一切の人工物を使わず守り受け継がれてき来た白山信仰の道。近年銚子ヶ峰に方位盤がヘリコプターに因って荷揚げされ時には石徹白衆は大激怒したという。石徹白から別山まで、この方位盤と距離を示す標柱以外に人工物は認められ無い。千年受け継がれて来た本物の信仰心がここに在る。

 

 

 


山の法話16 三ノ峰避難小屋に思う 無財の七施

2021-08-19 | 山の法話

三ノ峰避難小屋は白山高山帯の南部、標高2,080mに位置する。外観は全体が赤い鋼板で覆われており視認性、耐久性が良い。赤兎避難小屋も同じ様式である。石川県側の避難小屋はそれぞれ外観が違い、外壁も木製なので定期的な塗装が必要だ。管理上は耐久性も含めて福井県側の方式が良いと思う。

この小屋の前から(特に残雪期)岩屋俣谷を見下ろすとその先に市ノ瀬の六万橋が良く見える。意外に思うかも知れないが、六万橋を起点にすると甚ノ助避難小屋(標高:1,970m)、殿ヶ池避難小屋(標高:2,050m)、三ノ峰避難小屋(標高:2,080m)は全て直線距離で5,300m前後の位置に有り共通点が多い。

ここの管理は大野市だが、内部はゴミが多いと感じた。管理者のせいでは無く登山者のマナーの問題だ。空のペットボトルをなぜ並べて放置して帰れるのだろう?使い捨ての中身の詰まったポケット灰皿、女性の化粧品、ゴミ袋・・・。白山に北部も南部も垣根は無い。当然全てのゴミは回収し持ち帰ったが、白山を愛する登山者諸君なら、誰の残したゴミであれ持ち帰る気概は無いのか?この夏三ノ峰避難小屋を利用した全ての登山者に問いたい。功徳は与えられるものでは無く、施すものです。我々は無財でも出来る七施という素晴らしいものを持っています。いつでもどこでも出来る事です。

 


山の法話15 青山元不動 白雲自去来 

2021-05-28 | 山の法話

青山もと動かず、白雲おのずから去来す。

どんな世の中でも山は微動だにせずそこに有ります。そうすると自然とその山には雲が湧きあがり、また去って行きます。時には険悪な嵐を伴って押し寄せる事も有りますが、雲一つ無くお日様の光が木々の間を通り抜け大地を温める事も有ります。しかし山は全く動きません。

将来が不透明な現代、誰々が悪いからとか、目標を示して貰えないからとか、自分自身の事を他人ごとにしてはいませんか?貴方には他人がして来なかった唯一無二のこれまでの経験が有るではないですか。そこで得た知識や経験は誰も盗んでは行きません。しかし、それらを否定し放棄するのは自分自身に他なりません。常に有るべきは姿は、山のように揺るぎない自分自身です。


山の法話14 輪廻転生

2021-03-11 | 山の法話

このブログでも何度も紹介している百四丈滝の氷の滝壺は、毎年初冬から形成され2月末には最大級に成長します。そして梅雨を過ぎた初夏の頃にはこの巨大な氷の塊は一かけらも残さず消えて行きます。この12年間ずっと観察を続けていますが、毎年現れるこの自然の造形は気象、地形などの自然条件が幾つも複雑に重なり出来る奇跡の産物と言えます。丁度この滝を見下ろす展望の良い場所に着いた瞬間に胸ポケットのアラームが鳴りました。今朝家を出る前に14:46にセットして出掛けたのです。10年前のこの日、一瞬にして失われた2万人近い犠牲者の方々の慰霊のため、毎年この世に出現する奇跡の造形と白山妙理大権現、及び十方三世一切の諸仏に輪廻転生を願い諷経して参りました。


山の法話13 紅炉上一点雪 こうろじょういってんのゆき

2020-12-04 | 山の法話

中村哲医師がアフガニスタンで凶弾に倒れて一周忌の命日を迎えました。中村医師とて紛争地域で活動するに、護衛を付けるなど注意を払った上での事件だったようです。色々な報道から窺い知るのは、彼の信条は生死をも超越した所に有ったように感じます。医師として、また灌漑事業によりどれだけの命が救われた事でしょう。その生き様はまさに紅々と燃え盛る香炉の上に舞い降りる一片の雪そのもので有りましょう。信念を貫く気迫は何者も遮ることが出来ないのです。白山に源を発する河川のうち手取川の七ヶ用水の父と言われる枝権兵衛の生涯とも相通じる所が有ります。庄屋に生まれた権兵衛も最後は私財を投じて加賀平野を潤す用水を完成させたそうです。以後将来にわたりどれだけの穀物や野菜が生産され、命が救われ行くことでしょう。「百の診療所より一本の用水路を」中村医師の言葉ですが、その土木技術は江戸時代の日本の工法を参考にしたそうです。合掌


山の法話12 吾心似秋月

2020-10-01 | 山の法話

写真は本日、中秋の名月です。灼熱に耐えかねた夏も過ぎ去ればその暑さを忘れ、月夜の冷風に身震いをしています。季節は立ち止まる事をしませんが、人は過ぎ去った事はすぐに忘れるのに、安定・安心を求め、強制的な変化を拒みます。夏には冷房、冬には暖房、自然とは真逆の事を求めるは、これ人間の性、宿命で有りましょう。

吾心似秋月、碧潭清皎潔(わがこころしゅうげつににたり へきたんきよくしてこうけつ)唐の時代の禅僧と言われる寒山の詩で、私の心は中秋の名月に似ており、青く澄んだ深い淵のように清らかであると詠んでいます。恐らく名月が鎮まりかえった池に微動だにせず、丸く映し出されていたのでしょう。この漢詩に込められた寒山の境地とは、心は丸く穏やかで、深くどっしりとした清らかな様子で、これは禅の目指すべき悟りに通ずるものです。夏山に花が咲けばそれを見ようと汗だくになり写真一枚撮って満足し、鳥のさえずりに耳を傾け、やっぱり山は良いなあと満足げに下山する自分ですが、寒山は吾が心は月に似ている、さざ波も立たない青く澄んだ淵のようだと、まるで自然と一体になっている自分の心境をこの詩に表しています。つまり私が花を見たり鳥の声を聴くのでは無く、花が咲き鳥が鳴くから自分がここに居るのだという事に気付かねば、到底寒山の詩を味わう事は出来ません。地球は自分が中心で回っているのでは無いという事の理です。


山の法話11 帰家穏坐 (きかおんざ)

2020-07-11 | 山の法話

この写真は前回のラップランド渡航から帰った直後、白山室堂から眺めた沈む夕日の情景です。白夜のラップランドでは太陽は沈みません。我が家のような白山に帰って来た時、沈む夕日を見ながら一日の終りを噛みしめ、やはり自分の居場所はここなのだと改めて感じた次第でした。誰にでも経験が有ると思いますが、長旅から我が家に帰り、荷物を下して座敷で足を休める時、我が家が一番だなあと感じる瞬間です。これは人生においても同じ事が言えるでしょう。若い内は向上心を持ってバリバリ外で仕事をして、時には家庭を振り返らない時も有ります。しかし大きな仕事を経てふと我に返る瞬間が有るでしょう。振り返ると何かやり残しているのでは無いか?一抹の不安がよぎります。それは他人からどんなに大成功していると見られていても、自分自身の中で起こる葛藤です。外に外に向かっていたベクトルが何かの拍子で我が心の中に向かう瞬間。これこそが「帰家穏坐」の示す本当の意味でしょう。居心地の良い場所で坐して一呼吸、一呼吸に三千大千世界を感じて見て下さい。求めていた無限の宇宙が実は自分の中に存在していた事に気付くことでしょう。


山の法話10 只在此山中 雲深不知処

2020-05-23 | 山の法話

 「只だ此の山中に在らん、雲深くして処を知らず」これは唐の時代の詩です。諸国を行脚する雲水がこの地に住む仙人に参じようとします。松の下に居た童子に「仙人は何処にお出かけですか」と尋ねると、童子は「先生は薬草を採集しに行かれました。この山中に居られる事は間違いのですが、こう雲が深くてはどの辺りにいらっしゃるか分かりません」と答えたというお話です。私は2007年の5月にある地方紙の記事の3行ぐらいの短い文面に目が止まり、その年のお盆過ぎにラップランドを目指して一人荒野を歩いていました。記事にはその年の2月に北極圏で雨が降り、大地が凍りつき餌となるコケが食べられなくなったトナカイが数千頭も餓死したという事が書いてありました。当時私は北部白山エリアの管理を始めて間もない頃でした。世界では、北極海の氷山が融けてホッキョクグマが溺れかけている、南極で雨が降って抱卵するペンギンが寒そうにしている、氷河の融解による海面上昇でツバルが海に沈む、など地球温暖化の影響が報じられていました。白山の自然は何としても人間の手で守らなくてはいけない。お花畑に立ち入る登山者による自然破壊をどう食い止めたら良いかなどと意気込んでいた頃です。トナカイの大量餓死もまた地球温暖化の影響だろうと思い、この事について調べても当時は何のレポートも無いので、遂に自分の足で歩いて見て来ようと思ったのです。そしてそれに加えて、スウェーデンの国立公園の管理はどのようになされているのか?どんなルールが有るのか?など10項目ぐらいをまとめて調べるという目的でした。ノルウエーとの国境山岳地帯を歩き始めて5日目の事でした。目の前には何万年もかけて氷河で削られたU字溪谷が広がり両脇には急峻な岩山が立ちはだかります。8月下旬とはいえ北極圏ではもう雪が降りはじめ冠雪しています。天気は良いけれど寒風が後頭部をかすめて広大な渓谷に吹き抜けて行きます。澄み切った空と氷河から流れ出る溪谷の流れ。この風景を目の当たりにした時にハッと気付いたのでした。地球環境をこの手でどうのこうのなどの考えが吹っ飛んでしまいました。そして白山から何千キロも離れたこんな所にまで来なければ気付けなかった自分の愚かさに笑ってしまいました。物事を伝える手法には二つあると思います。危機だ危機だとその事を煽る方法、一方綺麗な物を示す事によって、心を清浄にして今起きていることに自ら気付く方法。時間は掛かるでしょうけれど私はこの風景に出合い、後者を選ぶ事にしたのです。諸国行脚して師に参禅し答えを得ようとする雲水の姿。自らの心が曇っていては気付けないという詩です。


山の法話9 曹源の一滴水

2020-04-01 | 山の法話

曹源とは禅の源流を受け継ぐ5家7宗の元となった六祖慧能禅師のことです。前回紹介した道元もまた、この訓えを一滴足りとも取りこぼす事なく受け継ぎ、弟子へと伝えて行き現在に至ります。自分勝手な解釈や誇張を挟む事なく、ひたすら物事の真理を淡々と受け継いで行くことは、情報に溢れた現代人の苦手とするところです。永平寺町大佛寺山に残る、曹洞宗本山永平寺の基となった大佛寺跡には、開山硯石水と言う湧き水が有ります。道元開山以来約800年もの間、コンコンと絶え間なく流れて続けて居ます。是まさに曹源の一滴水なのでしょう。