歴史 アハシュエロス王
アハシュエロス王(クセルクセス1世)
アケメネス朝ペルシアの王
(在位:紀元前486年 - 紀元前465年)
ダレイオス1世とアトッサの息子
クセルクセス1世の在位期間に関しては、紀元前496年 - 紀元前475年頃説もある。これはペルセポリスから出土した銘文に父ダレイオス1世との共同統治期間が示唆されているためです。
ペルシア戦争期
紀元前480年、海・陸の大軍を整えギリシア遠征を計画した。
遠征の際、ヘレスポントス海峡に多数の船を並べて、それらを縄で連結させた橋を架けて、アトス岬に運河をきり開いて遠征軍を進めて、アルテミシオンの海戦でギリシア海軍と戦った。
ギリシア海軍がやや優勢だったが、テルモピュライの戦いでギリシア連合軍の陸軍が敗北したせいで、ギリシア海軍が自主的にサラミスへ撤退した。
同年8月、テルモピュライの戦いでスパルタ王レオニダス1世を戦死させた。
9月、アッティカ地方を遠征したが、サラミスの海戦で敗北した。
そして、帰国した。
紀元前479年8月、マルドニオスの率いる陸軍はプラタイアの戦いで敗北した。
敗残海軍はミュカレの戦いで撃滅されて、ギリシア軍の反撃に苦しんだ。
ギリシア遠征で大打撃を受けたクセルクセス王は帰国して、事実上ギリシア遠征は失敗に終わった。
その後、ペルシアは大規模なギリシア遠征を行うことはなかったが、ペルシア戦争自体は息子のアルタクセルクセス1世がカリアスの和約を結ぶまで継続した。
ペルシア戦争後
帰国後、有名な万国の門(クセルクセス門とも)などの大規模な建築事業やユダヤ人の保護政策などを数多く行ったが、これにより国の財政がさらに圧迫されて、次第に国力が衰えてアケメネス朝の衰退を招いた。
逸話
クセルクセスはまた「性剛情」とされ、アフラマズダ神の崇拝を強行しようとしたといわれる。 またアフリカを周航させたともいわれる。
エステル記
旧約聖書『エステル記』は、インドからクシュまでの127州を統べるペルシアまたメディアの王クセルクセスの時代を描いている。
この王は伝統的にクセルクセス1世と考えられており、かつての和訳ではアハシュエロスとされていた。
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