おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

「個人」を構成単位とする近代国民国家の誕生とベートーベン

2024-02-11 18:11:17 | 日記
第2楽章という孤独の中から、
再び、
「人間」、
が輝かしく、自信に満ちて立ち上がるという、再生のドラマがある。

そして、この再生が、人間ベートーベンの再生、いや、新しい時代の新しい人間の誕生そのものである、と、私は、おもう。

ベートーベン
ピアノソナタ第21番
「ワルトシュタイン」
の裡に在るものに、私は、感動した。

うまく、など、描けないが、

「明けない夜は、ない」、
と、やがて曙光が射すかのように明るい旋律とともに第3楽章がはじまる。

朝霞のなかから、壮麗な城がその威容を現す、かのように、音楽はその壮大な姿を徐々に現してゆく。

1楽章の主題も回帰してくるのだが、ここで、曲全体のドラマ性が明確になる。

そして、この再生が、「人間」ベートーベンの再生、
いや、新しい時代の新しい「人間」の誕生そのものであることは、この音楽が語っている。

確かに、孤独な思索は、夜の暗さを想起させる。

最近、太陽のお出ましの時間が早くなっていて、私はなんだか、嬉しい。

多剤処方の後遺症なのか、また、耳が聞こえづらい。
音が、曇る。

これを描いたら少し休もう。

空を視上げても、いいものでも、ない。
子どものころからの飛蚊症が綺麗な空を汚す。

空は綺麗なままで、いい、
記憶のシャッターを切った自分を、今なら褒めてあげられる。

もっと拙い、冷静さを売り飛ばして、泡になって、世界に嗤われた、精神的な病気の話とその後遺症の話は、自分がうまく描けるようになるまで、内緒にしよう。

ところで、フランス革命は政治的事件であると同時に思想的事件であった。

それは、「個人」を構成単位とする近代国民国家の誕生である。

これはただの暴動、反乱ではなく、旧体制から個人を解放、または開放せよ、と、いう革命の思想が伝播する可能性があったのである。

フランス革命は否定され潰されるかに思えたが、
ヨーロッパ史上初の「国民軍」で、フランス側はこれを迎え撃った。

1792年、ヴァルミーの戦いでフランス国民軍を見たゲーテは有名な
「この日、この場所で新しい世界史が始まる」
と記したそうである。

ゲーテは、国民軍の思想的意味を直感したのである。

革命はやがてナポレオンの登場を生む。

若きヘーゲルの話はまたあとで描こう。

だいぶん、キツくなってきました。中途半端ですが、数日間、お休みします。

調子に乗って、徹夜をしたり、遅くまでファミレスに行ったり、女子会で騒いだり、掃除に凝ったり、慣れないことをしました^_^;

では、また。
昨日でこの体たらく^_^;
化粧くらいしろよ、私(;^_^A



ベートーベン交響曲第9番から-さまざまなひとの、それぞれの人生を重ねて-

2024-02-11 04:57:57 | 日記
戦いでも、救済でもない、

人間が人間を愛することに拠って生まれる

「歓喜に寄す」

という人間賛歌が歌い出されるのだが、
この旋律に辿り着くまでに、
ベートーベンは、
いったい、どれほどの長い夜を過ごし、
それでも、生きたいと、涙とともにパンをかじる日々を経なければならなかったのであろうか。

その結論や歌詞が大事でないのかもしれない。

ベートーベンという、自殺を決意し、「生きる」困難と苦悩と戦い続けた人間が、ついに生命を肯定するに至った、その魂の動きそのもの、が、聴く者の魂と共振するからこそ
「第9」は不滅の名曲なのであろう。

呼ぶ声があり、応える声がある。

困難を経て、大いなる歓喜へ。

これこそが、ベートーベンという人間が、終生追い続けた主題である。

その主題のために、彼は従来の音楽形式を破壊し、拡大することも厭わなかった。

いわゆるソナタ形式はベートーベンという魂が要求して生み出された形式である。

そこでは、明暗両極端の2つの主題が激しい相克を展開するのだ。

「第9」の第1楽章は、まさにベートーベンならではのソナタ形式で、
空虚5度という、漠然とした響きの中から、峻厳な第1主題が現れる。

それは、次に現れる歌の心に満ちた、優しい第2主題と鋭利な対立をみせる。

しかし、ベートーベンの創意はソナタ形式にとどまらないのである。

彼は、交響曲全体を統一する新しい構想を持ち込む。

ベートーベン以前の交響曲というジャンルは、3楽章ないし、4楽章構成の中では、それなりの起承転結はあるものの、
個別に独立しても構わないような、極端に言えば「曲集」である。

ところが、ベートーベンはここに思想的統一を持ち込む。

第1楽章で提起された問題は、第2楽章、第3楽章で、異なる角度から検討され、吟味され、
結論部である第4楽章へと引き継がれていく。

ベートーベンという楽聖が好んだ、
スケルツォ
という形式は、あまり笑えない。

ベートーベンは天才に過ぎて、私のような人間には、冗談が過ぎる。

それでもついていきたい音楽を生み出すのだから、本当に笑えない。

第2楽章、
「スケルツォ」は、第1楽章以上に激しく、せわしない闘争心に満ちている。

第3楽章では、
俗に「神の恩寵」と呼ばれるこの上ない優しさと慰撫にも似た音楽が奏でられる。

則ち、この第3楽章までに、人間、や人間を襲う困難と勇気に満ちた戦い、神による救いすら検討されるのだが、ベートーベンはそれらすべてに満足しない。

人間の尊厳(Hominis Dignitati)であろうか。

第4楽章で、真に感動的な場面は、西後の大合唱ではなく、冒頭である。

激しい導入を経ると、第1楽章から第3楽章までの主題が想起されるのだが、それらはそのつど、断ち切らてしまう。

ただ、戦いでも、救済でもない、人間が人間を愛することによって生まれる
「歓喜に寄す」
という人間賛歌が歌い出されたのである。