20世紀の歴史がそうであるように、20世紀の音楽の歴史も複雑である。
マーラーが切り拓いた道を、シェーンベルク、バルトーク、ショスタコーヴィチといった偉大な作曲家たちが歩いていったが、
2つの世界大戦、とりわけ、ホロコーストと広島・長崎への原爆投下が音楽にも暗い影を投げかけたのである。
哲学者のテオドール・アドルノは、
「ホロコースト以降、詩を書くことは野蛮になった」
とすら指摘をした。
なぜなら、ホロコーストは人間によって為された虐殺であり、そのような側面を持つ人間への批判なしに詩を書くことは、野蛮、ときには、罪とさえ思われたのである。
ここでいう詩とは、文化一般を指しており、当然、音楽も入っている。
だから、作曲家たちは、最早、思想とは無縁ではいられなくなってしまった。
つまり、音楽は、何か思想的なメッセージを込めていなくてはならず、人間の残忍な行為を告発したり、人類の共生を訴えたり、と、何かしらの思想的なメッセージを体現したようなものでなくてはならなくなったのである。
マスカルチャーの発達とともに、いわゆるクラシック音楽というジャンルは、そのマーケットをジャズやロック、ポップスにどんどんと奪われていったのである。
また、一方で「現代音楽」にみられるように、
伝統の破壊こそが新しく、独創的だと考えられ、
ジョン・ケージにより、『4分33秒』が提唱され、クセナキスは五線譜に橋の図面を書いてみたり、というようになってきたのである。
そしてその結果、愛好家や支持者を生んだのだが、大きな局面で視ればやはり、クラシック音楽は、2つの世界大戦前ほどの人気をなくしてしまったという側面はあったのである。
このような中から、スティーブ・ライヒや、フィリップ・グラスに代表されるミニマリズムという新しい動きが出てくる。
1960年代~1970年代頃に、アメリカを席巻した「反近代」の思潮の中にミニマリズムという思想も位置づけられる。
ミニマリズムとは、簡単に言えば、余計なものはとことん排除しようとする思想であり、
シンプル・ライフという運動もミニマリズムという思想から出てきたと言えよう。
ミニマリズムの影響は、音楽のみならず、服飾、建築、絵画、デザインなど広範囲に渡っており、現在の私たちの生活にもある程度は、浸透しているといっても、過言ではないであろう。
ところで、
私たちの社会ほど、物を作り、消費し、ゴミとして捨てている社会はこれまでなかった。
かつて、2つの世界大戦前後などは、おもちゃはたまにしか手に入らない貴重なもので、子ども時代を通じて一緒に過ごす大切な友だったようである。
それに対して現在は、かつてに比べてだが、ほんの少しだけ子どもの手元に在ったあと、飽きられ、ゴミ箱行きとなるおもちゃが大量にあるように見受けられる。
子どもからしても、そうした余分なおもちゃを貰っても必要はないし、そこから得られるものもない。
また、大人も、欲しがるように教え込まれてきた余分なつまらない物は、実は、要らないし、そこから、得るものはない。
さらに、私たちが物の消費率を下げることが出来れば、私たちの社会はもっと長く生き延びることが出来るはずである。
しかしながら、残念なことに、私たちの経済政策はほぼすべて、致命的欠陥のある正反対の想定に基づいているのである。
つまり、絶え間ない経済成長は、国が生き残るためには本来良いことであるのみならず、
基本的に必要不可欠なことであるという想定である。
確かに、経済成長が妨げられれば、
「景気後退」や「不景気」などと罵られるし、
だからこそ、人々にもっとお金を使わせ消費させるための苦肉の財政・金融政策によって景気を「好転」させる。
実際に、GDPのうちの相当な割合(約70%)は、役に立たないことが多い製品に対する個人消費に由来し、
もっと効率的で持続可能な世界に繋がるインフラプロジェクトや研究のための支出は少なすぎるのである。
例えば、新車の生産台数は多すぎるが、公共交通機関のシステムは少なすぎる。
また、需要先導で意味のない薬品研究は多すぎるが、いつか枯渇し大気を汚す化石燃料に代わるクリーンな核融合エネルギーに対する研究は少なすぎる。
広告業界全体は、オルダス・ハクスリーの『素晴らしい新世界』で痛烈に皮肉られた見境のない過度な消費を促すことに力を注いでいる。
「時代遅れ」などによる商品の計画的陳腐化は、私たちの経済において重要な役割を果たしている、というように、である。
このような状況はすべて、企業の利益を上げるという点では素晴らしいことかもしれないが、私たちの目標を単に、「人々を幸せにすること」とした場合は、持続不可能であるとともに、本質的に不要なことなのである。
発展途上国は、人々を貧困から救い出し、近代化に向かう過程で、消費を増やさなければならない。
ただし、これが公平で正しく、かつ持続可能な社会となるのは、先進国が消費を減らすことによって、途上国で増えた消費を相殺する場合に限られる。
私たちは、経済成長や消費主義から、持続可能性や、足るを知る方向に、自らの 姿勢、制度、経済を転換させなければならないのであろう、と、私は思う。
また、本当に必要としない物を大量に製造することを止め、
手が届く範囲の物から、費用がかからない良質の幸福を得ることを重視するようにしたとき、今より心豊かな生活が待っているのかもしれない、とも思うのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
いつもの日記に戻り、さて、シリーズ名をそのまま使いたかったのですが、⑳以降が、うまく表記できず、私たちが直面していることについて考えるⅡとさせていただきました^_^;
また、①から始まります。
よろしくお願いいたします。
東京では、何だか冷たい雨の日が増えています。
体調を崩さないよう気をつけたいですね。
今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。