チャールズ・チャップリンは、
「人生に必要なのは、勇気と想像力と、ほんの少しのお金だ」
と述べている。
ここで、チャップリンは、「たくさんのお金」とも「お金は要らない」とも述べておらず、
「ほんの少しのお金」
と述べていることに着目したい。
チャップリンの非常に貧しい幼少期とその後の成功に伴い「超」がつくお金持ちになったことをを考えると、「少しのお金」はなんと重いことばであろうか。
貨幣の発明は、人類史上ごく最近のことなので、私たちは、金に対する欲望を抑えるための健全な恒常性を保つ仕組みを進化の過程で身につけることが出来ていない。
私たちは、通常、どんなに空腹であろうと、ファミレスのメニューに記載されている商品をすべて食べ尽くす前に満足できる。
しかし、金銭の場合は、そういった満足感がなく、持てば持つほど欲しい、もっと必要だ、と感じるようだ。
金銭のせいで、もっと満足感が得られるささやかな快感に目が向かなくなった実業家ハワード・ヒューズは、億万長者であることに伴う特別な不幸を身にしみて味わったらしく、斬新な表現ではないが実に正確に、自らの人生経験について
「金で幸福は買えない」
と、後悔の念を込めて述べた。
5万年前の人々を本当に幸福にしたものは、今の時代の私たちをも幸福にする。
なぜなら、そのころから人間の脳の構造が時代に適応して変化しているわけではないからである。
さらに言えば、(高尚な?)幸福とは話がズレるが、快感を最大限に、痛みを最小限にするということは、もっとも基本的で古くから存在するあらゆる行動の動機である。
数十億年前に初めて誕生した正細胞には、感触の良いものに近づき、感触の悪いものを避けるという識別能力が在った。
蠕虫やハエなど、数億年前に初めて神経系を進化させた地球上の下等動物が、いまだに人間と全く同じ神経伝達物質であるドーパミンを活用していることは、進化の連続性と保守性を極めてはっきりと裏付けているのである。
生存に利することの追求を促す仕組みは、蠕虫もハエも人間も同じである。
扁桃体は人間の報酬系にとって重要な役割を果たすが、快感は、脳のあらゆる部位、特に記憶や意思決定の中枢との強いつながりを形成するほど大切なものである。
私たちが、そのようななかで、よい決断を下すには、快感の誘惑になんとか負けないようにしながらも、苦痛がもたらす不快感に耐え、各人がどれだけのことを期待できるかについて現実的な観点を持つことが必要である。
だからこそ、ほぼすべての哲学者と心理学者は、快感と苦痛、さらにそれらと日常の現実との関係に向き合わなければならなかった。
たとえば、唯物論に基づいた倫理学に大きく貢献したジェレミー・ベンサムは、啓蒙活動に繋がる古代学問の復活に感化されていた。
ベンサムは、個人の道徳的判断と社会的決断に関する実用的な指針として、功利主義に則った計算法を編み出した。
「自然は人間を、苦痛と快感というふたりの王の支配下に置いた。
苦痛と快感だけが、わたしたちのしようと思うことを決定するばかりではなく、私たちのすべきことを指示している。
その王座には、一方には正・不正の基準が結わえられ、もう一方には、原因と結果の鎖が結わえられている。
苦痛と快感が、私たちのすること、言うこと、考えることすべてにおいて、私たちをしはいしている」
とベンサムは、述べている。
ベンサムによれば、快感と苦痛は、その強度、持続期間、予測可能性、直接性、危険性、他者にも広がる一般性に従って、可能な限り正確に計測することが出来る。
さらに、これらの数値を個人ごとに合計し、さらにそれを合計して、社会全体の数値とすることが出来る。
公共政策の良し悪しは、抽象的な原則ではなく、むしろ政策がもたらす実際の結果に即して判断される。
つまり、最大多数に対して最大の善を、現在も将来にももたらしているかという観点で考えるのである。
功利主義は、欠点はあるが、必要不可欠なものである。
その欠点とは、
「価値判断から離れて功利を計測できない」という点である。
たとえば、ヒトラーは、人類に対する極めて残虐な行為をはたらく一方で、自分はドイツのために最大の善を促進する功利主義者だと主張できてしまう。
一方、功利主義が必要とされる理由は、個人の行動や公共政策にとって、これ以上に良い指針がないからである。
生存する上で、最も本質的な価値は何か、その達成の度合を計測する最善の方法は何か、未来の長きにわたって人類の快感を守り、苦痛を最小限に抑える責任を考慮しつつ世界の快感を増やし、苦痛を減らす可能性が高い政策は何なのか......こうした課題に対して、気難しく面倒な私たち人類が協力して解決策を見い出せるかどうか、が、まだ答えの出ていない重大な疑問である。
精神病理学と進化論に対する確かな知見を持っていたジークムント・フロイトは、人間の精神が動物の祖先の脳を基本とし、段階的に層を成す人間脳の構造を反映しているものだと直感した。
無意識の脳の働きは「現実原則」に従う。
これは、外界の要請や機会に対して、満足を遅らせ、合理的理由付けを行い、適切に対応する能力である。
フロイトは「こうして教育された自我は『理性的』になり、目はや自らを快感原則に支配させることなく現実原則にに従う。
実は、現実原則も快感を得ることを求めてはいるが、快感は現実を考慮した上で確保され、延期されたり、軽減されることもある」
と述べている。
ちなみにフロイトは、のちのダニエル・カーネマンによるシステム1とシステム2という思考モードに先駆けて(→ カーネマン氏を偲んで、の回に少し詳しく描いています)こうした区別をしていたのである。
社会が抱く幻想は、快感原則の具現化である。
フロイトは、セラピーの目標について
「イド(本能的欲動)あるところに自我あらしめよ」
と述べた。
同様に、私たちの社会の目標は、合理的な長期計画を適用し、現実世界の問題に対処することであり、短期の放縦な快感を助長する否認または願望的思考に従うことではないはずではないだろうか。
さて、締め括り方が完全な迷子になる前に、事実かもしれないが、なんだかもの悲しいことばで締めよう。
「幸福とは、私たちの遺伝システムが、その唯一の役割である種の存続のために、私たちに仕掛けたひとつのトリックに過ぎない」
(パウロ・コエーリョ)
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
明日から、また、数日間不定期更新となります( ^_^)
よろしくお願い致します(*^^*)
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。