「幸福がもたらされるのには太陽が必要だと考える人は、雨の中で踊って見たことがない人である」
ということばが、俳優のマシュー・ペリーさんの周囲が訴追されたニュースを聞いたあと、私の脳裏に去来した。
今、私を幸せにするものは、たいていはすぐ近くにあり、だいたいはそれほど高価ではなく、実は簡単に手の届くものである。
それは、うつという病気の時はわからなかった、髪を通り抜ける風、肌に太陽を感じること、
また、病気の時には出来なかった、友人との楽しい食事やおしゃべり、大好きな本を読み、普通に眠り、映画を観、新しい場所に行って、新しい事実を学ぶ喜びを感じることなどである。
確かに、人間や社会は、蓄える価値のないもの、また本当の幸福と健康にとって本質的でないものを守ろうとする。
しかし、5万年前の人々を本当に幸福にしたものは、今の私たちをも幸福にするようだ。
何千年何万年という時間の経過のなかで、人類の歴史を引き継いできた世代は、時間をやり過ごすための、新しい、洒落た贅沢品を生み出してきたが、よい生活に必要とされる基本的な要素は、長年驚くほど変わっていない。
幸福度に関する調査は、私たちがよく、間違った場所で幸福を探しているという、重要な点に行き着くことが多々ある。
幸福は私たちの目の前や、日常のありふれたもののなかにあり、自然や私たち本来の人間性との調和から生まれ、成長型経済の歯車となることからは生まれ難いようである。
イギリスの詩人、ジョージ・ハーバートは、シェークスピアと同時代の目立たない人物であるが、
「よい暮らしをすることが最高の復讐である」
と、いうことばは、時代を越えて有名になった。
このことばは、これまで実に多くの場合、過剰なまでに贅沢なライフスタイルを正当化するために使われてきた。
そのようなライフスタイルを、200年前、アメリカの実業家エドマンド・バークは、
「私たちが、富を意のままに出来れば、豊かで自由になる。
しかし、富が私たちを意のままにすれば、私たちは実に貧しくなる」
と、述べた。
富で幸福を手に入れることは出来ないが、貧しければ、確実に不幸を招くことになる。
また、富で不幸を招く場合もあるが、それは、よくあるように富を得ること自体が目的となったり、それを消費することにとらわれてしまったり、するときである。
幸福度は、年間1人あたりおよそ7万5000ドルまでの収入と密接に関係しているという研究がある。
その研究に拠ると、その水準に達したあとは、いくら上であろうとそれまでより、ずっと幸福になることはなく、手に入れる者が多くなればなるほど、もっと多くのものが必要になり、成功を測るための競争相手はますます手強くなり......止まらないランニングマシンに乗ってくたくたになっても走り続けるようなもの、になるようである。
ひとたび、基本的なニーズが満たされさえすれば、人生で最良のものは、プライスレスあり、お金では買うことが出来ないものなのかもしれない。
貨幣の発明は、人類史上、ごく最近のことであるため、私たちは、お金に対する欲望を抑えるための健全な恒常性を保つ仕組みを進化の過程で身につけることが、出来ていない。
私たちは、通常ファミリーレストランに入り、そこのメニューに記載されているものを全部食べ尽くす前に、満足して店を後にするだろう。
しかし、金銭の場合は、そのような満足感がなく、持てば持つほどもっと欲しい、もっと必要だと感じるようである。
マシュー・ペリーさんの周りの人々も、やはり、そうだったのであろうか......。
また、金銭のせいで、もっと満足感が得られる、ささやかな快感に目を向けることが出来なくなってしまうようである。
それは、まるで豪邸に住みながら、新たに建てる豪邸のことを延々と気にかけ、常にその手直しをし、実際そこに住んで楽しく暮らせない、古今東西にいるお金持ちの物語のようなものなのかもしれない。
実業家のハワード・ヒューズは、億万長者であることに伴う特別な不幸を身にしみて味わい、
「金で幸福は買えない」
と、斬新な表現ではないが、実に正確に、自らの人生経験について、後悔の念を込めて述べた。
GDPが少しずつ確実に減少する場合でも、突如として幸福が崩壊することはない。
それでも、ペリーさんの周囲は、ペリーさんの精神や肉体の崩壊よりも、自分たちの金銭的な利益の減少や崩壊ばかりを気にしていたように思う。
ペリーさんの周囲で訴追された人の中にはアシスタントなど、ペリーさんを支える人が多かったことも、悲しく思った。
「主観的幸福」に関する調査を行った心理学者たちは、幸福をふたつのタイプに区別している。
それは、その時々の快感と、人生に対する長期的な満足感である。
これらの違いを最もよく示す例は、母親に見い出せるようである。
確かに、子どもと一緒にいて、いつも満足できるとは、限らない。
特に子育てを、他の忙しい仕事の合間にするときや、子どもが気難しい場合などは、そうであろう。
しかし、そのような立場の人たちが、「母親である」ことを後悔しているわけではない。
「母親である」人たちにとり、子どもを持つことは、「とても満足感のある経験」であり、「たいていの場合は、(あとから長期的な目でみれば)、一時のちょっとした犠牲や不快な経験をする価値があるもの」だそうである。
マシュー・ペリーという俳優と共に成長するはずの周囲は、どうしてそのような心持ちになれなかったのであろうか......昨日のペリーさんの周囲の訴追と、その内容について、やはり、とても、残念に、かつ悲しく思う。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。