小林秀雄は、ベルクソン論である『感想』を途中で放棄したことについて、数学者の岡潔との対談で、
岡潔が
「ベルクソンの本はお書きになりましたか」
と問うたのに対して、
「書きましたが失敗しました。
力尽きて、やめてしまった。
無学を乗りきることが出来なかったからです。
大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません」
と答えている。
小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、ベルクソンの遺書に関する分析からはじまっている。
なんだか小林秀雄の『感想』に触れていると、『感想』は「批評家小林秀雄」の遺書として書かれたのではないかと、私などには、思えてしまう。
やはり、『感想』は奇妙な評論である。
5年間にわたって、『新潮』に連載された長編批評であるにもかかわらず、突然未完のまま打ち切られ、1冊の本になることもなく、全集にも入っていない(別巻扱いで出版されている)。
無論、全集に入れようとしなかったのが小林秀雄自身の希望に拠ることはいうまでもないが、このことは、小林秀雄作品のなかでは異例のことである。
小林秀雄は、この長編批評を完全に無視し、失敗作として葬り去ろうとしていたようなも見える。
小林秀雄は、ベルクソン論を打ち切ると、すぐに『本居宣長』の連載を開始した。
『本居宣長』は、1冊の長編批評として堂々と本になり、小林秀雄の代表作としての地位を獲得している。
言ってしまえば、『感想』で果たし得なかったことを『本居宣長』で果たしたようにすら見えるのだが、なぜ、小林秀雄は、『感想』でベルクソンをあれほどの熱量と持続力を以て論じながらも、途中で放擲してしまったのであろうか。
そして、そのベルクソン論を本にしようともせず、「学生時代からベルクソンを愛読してきた」と語る小林が、ベルクソンから本居宣長に切り替えてしまったのであろうか。
小林秀雄には、ベルクソン論以外にも、初期の評論で「『悪の華』一面」と題するボードレール論のように「未完」のまま長い間全集にも収録されず、放置された作品もある。
しかし、「感想」と「『悪の華』一面」とでは、その分量があまりにも違いすぎるのである。
また、「『悪の華』一面」が、小林秀雄が文芸評論家として文壇にデビューする以前の、言ってしまえば習作の域を出ないといえる小品であるのに対して、ベルクソン論は、文芸評論家としての不動の地位を確立したのちに、小林秀雄が、最後の作品、つまり遺書としての意味合いもあるような位置付けとして書き続けた長編であるため、ふたつの作品の重さはかなり違うと言わざるをえないだろう。
しかし、もちろん、このふたつのの未完の評論には、極めて原理論的な色彩が強い作品であるという共通点がある。
これは、小林秀雄の評論としては非常にめずらしいことであり、江藤淳は『小林秀雄』のなかで、「『悪の華』一面」は、
「この時期の小林の論文としては異常に論理性然としている」と述べ、
全集にこの作品が収録されていないのは、
「思弁的でありすぎるのを嫌った」
のかもしれない、と述べているのだが、この「理路整然」としていて、「思弁的」でありすぎるという特徴は、そのままベルクソン論である「感想」にもあてはまることなのである。
小林秀雄には、彼自身、人一倍「論理的」で「思弁的」であるにもかかわらず、「論理的」で「思弁的」な文章に対する異常ともいえる警戒感があったようである。
もしかすると、その意味においては、小林秀雄にとってふたつの作品は、小林秀雄にとって極めて危険な作品だったのかもしれない。
つまり、小林秀雄の本質が、小林秀雄自身の警戒心を押しのけて、溢れ出たような作品がベルクソン論である「感想」であり、ボードレール論である「『悪の華』一面」であるのだろう。
もし、そうであるならば、ふたつの作品は、小林秀雄自身の判断とは真逆に、小林秀雄という近代文学史上のパラドックスを解読するのに、重要な手がかりを与えてくれる作品だということになるはずである。
大岡昇平が、「感想」について「『本居宣長』前後」のなかで、
「56回にわたって連載された労作はここで中断され、単行本になっていない。
小林さんの著作歴において異常なことである」
と述べていることからもわかるように、小林秀雄の「感想」が中断され、単行本にもならなかった事実は、私たちに何かを物語っているようである。
私たちは、大事なものを隠そうとすることがあるし、またその隠そうとする動作によって、重要な本質的な問題が何であるかを自ら明らかにしてしまうことがある。
小林秀雄もまた、ベルクソン論である「感想」が重要かつ重大な問題を孕んでおり、ある場合には小林秀雄の文学的成果を覆しかねないような極めて危険な要素を含む作品だったからこそ、出版もせず、全集にも入れようとしなかったのではないだろうか。
柄谷行人は、「交通について」のなかで、
「小林秀雄のテクストはすべて管理されている」と述べているが、その意味でいえば、小林秀雄の「感想」は、小林秀雄の管理の手を逃れた作品のひとつなのかもしれない。
さらに言えば、「感想」は、意識家小林秀雄の意識を越えて、小林の手にも、どうにも収拾のつかなくなった作品なのかもしれない。
冒頭に岡潔と小林秀雄の対談をそのような意味でも挙げたが、岡潔との対談のなかで、小林秀雄が
「失敗しました。
力尽きてやめてしまった」
というのは、ベルクソンとアインシュタインの論争についてではないだろうか。
おそらく小林は、ベルクソンとアインシュタインの対立を最終的には解明することが出来なかった。
言い換えるならば、アインシュタインの時間論をベルクソンの時間論によって批判することができなかった。
小林人は、ベルクソンの時間は、
人間が生きる時間であり、生きてわかる時間である、という。
アインシュタインの時間は、
第4次元の時間であって、所謂、客観的な時間である。
小林は、ベルクソンとアインシュタインの対立を感情的なものと論理的なものとの対立として捉えている。
しかし、小林もベルクソンも、科学的真理を無視するような独断的な空想家ではないため、
ベルクソンは、「持続と同時性」というアインシュタイン論を絶版にし、小林は、「感想」というベルクソン論を中断したのかもしれない。
小林秀雄の「感想」は、私たちに、小林秀雄が、それまで決して見せなかった自身の素顔を、ベルクソン論というかたちで公開したものではないだろうか。
「感想」の第1回目は、小林秀雄の「母」の死の前後の話からはじまっている。
そして、水道橋のホームから転落したときに、無傷であったこと、それは、死んだ母が助けてくれたからだ、といった話のあとで、ベルクソンの「遺書」の話に及んでいる。
そして、第2回目から、ベルクソンの哲学に関する詳細な分析がはじまる。
「感想」の特色は、ベルクソンを論じる際、「生の哲学」だとか「非合理的」だとかいうような既製のよくあるようなベルクソン哲学解説ではなくて、ベルクソンの著書のなかの論理を、具体的に、ひとつひとつ検討している点にあるのではないだろうか。
言ってしまえば、「感想」は、ベルクソン論というよりも、ベルクソンを素材にして、小林秀雄が、様々な思考実験を行った評論ではないだろうか。
「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄が、ベルクソンについて、具体的に語ったことは、実は、あまりなかった。
それは、小林の批評の基礎原理にベルクソンが、あまりにも深く関わり過ぎているがゆえに、語り難かったのかもしれない。
小林が、ベルクソンの名前を出して、具体的に語りはじめるのは、戦後なのである。
小林秀雄は、原理的な思考に裏付けられた、極めて、論理的な、客観的な思索を得意とする人であったが、その原理論や原理的な思考そのものを、人前にあまりさらしたことはない。
小林秀雄の批評の原点は隠されがちであったが、その原理的思考の裡を「感想」は、私たちに具体的にさらけ出してくれる作品ではないか、と、私は、感じるのである。
ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。
秋らしく、涼しくなってきましたね😊
買い物の途中に八百屋さんののパレットのなかを覗いたような風景を目にしました😊→→
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。
では、また、次回。