おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

銃規制が慥かに動きだすとき-私たちが直面していることについて考える⑭-

2024-02-16 06:26:00 | 日記
映画とは違って
(≒ハリウッドの西部劇の孤独なカウボーイのイメージとは違って)、
昔のアメリカ西部の住民は、
多くの近代的な大都市の住人よりも、礼儀正しく、協力的で、暴力に訴えることは極めて少なかった。

また、法規が日常生活のあらゆる側面を支配していた。

なぜなら、集団の外で生きることはほぼ不可能で、皆の承認なしにやっていくことは出来なかったからである。

例えば、幌馬車隊は、西部を目指す前に、さまざまな決まりに同意した。

鉱山の町には、土地所有の主張や採掘権を定める厳しい規則が在った。

牧場主や自作農民は、土地管理の組合を作り、土地の所有権や境界に関するもめ事の解決に当たった。

さらに、昔の西部では現在よりも銃規制がずっと厳しかった。

まず、「保安官に銃を預けて」から、その町での自由な生活が許された。

治安判事が法を解釈し、保安官と民警団がそれを施行していた。

映画と違って、昔のアメリカ西部では、一匹狼や無法者、ガンマンに対して、さほど寛容な社会で無かったのである。

ところで、アメリカでは銃によって亡くなる人が、自動車事故で亡くなる人よりも多い。

現在、アメリカ人が持つ銃器の数は、アメリカの人口と同数の3億丁以上にのぼり、それらが4500万人の手に集中している。

アメリカの人口は、世界人口の5%以下であるにも関わらず、一般市民が持つ銃の数では、全世界の50%を占めている。

また、アメリカの成人の約10%が、衝動的に怒る性質と銃を合わせ持っているために、さらに大きな問題を招いている面もある。

銃による安全確保は、説得力のあるデータとの矛盾によって消えてしまう、ごまかしのプロパガンダである。

しかし、実際にはそれが消えてはいないし、消えたことはない。

NRA(全米ライフル協会)は、いつも
「銃を持った悪い人間を止めるのは、銃を持った良い人間だけだ」
と言っているが、私は、首を傾げてしまう。

死をもたらす銃の負の側面を見てみると、

銃による殺人が1万1000件、自殺が、2万件、過失による死亡事故が2000件起きている
(さらに、死に至らない傷害事件が多く起きているのである)。

悲しいことに、銃による防御ということがほぼ幻想であり、銃によってもたらされる害が実際に在るということである。

防御用として銃を使うことによって救われる命の数を推測するための信頼に足る方法はないが、攻撃的で自滅的、かつ不注意な銃の使用によって失われる命に比べたら大した数ではないであろう。

冒頭で述べた、昔のアメリカの西部よりも、さらに、現在のアメリカでは、外部の敵から身を守るために銃が使われるケースは稀である。

しかし、アメリカ国内の60%もの人が、
銃は「人々の安全を危険にさらす」のではなく「犯罪の被害者にならないように人々を守る」ために役立つと考えているのである。

恐ろしい大量殺人がアメリカ国内で人々を動揺させるたびに、銃規制が緩和され、銃の販売数は大きく伸び、銃器メーカーの株価が跳ね上がるという矛盾した結果が起きる。

NRAは、銃の所有者には、「武器が取り上げられつつ」あると思わせ、政治家たちには「多額の選挙資金を取り下げる」と脅すことに成功しているといっても過言ではない。

なぜ、NRAはそのような行動を取るのだろうか。

1970年代後半まで、NRAは、概ね猟師を擁し、政治とは比較的無関係で、企業の影響力に大きく左右されることはなかった。

その後、急進派の政治的クーデターを通じて新たな指導部が、共和党と密接な繋がりを持ち、銃器メーカーから多額の資金を受ける過激なイデオロギーを中心とした勢力と合わさり、現在NRAは、直接的にも間接的にもその予算を大部分を支える銃器産業のロビー団体として位置づけられている。
また、銃自体、物理的に軍が使用するようなレベルに強力に、しかしあらゆる人が使えてしまうデザインになっているのである。

そして、さらに状況は悪化している。
アメリカは世界一の武器生産者でもある。

武器輸出額は、年間約660億ドル以上にまで急増し、世界市場の4分の3を占めている。
(→2位のロシアの武器輸出額が年間約50億ドルである)

武器メーカー、軍、武器と関わりの強い政治家と政策立案者、武器商人、雇兵、暴動を煽動する過激派は喜んでいるかもしれない。

しかし、その一方で、武器で殺された罪のない人々、彼ら/彼女らの家族、警察協会、分別のある政治家、平和に生活を続けたい人々は喜んでいない。

1961年、ドワイト・アイゼンハワーが、大統領を退任する際、全アメリカ国民に向けた退任演説の中で、「軍産複合体」が及ぼす悪影響について警告を発した。

しかし、その警告はあまり耳を傾けてもらえなかったようである。

いつか、銃による常軌を逸した殺人事件、増え続ける自殺や悲惨な事故という重りが、天秤を正気の方向に傾けるだろう。

それまで、銃廃止派と銃擁護派との合理的な妥協点は、
無責任な銃所持と銃使用を減らす手段として、最善策ではないが、自動車運転免許に匹敵するようなものを導入することかもしれない。

世界でもあまりにも多くの人が武器により命を落としている。

大統領をはじめとする政治家が、イデオロギーに縛られたNRAや強い力を持つ武器産業、正気を失った過激な銃所有者を恐れるよりも、
怒りに満ちた一般市民を恐れるようになってはじめて、
銃規制が、本当に、慥かに、動きだす、と、私は思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

2024年2月14日に、
アメリカ合衆国ミズーリ州カンザスシティで起こった銃撃で亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

また、心身に傷を負われた方の、1日も早い回復を願っております。

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「些細な違いのナルシシズム」が招いた民主党の分断(2016年)から-私たちが直面いることについて考える⑬-

2024-02-15 06:34:59 | 日記
政治は多くの職業と同様、独自のことばを生み出し、
簡単なバズワードを使って理性的な思考と丁寧な議論を妨げる。

「バズワード」は
「重要そうに聞こえるが、多くの場合、ほとんど意味のない言葉およびフレーズで、主に印象づけのために使われる」
と定義されている。

経済学におけるグレシャムの法則によれば、「悪化は良貨を駆逐する」のであるが、
政治にグレシャムの法則を当てはめた場合ならば、
「意味のないバズワードは、理性的な思考と意義のある議論を駆逐する」となるのではないであろうか。

バズワードは対話を簡略化し、大脳皮質を寄せつけず扁桃体に訴えかけるようだ。

バズワードは思考を怠惰にさせ、意図的なごまかしとぼかしによって、常識と良い判断を狂わせる。

主旨のわからないはやり言葉で仄めかした、不正確で意図的にぼかされた表現は、
たいていの場合、
真実を追究し、実行可能な選択肢を提示することよりも、
プロパガンダを強調することを目的として考案される。

政治問題を表現するために使われるその種のことばは、私たちが問題を解決することを妨げ、利己心と偏見を覆い隠す。

例えば、アメリカの共和党のバズワードである「納税者の反乱」は億万長者たちにぜいきんのがれをさせることを覆い隠す表現である。

カラー戦争を戦う政党には、それぞれ好みのバズワードがあるが、共和党の方が、ことばの作り方が巧みで、国民の心への刷り込みが上手なように、(特にここ最近)私は感じる。

ところで、
2016年の大統領選挙の際、トランプは当初、共和党の歴史上、最も分断を促す不人気な政治家だと大多数に思われていた。

確かに、16人のライバルと個人的な中傷を激しくぶつけ合った予備選の戦いで、トランプは大きく打ちのめされた。

彼は、共産党支持の有権者から、多数の支持を集められなかったどころか、大部分の予備選挙では、3分の2の党員から激しく批判されていた。

しかし、総選挙が始まると、共和党支持の有権者は、
トランプの女性や金銭絡みの過去や、態度の悪さ、(2016年でも)周囲の国々やロシアに対する姿勢、ときに反共和党的な政策に目をつぶり、鼻をもつまむ勢いで、トランプを受け入れ、大多数でトランプを支持したのである。

大統領に就任して間もない頃にも、あれほどスキャンダルや失敗が在ったにもかかわらず、いまだに、岩盤支持層というトランプ支持者が存在するのである。

さまざまな面で共和党と対照的に、2016年の大統領選挙において、民主党の予備選挙は、当初、政治の世界における礼儀の手本のような選挙戦を展開していた。

バーニー・サンダースとヒラリー・クリントンの間で繰り広げられた民主党の予備選挙は、些細な政策の違いも、丁寧な言葉で議論されていた。

ところが、多くのサンダース支持者は、執拗にクリントンを批判し、予備選挙後から大統領選挙の日まで、彼女に敵意を抱き続けたのである。

彼ら/彼女らは、クリントンを支持する有権者に対し、自宅で待機するか、緑の党の候補者に投票することを勧めたのである。

(→実際その緑の党の候補者は、選挙の行方を変えたかもしれない約100万票をクリントンから奪うことになったのであるが......。)

2000年の大統領選挙において、ラルフ・ネーダーの立候補が、ブッシュ政権の誕生につながったような現象が、2016年にも繰り返されたのである。

フロイトはこのような現象を
「些細な違いのナルシシズム」と呼んだ。

「些細な違いのナルシシズム」とは、
「似たもの同士は、些細なものを巡って激しく争う傾向があること」を意味する表現である。

2016年の大統領選挙で、民主党は分断され、共和党は一体となり、今でも、その影響は残っているようでもある。

さて、 再びのトランプの登場に際し、冒頭に述べたバズワードや前回取り上げたステレオタイプ化の周辺について、再度検討してみたい。

「過剰派効果」とは、たとえ完全に主流派で常識的な主張をしている人でも、
その人のことを「過激派」と呼ぶ強力なプロパガンダ戦略を説明する言葉である。

例えば、中道派で、女性の権利の支持を訴えている人のことを「フェミニスト」と呼んでおとしめたり、
また、地球温暖化や汚染による環境の圧下を食い止めようとする人々のことを、不思議なことに異までは蔑称となった「環境活動家」、または「過激派環境活動家」と呼んで、彼ら/彼女らにをおとしめたりするのである。

さらに、少し前まで「リベラル」は、多くの人々にとって、相当な誇りを感じさせる言葉であったのであるが、
今では、なぜか、侮辱的で道徳的退廃や経済認識の甘さを暗示する言葉になったようですらある。

このように「ある立場」に対抗するために、反証を上げる必要がなくなり、
ただ、「ある立場をとる人」を非難するだけの議論とはとても言えない、(最近まで存在はしていても目立たなかった)中傷合戦が大統領選挙を機に目立つようになってきたように思う。

私が思うのは、対極にある2つの議論の中間にいつも真実があるわけではない、ということである。


つまり、一方が、極端な見解を支持している場合、ほとんどの場合中間に真実はない、と、私は思うのである。


私たちが事実を事実と認め、科学的エビデンスを認め、「もうひとつ」の真実たちが、あるときには、身勝手な嘘であり、全く真実でないと認めたときにのみ、社会の幻想を正すことができるのであるように、私は、思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

昨日から、2月にしては、なんだか暖かくて、服装に困ります^_^;

春が近づいてきていますね( ^_^)

皆さまは、どうお過ごしでしょうか。

私は、今日も天気予報を見ながら、着る服(気温)と洗濯物(雨降らないよね^_^;)の心配をしながら1日をはじめています(*^^*)

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

政治の二極化を実現するネガティブなステレオタイプ化-私たちが直面していることについて考える⑫-

2024-02-14 05:47:06 | 日記
私たち人類は、今、
人類の生存を脅かすような危機
(人口爆発、地球温暖化、資源の枯渇、環境破壊など)
が差し迫る中、危機に対してあまり有意義な対応が出来ているとはいえないであろう。

確かに、私たち人類は、これまでも、日々、生存に関わる危機を乗り越えてきた。

以前は、危機が及ぶ規模が、個人や家族、部族、都市国家、国家に比較的限定されていた。

しかし、現代における脅威は世界規模に拡大している。

地球が、かつてないほど小さく、互いにつながった社会となった今、もはや誰も、逃げられる安全な場所はないのである。

また、私たちは、急速に発展を遂げている現在やきわめて危険な未来よりも、旧石器時代に、はるかにうまく適応出来る心理構造で、危機に向かい合っているのである。

次の日までどう切り抜けるか、また次の食事は、どこから、得られるのか、と、いった不安を常に抱えながら彷徨っていた私たちの祖先の時代によく機能した先天的な心理気質を、私たちは進化の課程で身につけた。

しかし、かつては、無限とも思われた資源があった非常に大きな世界は小さくなり、すでにその限界を超えてしまったようである。

その昔、人間が生き残れるかどうかは、直感と短期的な決断にかかっていて、貪欲であることは概ねよしとされていたのだが、今やこの自己中心的ともいえる生存本能は、
協調的な計画を必要とする現在の世界の中で、自滅的な行為に私たちを走らせているのである。

私たちが外界をある程度征服したともいえる今、問題となっているのは、
私たちの心の中にある衝動をどの程度抑えられるか、である。

今、私たちが、眼の前に在る現実にそぐわない選択をすることは、私たちよりも後の世代にさらなる危機を引き渡す危険がある行為だといえるのではいだろうか。

ところで、かつて、ヨーゼフ・ゲッベルスは、今(2024年)のアメリカの選挙運動戦略を予見するような
発言をしていた。それは、
「知識人を変えようとしても無駄だ......一般市民にとって、議論は単純明快で説得力があり、知性ではなく、感情や本能に訴えかけるものでなければならない。
真実は重要ではなく、駆け引きと心理作戦に完全に従属している」
というものである。

アメリカの選挙運動戦略のひとつである政治広告は、テレビとともに発達した。

1948年の大統領選挙における選挙運動で、ハリー・トルーマンは、100万人と握手をし、3万1000マイル(約5万キロ)を移動した。

1952年、ドワイト・アイゼンハワーにとって、選挙運動は、はるかに易しくなった。
彼は、テレビのスポット広告を1日で40本撮影し、その広告は、トルーマンの訪れた地域よりもずっと広い地域で放送されたのである。

最もテレビ映えした大統領であるジョン・F・ケネディは、200本のテレビ・コマーシャルでメッセージを拡散した。

1964年には、ネガティブ広告の大きな可能性が明らかになった。
この年、リンドン・ジョンソンは「デイジー」と呼ばれたテレビ広告で、バリー・ゴールドウォーターを軽率で頼りにならず、核の全面戦争をしたがっている人間であるかのように描いた。

それ以来政治プロパガンダのほとんどは、ネガティブな内容で、なすべきことに関する見解を示すのではなく、敵対する相手の政策や、特に、人格を攻撃するものが多くなった。

ラジオのトーク番組は政治論を粗悪な陰謀論に貶めた。

さらに、インターネットによって、(真実が靴を履く前に、)嘘が瞬く間に世界中を駆け巡るようになったのである。

ステレオタイプ化は、政治の二極化と洗脳を実現する鍵である。

いくつかの辞典によると、
「ステレオタイプ」
「ある集団の成員が共有する画一的なイメージで、
極度に単純化された意見、偏見を持った態度、正当な批判基準に基づかない判断を指す」と定義されている。

「ステレオタイプ」は約200年前に生まれたばかりのことばで、フランス語に由来し、もともとは、
同じ規格の複写を作るために使われる印刷機用の鋳型を意味した。

しかし、ステレオタイプになる傾向は、人間の脳と同じくらい古くから存在する。

ステレオタイプのおかげで、素早く手軽に経験を理解し、集団の一員として認められる。

だが、先入観が一度出来上がってしまうと、変えることは、難しい。

それが、集団内の仲間と共有されている場合は、なおさらである。

そして悪循環に陥る。

つまり、集団内で二極化が起きると→
ステレオタイプ化が生じる→
それでいっそう二極化が進む→
さらなるステレオタイプ化を招く、というようになってゆくのである。

自分たちと異なる人々に対する知識と理解の不足はネガティブなステレオタイプ化が起きる格好の条件である。

特に、政治家が、ある意味、底意地悪く、国民同士を対立させようとしているときがあるとしたら、
それは、国民の利益のためではなく、常に政治家のための態度である。

ステレオタイプ化は、単純な問題を扱う場合には、最も効率的な方法だが、
複雑な問題を扱う場合には、最も破壊的な方法である、と、いえるのかもしれない、と私は思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

数日間の不定期更新から、シリーズで描いてゆく、いつもの日記に戻りました。

またよろしくお願いいたします( ^_^)

寒暖差が激しく、花粉も飛び散り、ツラいシーズンですね。

体調に気をつけたいですね。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。




「個人」を構成単位とする近代国民国家の誕生とベートーベン

2024-02-11 18:11:17 | 日記
第2楽章という孤独の中から、
再び、
「人間」、
が輝かしく、自信に満ちて立ち上がるという、再生のドラマがある。

そして、この再生が、人間ベートーベンの再生、いや、新しい時代の新しい人間の誕生そのものである、と、私は、おもう。

ベートーベン
ピアノソナタ第21番
「ワルトシュタイン」
の裡に在るものに、私は、感動した。

うまく、など、描けないが、

「明けない夜は、ない」、
と、やがて曙光が射すかのように明るい旋律とともに第3楽章がはじまる。

朝霞のなかから、壮麗な城がその威容を現す、かのように、音楽はその壮大な姿を徐々に現してゆく。

1楽章の主題も回帰してくるのだが、ここで、曲全体のドラマ性が明確になる。

そして、この再生が、「人間」ベートーベンの再生、
いや、新しい時代の新しい「人間」の誕生そのものであることは、この音楽が語っている。

確かに、孤独な思索は、夜の暗さを想起させる。

最近、太陽のお出ましの時間が早くなっていて、私はなんだか、嬉しい。

多剤処方の後遺症なのか、また、耳が聞こえづらい。
音が、曇る。

これを描いたら少し休もう。

空を視上げても、いいものでも、ない。
子どものころからの飛蚊症が綺麗な空を汚す。

空は綺麗なままで、いい、
記憶のシャッターを切った自分を、今なら褒めてあげられる。

もっと拙い、冷静さを売り飛ばして、泡になって、世界に嗤われた、精神的な病気の話とその後遺症の話は、自分がうまく描けるようになるまで、内緒にしよう。

ところで、フランス革命は政治的事件であると同時に思想的事件であった。

それは、「個人」を構成単位とする近代国民国家の誕生である。

これはただの暴動、反乱ではなく、旧体制から個人を解放、または開放せよ、と、いう革命の思想が伝播する可能性があったのである。

フランス革命は否定され潰されるかに思えたが、
ヨーロッパ史上初の「国民軍」で、フランス側はこれを迎え撃った。

1792年、ヴァルミーの戦いでフランス国民軍を見たゲーテは有名な
「この日、この場所で新しい世界史が始まる」
と記したそうである。

ゲーテは、国民軍の思想的意味を直感したのである。

革命はやがてナポレオンの登場を生む。

若きヘーゲルの話はまたあとで描こう。

だいぶん、キツくなってきました。中途半端ですが、数日間、お休みします。

調子に乗って、徹夜をしたり、遅くまでファミレスに行ったり、女子会で騒いだり、掃除に凝ったり、慣れないことをしました^_^;

では、また。
昨日でこの体たらく^_^;
化粧くらいしろよ、私(;^_^A



ベートーベン交響曲第9番から-さまざまなひとの、それぞれの人生を重ねて-

2024-02-11 04:57:57 | 日記
戦いでも、救済でもない、

人間が人間を愛することに拠って生まれる

「歓喜に寄す」

という人間賛歌が歌い出されるのだが、
この旋律に辿り着くまでに、
ベートーベンは、
いったい、どれほどの長い夜を過ごし、
それでも、生きたいと、涙とともにパンをかじる日々を経なければならなかったのであろうか。

その結論や歌詞が大事でないのかもしれない。

ベートーベンという、自殺を決意し、「生きる」困難と苦悩と戦い続けた人間が、ついに生命を肯定するに至った、その魂の動きそのもの、が、聴く者の魂と共振するからこそ
「第9」は不滅の名曲なのであろう。

呼ぶ声があり、応える声がある。

困難を経て、大いなる歓喜へ。

これこそが、ベートーベンという人間が、終生追い続けた主題である。

その主題のために、彼は従来の音楽形式を破壊し、拡大することも厭わなかった。

いわゆるソナタ形式はベートーベンという魂が要求して生み出された形式である。

そこでは、明暗両極端の2つの主題が激しい相克を展開するのだ。

「第9」の第1楽章は、まさにベートーベンならではのソナタ形式で、
空虚5度という、漠然とした響きの中から、峻厳な第1主題が現れる。

それは、次に現れる歌の心に満ちた、優しい第2主題と鋭利な対立をみせる。

しかし、ベートーベンの創意はソナタ形式にとどまらないのである。

彼は、交響曲全体を統一する新しい構想を持ち込む。

ベートーベン以前の交響曲というジャンルは、3楽章ないし、4楽章構成の中では、それなりの起承転結はあるものの、
個別に独立しても構わないような、極端に言えば「曲集」である。

ところが、ベートーベンはここに思想的統一を持ち込む。

第1楽章で提起された問題は、第2楽章、第3楽章で、異なる角度から検討され、吟味され、
結論部である第4楽章へと引き継がれていく。

ベートーベンという楽聖が好んだ、
スケルツォ
という形式は、あまり笑えない。

ベートーベンは天才に過ぎて、私のような人間には、冗談が過ぎる。

それでもついていきたい音楽を生み出すのだから、本当に笑えない。

第2楽章、
「スケルツォ」は、第1楽章以上に激しく、せわしない闘争心に満ちている。

第3楽章では、
俗に「神の恩寵」と呼ばれるこの上ない優しさと慰撫にも似た音楽が奏でられる。

則ち、この第3楽章までに、人間、や人間を襲う困難と勇気に満ちた戦い、神による救いすら検討されるのだが、ベートーベンはそれらすべてに満足しない。

人間の尊厳(Hominis Dignitati)であろうか。

第4楽章で、真に感動的な場面は、西後の大合唱ではなく、冒頭である。

激しい導入を経ると、第1楽章から第3楽章までの主題が想起されるのだが、それらはそのつど、断ち切らてしまう。

ただ、戦いでも、救済でもない、人間が人間を愛することによって生まれる
「歓喜に寄す」
という人間賛歌が歌い出されたのである。