冬桃ブログ

出雲 神話と古代史の旅

 タイから戻って一週間もたたないうちに、出雲の旅へ。 
 鳥取で仕事があったので、そのあと、島根へ足を延ばしたのだ。

 同行は、まちづくりプロデューサー、コーディネイターとして各地で活躍されている
福井功さん、講談社の女性編集者Fさん。
 そして案内役をつとめてくださったのは、福井さんの友人である田中文也氏。
 「さまよえる邪馬台国」「新説 邪馬台国山陰説」などの著書もある古代史研究家だ。

 福井さんも編集者Fさんも古代史や神話に詳しい。
 私はといえば、好きだし、何冊も関連図書を読んではいるのだが、人名や地名を
いっこうに覚えられず、いまだに神様達の姻戚関係も古代史の登場人物もごちゃごちゃ
のまま。

 なんだか申し訳ないようだったが、田中氏はその風貌、お人柄同様、解説もやさしく
柔らか。
 氏の提唱する「古代日本の中心は山陰地方だった」という説に、私もすっかり同調
したい気分になった。
 出雲ではないが、私も山陰地方の出身だし。

 荒神谷遺跡は斐川町庭西谷というところにある。
 1984年から1985年にかけて、谷の斜面から358本もの銅剣が発掘された。



 さらに翌年、7メートルほど離れたところから、銅鐸と銅矛も出土。
 出雲はそれまで神話の世界だったが、俄然、古代史の舞台としても注目を浴びることに
なった。

 加茂岩倉遺跡は加茂町にある岩倉の丘にある。
 前日までの雪が残る中を歩いて行った。
 ここからは銅鐸と銅矛が出ている。




 おもしろいはこれらの銅剣や銅矛の一部に見られる×印。 
 荒神谷遺跡で会ったボランティアガイドさんは「封じ込める」という意味では
ないかとおっしゃっていたが、まだ確たる答えは出ていないようだ。

 出雲大社は遷宮の最中で、あまり詳しくは見られなかったが、大社町にある
稲佐海岸では素晴らしい夕景を見ることができた。
 天津が国津から葦原中津国を譲り受けたという「国譲り神話」の舞台になった
浜である。



 
 中国を初めて統一した秦の始皇帝は、不老不死を願い、徐福という学者に霊薬探しを
命じた。徐福は、数千人の童男童女、五穀、百工を用意させ、東海にあるという蓬莱山
へと旅立っていった。それっきり戻らなかった。

 戻る気など最初からなく、つまりは無理難題を押しつける始皇帝を騙し、新天地を
求めて国を出奔したのだ。
 彼が行き着いた場所こそ日本だった。連れてきた童男童女、百工によって、当時の
最先端をいく中国の文明が日本に伝えられのである。
 ……という徐福伝説が、日本の各地に残っている。

 この出雲こそ徐福が上陸した場所だと、田中氏は言う。
 稲佐の浜を見ていると、私もそんな気がしてきた。
 たくさんの人々、植物、動物を載せた「ノアの箱船」のような船を、荒ぶる波の
向こうに浮かべてみる。
 風の強い夕暮れだったが、一瞬、寒さを忘れた。
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