前回に続き一族の記録の紹介です。
7.前(メース)1700年代前半に和集落に居住で与人をしていた久米村の家系
宗家の記録上の始祖である中城と同じ世代に久米村という人物がいて、3代続けて久米村の名前があります。3代目の久米村に、当家2代目の池久保の三女の宇志が久米村に嫁いでいます。
3代目の久米村の姉か妹であった思田兼は、本城家の始祖になる朝登の妻です。
名前が久米村ということは、琉球の久米村からやってきた人物であると思われます。この時代に琉球から沖永良部島に役人としてやってきていた可能性がありますね。
8.町田(中城:ナカスク)代官附役 町田勘左衛門實利と島妻の子孫となる家
町田家がある手々知名の字誌によれば、町田家は沖永良部島に代官附役としてやってきた町田勘左衛門實利の子孫であるということですが、町田姓で薩摩から島に派遣された役人は他にもいらして、古い順からあげけみます。
①1684(貞享元)年 附役 町田為兵衛
②1698(元禄11)年 代官 町田源五左衛門
③1766(明和3)年 表横目 町田勘左衛門
④1791(寛政3)年 附役 町田勘左衛門
役人の任期は2年ほどで島に滞在していましたが、③と④は同一人物の可能性があります。若い時に表横目でやってきて、年齢がいってから附役としてまた島に来た可能性があります。もしかしたら親子かもしれません。①や②との繋がりは分からないのですが、当家の池久保の三男であった清嶺(1676~1686年の間の生まれ)が、この町田家に養子にいっております。そうなると、③や④では年齢が合いませんので、①や②の方が可能性があります。
現在の町田家に清嶺が養子にいったことは確かですので、島に行ったときにお話を伺ってみようと思います。
9.豊山(豊嶺)豊山の本家で、1716年に豊嶺が与人になっている
豊山家はチュラドゥールにお墓がある家で、豊嶺が始祖といわれており、その大和式の墓石も建っております。豊嶺は墓石には豊與嶺と書かれており、1760(宝暦10)年10月9日に64歳で他界だったようです。1696年の生まれということですね。この豊山家は琉球からやってきた一族だといわれており、一説には琉球第二尚氏11代尚貞王の次男であった豊見城王子尚経の子供が豊嶺であったということです。
初代の豊嶺の子供は二人で、それぞれの屋号が上金城(ウイハナグスク)と下金城(シムハナグスク)と呼ばれたようです。
本家は代々「龍」という漢字を名前に使っていたようです。
前家の久米村や豊山家の豊嶺といった第二尚家と関わりのある人物が、薩摩世になった沖永良部にやってきていたことが見えますね。
そしてこの豊嶺の妻は、当家の池久保の長女であった真金です。
10.要(中殿内)世之主の母方の家と伝わる家
中殿内と呼ばれていた要家は、現在の知名町の下城地区にあった一族です。世之主の母方の家であったと伝わり、ノロ家でもあったそうで、ノロの遺品や世之主の着物などが保管されているそうです。
この家には島では一番古い記録である1698(元禄11)年作成の要家文書(系図など)が残されており、それを書いたのは当家から養子にいった池久保の二男であった池城ではないかと考察されます。叔母に嗣子が無く養子に行ったとありますが、その叔母とは中城の次女の真金だったと思われます。
2番目に書いた西世之主家統であった先久温の家との関係がありそうですが、今のところ詳しいことは分かりませんが、私の考察では要家の先祖が西世之主なのではないかと考えております。このあたりはまた別で書きたいと思います。