沖永良部島のご先祖調査のこと、島の歴史などを多岐に渡って書いているこのブログですが、読んでくださった方の中には当家と繋がる縁者の方もいらして、直接ご連絡を頂くことがあります。
その中には先祖から宗家とは親戚と聞いているけど、どこでどう繋がっているのか分からないといわれる方もおられます。
長い歴史の中で、宗家の分家筋、婚姻によってできた親戚、養子に行った先など様々で、お爺さまの記録には膨大な家と人々の記録があります。
お爺さまが調査をされていた昭和初期頃の記録として、500名近い人物の名前が書かれていますが、まぁ何といいますか全部整理されて書いてあるわけではなく、閲覧や関係を理解するのが非常に困難な状況です。
私にはこれを整理することがまず必要なのですが、この作業は物凄く時間を要します。しかもまとまった時間を確保して集中して取り組まなければ、なかなか先に進まないのです。
これまでに何度かチャレンジはしてきましたが、自分の知らない方々なので、繋がりを整理するのに時間がかかるし、途中で暫く作業が中断すると再開するときには???の状況からのスタートになってしまい、余計に時間がかかる。
家系図などを作られたことがある方はお分かりになると思いますが、なかなかハードな作業でございます。
しかしこれはお爺さまから託された私の使命でもあると思っておりますので、必ず今後仕上げていきたいと思っております。
そんな中で、ひとまずお爺さまの記録から分かる範囲で、親戚一同の姓と屋号を記載してみたいと思います。かなりたくさんありますので数回に分けて記載します。
記載の順番はお爺様の記録通りとします。本家からスタートし、本家に関係が強い家から順番になっているようです。
苗字→屋号→補足事項の順で書いてみます。
1.宗(ソーヌ屋)本家
薩摩世になって以降のお墓も記録も存在するご先祖様の名前は中城です。しかしお爺さまの記録には、その中城の前に5名の名があります。
宗重→思松兼→首里主思鎌戸→池城→朝秀→中城→池久保→平安統惟次→平安惟貞→平安統利雄→平安統惟尹→平安統惟雄→平安統善保→善寛→武重→惟雄→善隆
2.苗字不明(屋号不明)西世之主家統
この家の始祖になるのは先久温という人物。
先久温→先久統→宗家より養子(池久保次男の池城)
西世之主とは徳之島に1562年に琉球からやってきた大親役で首里之主と呼ばれた人物の家統だと思われます。
世之主の母方になる要家の可能性もあるようですが、現在のところ詳細はまだ不明です。
3.武宮(屋号不明)薩摩からやってきた測量士で出水郷士であった
武宮覚右衛門の娘であった梅千代が本家の池久保の妻であった。梅千代は武宮の島妻との子供であったのかは不明。
4.大坪(屋号不明)1700年代前半頃に与人職であった平安山の家系
平安山と本家の池久保は同列に記載があるので、同時期に生きた人物だと思われる。お爺さまの記録には平安山以降の名はありません。
実は本家の池久保の妻は梅千代ですが、別の記録には平安山の娘ともあります。恐らくですが、平安山の娘は後妻(先妻?)の可能性があります。
詳しくは別記したいと思います。
5.宗(前宗→上花城)宗の本家の池久保の長男であった佐久田の家系
長男であった佐久田は結婚して分家になり、宗の本家の前に屋敷を構えたので前宗という屋号。その後に佐久田の嫡子であった池悦がウファチジの前に屋敷を移し、金城家の上に屋敷があったので屋号は上金城。それが音の変化があり上花城となった。世之主の墓守や城跡に建立された世之主神社の神主を務めていました。
中城→池久保→佐久田→池悦→喜久嶺→文仁流→佐久田→ミ津→佐久田→佐久平→義経→一雄
6.本城(中村:ナカブラ)本家の池久保の4男であった朝登の家系
位牌に神主との記載がある人物が数名ある。世之主神社の神主であったという意味なのか、集落を束ねる百として神事を行っていたのか、詳しいことは不明。
中城→池久保→朝登→宗悦→平安雄→平安行→平安功→宗悦→宗元→宗明→松治→良雄→・・・・・
次回に続きます。