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先祖を探して

Vol.406 徳之島の尚家③犬田布騒動

1864(元治元年)年に徳之島では犬田布騒動という事件が起こりました。犬田布というのは地名です。犬田布は島の南西部にある伊仙町にあります。
今から160年ほど前に、この犬田布で騒動が起こっていたのです。

事の始まりは、島で生産の砂糖が見積高に達しないと言うことで、福重という人物が隠ぺいの可能性があるということで、犬田布にあった薩摩の代官の役所で、福重の娘婿がひどい尋問を受けていました。娘婿は隠ぺいはしていないと主張し更に酷い尋問をうけたようです。その時に隠れ見ていた村人達がみかねて、多数で役所になだれ込み暴れたのだそうです。仲間を助けようとした村人たちは勇敢でしたね。
しかしその結果、その騒動の責任を取らせる形で、当時の島役人たちを遠島罪などにして付近の島々に行かせたのだそうです。

その遠島罪を受けた人たちの中の一人に、喜美武という名前がありました。この騒動があった1864年で39歳だったようで1825年生まれ。
徳之島の尚家の系図の中に、この喜美武という人物の名前があります。
Aさんの祖母であるちよさんから見たら3代~4代ほど上の方になると思います。時代的にも合いますので、系図にある喜美武という人はこの島役人をされていたと人だと思われます。
そしてこの喜美武は奄美大島に流されています。遠島された人たちは、その後は皆、天寿を全うしていると資料にありますから、元気に暮らされていたと思います。遠島罪の人たちは13年後には徳之島に戻れたようですが、もしかしたらこの時に戻らずに、そのまま奄美大島に残ったのかもしれません。それでAさんの祖母の家族は奄美大島にいらしたのかもしれません。(この時は一度戻ったけど、また次以降の代の時に奄美大島に移住したかもしれません。)

詳細な正式な記録があるわけではありませんので確実な情報ではないのですが、喜美武という人や奄美大島のことは、かなり事実に近いのではないかと思われます。

奄美の島々では、島民は全て身分は平民扱いでした。島役人をしている家であっても身分は平民です。
島の最高役職の与人職についている家は、琉球時代の王家や士族の子孫、もしくは島の豪族の子孫だったといわれています。そのような家柄であっても、薩摩の時代には平民扱いだったのです。
与人は慶事に際し薩摩に上国したりしていました。そして島津藩主に謁見する機会が設けられ、本来であれば平民が藩主に直接お目にかかるなんてことはあり得ないが、お前たちは特別だといったパフォーマンスがあったようです。それによって島役人の士気をあげていたのでしょうが、平民であることに変わりはありませんでした。ですから名字も当然ありませんでした。しかし砂糖の上納やその他の功績により、特別に郷士格に格上げされ、名字(一字姓)を与えられた家もありました。徳之島では、幕末までに38家が「士族格」を付与されていたそうです。

Aさんの祖母であるちよさんの家が、いつの頃に尚という名字を使い始めたのかは不明です。このあたり、また次回に書きます。

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