本家のご先祖様の戒名に、神主と書かれている人物が3名いたことは以前の記事で書きました。
当時の考察では、宗家が内城の世之主神社の神主を代々やっていたからであろうという考察で書きましたが、それを裏付けるヒントになる情報を見つけました。
島の瀬利覚に宗岡家という旧家があります。「瀬利覚の昔話」という本に書いてあったのですが、こちらの家は昔は宗という名字だったようですが、改姓して宗岡家となったそうです。
この宗岡家は、百(ひゃー)と呼ばれる役を3代続けてやっていたそうです。
百とは、集落の長として政治と神事を取り扱っていたが、明治時代の頃は主として神事を執り行っていたそうです。島をあげての大行事であったシニグ祭は百が主役であったとのこと。
確かに明治3年の最後に行われたシニグ祭でも各村の百が参加してシニグ祭りを取り仕切っていたことが分かります。
百の選出は代々受け継ぐ方法と、部落で選出する方法があったようです。
そしてこの宗岡家の古い墓石には「宗神主」と書かれているそうです。
当時の名字である宗を冠として神主。明治時代の墓石ではないかとは思われますが、神事を行っていたので神主とあるのでしょう。
宗の本家の3名は薩摩時代の与人職です。集落の長というよりは、それより一つ大きい間切りの長です。間切りの長として神事を執り行っていたのか?内城集落としてなのか?そこあたりは分かりませんが、戒名に神主の記録があるご先祖様の生きた時代を見ると、世之主神社の最初の建立とされる時期と重なってきます。①の人物以前のご先祖様の戒名に神主と書かれていないところをみれば、神事を行い始めたのが①のご先祖様からということになります。
①神主1 1715-1772年(57歳没)
②神主2 1741-1814年(73歳没)
③神主3 1767-1814年(47歳没)
そしてもっと興味深いのが、宗の分家である本城家にも神主と書かれた人物が数名いました。
宗の本家と本城家の方で代々の神主を繋いできたようです。
そして明治期以降は義経お爺さまの代までは3代続けて屋号:上花城家が神主をしていました。
実は上花城に引き継ぐ直前は、豊山姓の人が神主だったようです。
明治2年に亡くなった豊山保秀という方が神主だったようです。
これは、上花城のご先祖が眠るチュラドゥールの西側の通路に、豊山秀保神主と書かれた墓石が転がっていたことで判明しました。
宗家筋で神主を務めていたのになぜ豊山家の人が?
豊山家とはずっと婚姻関係で繋がっていましたが、この明治頃にも豊山家から後妻に入った人がいましたので、その子供が母方の姓を名乗ったようです。
色々見えてきました。
宗岡家の資料から、「集落の長として政治と神事を取り扱っていた」ということが分かり、宗家一族の戒名にある神主の謎が解けた気がします。
いろいろな情報の繋ぎ合わせで、真実が見えてくるのですね。