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先祖を探して

Vol.428 新年のご挨拶と、、、②

前回は新年のご挨拶とともに、急な3号墓の墓石の話になってしまいましたが、その続きを少し書きたいと思います。




これが3号墓で、両サイドに大和式の墓石があります。
正面右側の墓石に掘られているかもしれない「上嘉鉄西〇居」の文字。
喜界島の南西部に上嘉鉄(かみかてつ)という集落があることが分かりましたが、小字名でマチィチャ・ウックダ・ウフドゥンムの付近一帯に大量の土器や石器の破片が出土したことがあったようです。縄文晩期の遺跡であったようです。
このように2300年~3000年ほど前から集落があった場所ですが、この集落の1つには上嘉鉄西と呼ばれる場所があるようです。
墓石の文字が「上嘉鉄西〇居」であったとしたら、この喜界島の上嘉鉄西の集落の人物であったのか?
小字名のマチィチャも気になる言葉です。
沖永良部の世之主はマチジョ(真松千代)という名でしたが、生存当時は漢字名では無かったと思うし、喜界島のマチィチャとは音が近い気がする。勝手に寄せておりますが、、、喜界島のマチィチャの意味が知りたいところです。


言葉の音といえば、喜界島の方言は島の北部は奄美大島や徳之島方言と並ぶ北奄美方言に属するのだそうです。しかし南部の方言(湾、阿伝、上嘉鉄)は何と沖永良部や与論の方言と並ぶ沖永良部与論沖縄北部諸方言に属するとする説が有力であるといいます。
喜界島の歴史は古く、平安時代には九州の大宰府と密接に繋がっていたことが文献上にも記録されており、喜界島に拠点もあったようです。
そして喜界島の方言が北部と南部で分かれており、それぞれの方言に属した奄美の島々の方言があるということは、歴史的な繋がりが大きかったのかもしれません。
方言的に見て上嘉鉄が沖永良部島と同属であったのなら、人の移動があったということで、歴史的にも現在では見えていない繋がりがあったのではないか?そして3号墓の墓石の名前も本当に上嘉鉄西の人物であったのではないかとさえ思えてくるのです。

これはあくまで墓石の文字が「上嘉鉄西〇居」の文字であったとしての考察ですが、これまでノーマークだった喜界島の上嘉鉄がご先祖様の歴史を探る1つのキーとして飛び込んできましたので、こちらもこれから探ってみようと思います。
新年早々に新たな調査課題ができましたこと、楽しく思います。


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