新年あけましておめでとうございます。
日頃からこのブログを読んでくださっている皆様、いつもコメントや情報を送ってくださる皆様、大変有難く感謝しております。
本業の仕事の方が多忙になっており、思うように調査が進まず発信の方もボチボチといったところですが、今年も少しずつ記録していきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します。
ただいまちょうどブログでは宗家一族の繋がりを連載しているところでしたが、今回は新年のご挨拶と、昨日でしたか急に飛び込んできたX(旧Twitter)での「いいね!」のことを少し書きます。
ちょうど先祖調査をスタートさせてブログを書き始めた3年ほど前のことなのですが、お爺さまの系統である屋号上花城のお墓があるチュラドゥールのすぐ西側に、3号墓と呼ばれる(本当の墓名ではなく歴史調査用につけられた墓名)があります。琉球式の墓でニングル墓(妾の墓)とも呼ばれているようですが、納骨堂の中には厨子甕が散乱していて、納骨堂の前の左右には大和式の墓石が両サイドに2墓あります。
そのうちの1つには、薄っすらながら掘りこまれた文字が見えるのですが、実際に掘ってある文字がよく分からずでした。
当家とも何か関係がありそうなお墓の感じがしていましたので、当時Twitterで解読できる方がいないか呼びかけていたのです。(3号墓の件は何度かブログの記事にも書いております。)
そうして墓石には以下の内容が彫られているのでは?との見解をある方から頂きました。
寶暦元年4月
〇〇〇世西〇居〇〇
確かに墓石の文字はそのように見えました。寶歴元年といえば1751年。当家のご先祖が眠るチュラドゥールもその頃に建築された説がありますので、ほぼ年代は間違いないのかなと思っておりましたが、肝心の名前?戒名?の部分が分からずで。
その後のTwitterでは、また別の方が解読してくださり以下の内容をポストしてくださいました。
上喜鉄西〇居
このような文字に見えると。
墓石はこちらですが、確かに中央の部分はそのように見えます。
このやりとりが3年前だったのですが、それ以上のことはもう分からずでそのままになっていました。
ところがですね、この3年前のポストの内容に昨日「いいね」がついてて、その頃をやり取りを見てくださった方がいらしたのです。
特に情報を寄せてくださったわけではないのですが、この「いいね」によって私自身が記憶が薄れていたこのやり取りを思い出したというわけです。
「いいね」してくださった方、感謝です!ありがとうございます。
不思議なことに、よく分かっていなかった自分がいたのか当時は上喜鉄西〇居について調べていなかったのです。今朝思い立って調べてみると、奄美群島の喜界島の南部に上嘉鉄という場所があることが分かりました。墓石の喜は嘉の文字ではないかと思うのです。
新年早々に3年前のことが復活してきた。これも何かの知らせか?
初心に帰れということなのか?
まだまだ見落としてきたこと(当時気が付いていなかったこと)が沢山ありそうなことに気が付いた2025年の幕開けでした。
この3年でいろいろ疑問に思い投げかけてきたこと、まだ調べきれていないことなど沢山ありそうですので、今年は振り返りも必要そうです。
喜界島の上嘉鉄のこと、まだもう少しありますので宗家一族の連載に割り込んでまた次回に書きます。