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先祖を探して

Vol.430 宗家一族の繋がり⑥26~30

昨年書いたVol.426の20番のクンバテヤですが、その後の子孫の方々の消息が不明でしたが、一族の方から嬉しい知らせがあり、現在も子孫の方々は島外ですが元気に暮らしておられるという情報を頂きました。

今回も一族情報の続きです。

26.本城(平安功屋)6番本城家の5代目平安功の三男であった宗徳の家系
平安功が1800年代の人物であるので、江戸後期あたりに分家した家である。内城の小字である中村の本城家の本家から片平山に分家して屋敷があったようです。

平安功→①宗徳→②宗安→③宗佳→④宗善→・・・現代に続く


27.本城(片平山)26番の宗徳の長兄であった宗佑熹
弟の宗徳と共に本家から分家して片平山に屋敷を移したようである。長男であるが分家するというのは、やはり島の風習だったようですね。
宗佑熹の妻は為冝志の妹の兼という娘だったようです。為冝志の名はどこかで見た覚えがあるのですが、どのような人物であったのか思い出せませんでした。

宗佑熹には後妻がいて、名前は分かりませんが豊山家の豊嶺の娘とあります。
この後妻との間に出来た宗近という息子は、その後に豊山姓を名乗ったようです。

平安功→①宗佑熹→②宗安→宗佳→現代に続く


28.豊山(屋号不明)27番の宗佑熹の後妻との子供が分家した家
豊山家の豊嶺の娘が後妻ということですので、豊山の本家から後妻に入られたということになりますね。その後妻との息子の子孫が母の実家である豊山姓を名乗ったということです。
1800年代に豊山の本家の当主は初代と同じく豊嶺の名を名乗っていらしたということですね。

平安功→宗佑熹→①宗近→②宗重→現代に続く


29.武宮(屋号不明)宗の本家7代目の平安統惟雄の息子である平安禮が分家した家
平安統惟雄には息子が5人いたようで、その一人の平安禮が分家した家です。
武宮の姓は、本家2代目の池久保の妻が武宮大覚左衛門の娘であったので、その姓をもらったということです。

平安統惟雄→①平安禮→②平安明→③惟義→④惟定→現代に続く


30.武宮(屋号不明)29番の平安禮の息子である平安明の更に息子の玄真が分家した家
玄真は6人兄弟の2男であり、自分には息子が3名いたようです。

平安明→①玄真→②英勝→現代に続く


武宮家の平安明には玄濟という名もあったようです。平安〇という呼び方は大人になってからの名前で、玄濟は幼名だったのか?
通常家族では玄濟と呼んでいたのか?

本家筋は平安〇という名が多いため、これは想像ですが、何らかの島役人であった本家筋の人物は、一様に平安〇を名乗ったのかもしれません。薄っすらとそんな傾向が見えてきました。

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