新年早々から嬉しいことがありました。
お爺様の上花城から別れた一族の方からのご連絡でした。このブログを読んでくださり、離ればなれになっていた一族の方々からご連絡を頂けることは、本当に嬉しいことです。ことし1年も先祖探しの活動が実りあることを願って活動していきたいと思います。
昨年に続き、一族の紹介です。
21.桂(東宗:アガリゾ)宗の本家8代目平安頴善保の弟である長庵の家系
兄である平安統善保が1815年生まれですので、弟である長庵はそれ以降の生まれです。
①長庵→②久勝→③久保→④忠博→・・・現代に続く
長庵は薩摩の島津家の分家に当たる桂民右衛門という人物の家に養子に入って桂家を継いでいます。
その成り行きには、こういったエピソードがありました。
桂民右衛門が島津公の命を受けて琉球に向かっている際に、船上で病気になってしまい沖永良部島に滞在して療養することになりました。そのお世話をしたのが平安純という人物で、彼は宗の本家5代目の平安統利雄と妾の子供でした。平安純は夫婦で看病したといいます。しかし桂民右衛門の症状は思わしくなかったようで、彼はもう鹿児島には戻れないと悟り、親切に看病してくれた平安純夫妻に自分への養子を申し出たそうです。しかし平安純は他人への養子となるのは御免だと断り、その代わりに長庵が養子となったのだそうです。
桂家は宗の本家の東側に屋敷があったために、屋号を東宗と呼んでいました。
22.平良(平良俣)本家3代目平安統惟貞の妾の息子で唐通事であった
平良の始祖になるのは平安純という人物です。Vol.274で書いた逸話のある人物です。1715年の生まれで、妾の子供ではありましたが大切に育てられたようで、大人になると唐通事の勉強のために薩摩に留学し、その後は島で唐通事として活躍したようです。
小字名の雨降屋という場所に平良俣屋敷と呼ばれる家がありましたが、昭和の時代にはもうその辺りは田園だったようです。
平良の名字の由来は分かりませんが、屋号が平良俣と俣と呼ばれているので、屋敷は分かれ道のところにあり、平良の屋敷のところの別れ道ということで、平良俣と呼ばれていたのでしょう。
①平安純→②平安淳→③直政→④重照→・・・現代に続く
②平安淳の長女の松は上花城7代目佐久田の妻、③直政の妻は上花城7代目佐久田の妹です。③直政の長女の靏は上花城8代目佐久平の妻です。婚姻による上花城との繋がりが強い家です。
23.沖島(城屋)本城家からの分家の家
6番本城家の5代目平安功の次男であった曽勲が分家して沖島家を名乗った家です。ブログのVol.398で書いたように、初代の沖島曽勲の姉は土持政照の母親でもあります。先妻や後妻といった関係、養子などといったことから名字が変わったりした複雑さがあるように思えます。
明治の頃までは内城に居住していたようです。
①曽勲→②曽謙→③曽徳→・・・現代に続く
24.宗(デーク東)宗の本家7代目平安統惟雄の息子である曽健志が分家した家
分家した際に、デーク(竹)の生い茂った場所を開拓して畑とし、その地を後に屋敷とした。ちょうど世之主の城跡(現神社)と直城のあった山との間の谷間です。
①曽健志→②善賢→③ウト(婿養子をもらう)→・・・現代に続く
25.宗(デーク西)24番曽健志の次男であった善貞の家
曽健志→①善貞→②善廣→・・・現代に続く
24番のデーク東の西側に屋敷を構えたのでデーク西という屋号で呼ばれた。
こちらの子孫の方は1960年に上映されたドキュメンタリー映画「エラブの海」に子役として出演されました。